第56話「全部熱と雨と雷のせいだ」
体の怠さも、頭の熱も、この一瞬だけ吹き飛んだ気がした。
「神、白さん?」
「……ごめんなさい。突然押しかけて」
「え、え?」
「顔真っ赤だね……体調悪い時に来るべきじゃなかった。私、帰るから、お大事に」
「ちょ、ちょっと待って」
神白を呼び止める。幻覚だと思っていたが、どうやら本物らしい。
相手の足が止まる。
「あ、あのさ。その……」
言葉が出てこない。後頭部を掻いて、ぼうっとする頭で必至に言葉を紡いでいく。
「雨酷いから、雨宿り、していけば?」
☆☆☆
熱が出ているが故の大胆な発言だった。普段からこの行動力があればすでに陰キャなど卒業できるのに。
だがそのせいか、神白が帰らずに玄関に入った瞬間、安堵のせいか狭山は急激な怠さに襲われた。そして、神白に心配されながら自室に運ばれた。
片づけておいてよかったと思うと同時に、いかがわしい本などはちゃんとしまってあるかなど、どうでもいいことが脳裏をよぎる。
「ごめん、散らかってて」
「綺麗だよ。全然。いいから寝てて」
「ね、眠くはないんだ。ちょっと横になれば楽になるから……」
ベッドの上で横になると呼吸が楽になった。ふぅと息を吐き横目で神白を見る。
本当に自分の部屋に学園で一番の女子がいる。これは現実だが、鹿島やクラスの誰かに話しても、一切信じないだろう。
ふと、甘栗色の髪の毛が微かに濡れていることに気づく。
「あの、タオル」
「大丈夫。あまり濡れてないから。ハンカチで……」
雨脚が弱まっていたのか、髪と靴以外、神白はあまり濡れていなかったらしい。スクールバッグはすでに拭いており、床を濡らすまではいたらなかった。
「……聞いてもいい?」
「寝てたほうがいいよ。私、ここで待ってるから」
「眠くないからちょっとだけ話に付き合って」
狭山が咳を一度する。
「な、何の用できたの? プリント届けに来たとか?」
神白は頭を振った。
「狭山君が心配だった」
「……マジか……ただの風邪なのに」
神白の言葉に小躍りしそうなほど嬉しかった狭山だが、そんな体力はない。弱々しく嬉しい声を出すしかなかった。
「風邪の心配もしていたけど、別の話がある」
神白は申し訳なさそうに眉根を寄せて狭山を見る。
「けど、今は風邪を治すことに専念した方がいいね」
「……執事辞めたことだろ?」
神白が面食らったような顔をする。いつも冷ややかな表情が多かったため、そんな表情を見ると少しおかしかった。
「本当に、やめちゃったの?」
「どう考えても俺が悪いし、神白さんの家にも迷惑かけたから」
「お母さんが怒ったんでしょ」
「まぁ。けど純さんの怒りもよくわかる。セレブ同士の因縁とかは知らないけどさ。とにもかくにもあのパーティーで悪目立ちしたのは事実だから」
喋っていると悲しい気分が戻ってきた。あの日の光景がフラッシュバックする。
神白は、静かに頭を横に振った。
「狭山くんは何も悪いことしてない。執事を辞める必要なんてない。私がお母さんに言って取り下げる」
「……いいよ、別に。そんな図々しいことできないし、神白さんを頼り過ぎたらそれはそれで問題だろ?」
「もう執事は懲り懲り?」
狭山の口が真一文字に結ばれる。その質問に対しての答えは決まっていた。
一瞬だけ言い淀んだが、口から零れ落ちた。
「執事は……続けたいよ。働いていてすごく楽しいし、それに、神白さんの執事として働けるのが、嬉しいし」
邪な気持ちが大半ではないかと言われたら、認めざるを得ない。だがこれが本心だった。
「もっと、神白さんの傍にいたいよ」
熱のせいで心の言葉が滑り落ちていく。
狭山は自分がかなり大胆なことを言ったことに気づいていない。言葉すら覚えていない。
だがそれを聞いた神白の頬が、ゆっくりと赤くなっていった。
「……私も――」
小さな声で神白は言った。私も、以下は何を言ったか聞き取れなかった。だがハッキリとわかるのは、神白も自分を必要としていることだった。
