第54話「ダウンプア」
「雨降ってんじゃん」
綺麗な満月が空に浮かんでいたというのに、突然カーテンが閉められたように、灰色の雲がその