嬉しかった。こんな自分がこんな美女に気に入られているなんて。
「……やっぱり私からお母さんに話す。私の許可無く、専属の執事を奪うことは違反だって」
「……ありがとう。ダッセェな。俺。神白さんに、お嬢様に助けられてばかりで」
「ダサくない。狭山君は、カッコいいよ」
慰めの言葉も今は嬉しかった。神白が言えば、もしかしたらまた戻れるかもしれない。
安堵のせいか腹の音が鳴った。そういえば朝から何も食べていない。
「ごめんね、狭山くん。ちょっといい」
「え?」
返事をする前に、神白の手の平が狭山の額に触れた。
白い肌に長い指から、絹のような感触とひんやりとした感覚が伝わる。熱が一気に引いていくような錯覚に陥る。
「熱いね。体温は……」
「……1時間前に計った時は38.2くらいだった」
「高熱でも食欲があるんだね……だったらすぐに治りそう。狭山くん、台所かりてもいい?」
「へ?」
「何か作るよ」
「え、え、いや悪いよ。俺が適当にやるから」
「駄目。急に押し掛けたお詫びに、お世話させて」
「……俺、神白さんの執事でしょ?」
狭山は冗談めかして言った。
「うん。けど今は大切な……友達だから」
神白は小さな笑みを浮かべた。
☆☆☆
台所と冷蔵庫、調理器具の使用に関しては許可を得ている。
神白は冷蔵庫を開け、頬を引きつらせた。
「……何もない」
冷蔵庫の中身はスカスカだった。野菜室も空っぽである。冷凍庫には少数の冷凍食品とアイスが入っていた。
困惑しながら何があるのか洗い出す。卵にハム、ウインナー。昆布。納豆1パック。そして缶ビールが数本、それだけだった。
いったいどういう生活をしているのかと困惑する。酒を見る限り一人暮らしではなさそうだが、これではあまりにも生活感が無さすぎる。
両親は働きに出かけているのだろうか。それとも出かけているのか。高校生の息子が熱を出したくらいで仕事を休んだり家にいたりするのはおかしいか。
「とりあえず……お粥でいいかな」
幸いレトルトの白飯があった。本音を言えばもっといろんなものを作ってあげたかったが、我儘は言えない。
神白は食器類を用意すると素早く作業に取り掛かった。
普段は生活のほとんどを執事とメイドに任せている。だからといって家事を疎かにしたことはない。
早く、あの家を出て一人暮らしをしたいからだ。
☆☆☆
「狭山くん、起きてる?」
お粥をのせたトレイを持ってくる。
狭山はベッドで寝ながら、スマートフォンをいじっていた。
「寝ないとダメだよ、狭山くん」
「あ、ごめん。なんか熱の時とかさ、うまく寝れなくて」
「お腹いっぱいになれば眠くなるよ」
食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。狭山は犬のように鼻を鳴らした。
「めっちゃいい匂いするわ。ありがとう。じゃあさっそく」
「うん」
神白はスプーンで粥を少し掬うと、自分の口許に持っていき息を吹きかける。冷ましているらしい。
狭山が目を見開く。その前にスプーンが差し出された。
「口開けて」
「……あ、あの……神白さん?」
「まだ熱い? 狭山くん、猫舌?」
「いやあのですね猫舌ですけどそのこれはどういうというか、めっちゃ嬉しいんですけどこれはどうかと?」
「何言っているの。はい。食べて」
「は、はい」
狭山は圧に負けて口を開ける。そこに粥が流し込まれた。
美味だった。これ以上の粥を食った覚えがない。神白綾香の補正がかかっているせいでこの世で一番だと豪語してもいい。
「めっちゃおいしいっす」
涙が零れ落ちそうだった。
学校一の美少女が風邪ひいた陰キャの俺の自宅に押し掛けて看病してくれるんだが。かっこ笑かっことじる。
売れないタイトルだ。というかこれは、ラノベでよく見る主人公とヒロインの看病イベントではないか。
鹿島に自慢したところで
「とうとう頭がおかしくなっちゃったんですか……まぁそろそろかなと思ってましたけど」
と馬鹿にされるに決まっている。
「はい、あーん」
それでもこの光景は現実なのだ。
「神様っているんだなぁ本当に」
「……熱で頭おかしくなっちゃった?」
「もうおかしくなっていいっす」
「駄目だよ。ほら。食べて」
「ふぁい」
気の抜けた声を発すると、口にスプーンがねじ込まれた。
ちょっと痛かったがもうそれだけで嬉しかった。
しばらくして粥を平らげると、狭山の意識が覚醒していった。
「うわぁ、やばい。元気になってきた」
「大丈夫? それ熱のせいでちょっとテンション上がっているだけと思うよ。寝てなきゃ」
「いや俺飯食うと体調戻るんよ」
狭山は近くに置いてあった体温計を手に取り、額と手首、両方に当てる。
37.4に下がっていた。
「ほらな」
「本当だ……狭山くん、凄い単純な体なんだね」
「うん。褒められていると思うわ。ありがとう」
すっかり気分もよくなった。大きく伸びをしてベッドから立ち上がる。
「大丈夫なの、本当に」
「うん。とりあえず、神白さんはそろそろ帰った方がいいかも」
時刻を見ると19時を回っていた。部活に入っていない彼女がこれ以上遅れるのは問題になるだろう。家のこともある。
それを察してか、神白はしぶしぶ頷いた。
「もっといてもいいんだけど」
「……俺の熱がまた上がりそうなんだよなぁ……」
「え?」
「いや、もうこれ以上朱雀院に迷惑かけられないよ。玄関までお送りします、お嬢様」
キザに言ってみると神白は口許を隠して微笑んだ。上品な笑い方だった。
1階に降りて玄関まで行くと神白が靴を履く。
「帰ったらまた連絡する」
「ん。寝てたらごめん」
「いいよ。気が向いたら返事して」
そう言って神白がドアノブに手をかけた。
その時だった。
外からの轟音が、家を揺らした。
二人が肩を上げて驚く。落雷であることはすぐに理解できたが、あまりの大きさに腰が抜けそうだった。まるでここら一帯を埋め尽くすほど巨大なハンマーが空から降ってきて、地面を思いっきり叩いたかのような衝撃だった。
「す、すげぇ雷……」
神白は険しい顔のままスマートフォンをいじる。そして小さく声をあげた。
「ど、どうした?」
「どうしよう……」
画面を狭山に見せる。
「電車……全部止まっちゃった」
「へ?」
☆☆☆
『速報です。突如として発生した巨大な台風23号は現在東京上空に停滞しており、各地で大雨洪水警報、暴風警報、雷注意報が発令されております。増水の危険性があるため海や川に近づかないようにしてください。また、さきほど東京において、複数の落雷を感知しております。この影響で各路線が遅延または運休しており公共交通に多大な影響が出ております。11月に発生した台風で日本に影響が及ぼされるのは実に――』
ニュースキャスターの声を聞きながら、ソファに座っていた狭山と神白は顔を見合わせる。
そとはバケツをひっくり返したような、いや、滝のような大雨が降り注いでいる。
『こちら渋谷駅の前です! 猛烈な雨が降り注いでおり駅構内では雨水が逆流して……』
慌てふためくアナウンサーの声が聞こえる。
「……帰れなく、なっちゃったかも……」
「……そう……っすね」
狭山のスマートフォンが振動する。父親からのメッセージだった。
『電車の運休により、本日帰れるかわからない。体に気を付けて過ごして』
雨の降る中、薄暗い家の中で、お嬢様と執事、ふたりっきり。おまけに高校生。
おまけに、互いを意識している同士。
壁にかけた時計の秒針の音が、部屋に木霊する。
「雨宿り……してもいい?」
「……はい」
熱はすっかり下がっていた。
だが。
今度は別の熱が、二人の心から湧き上がっていた。
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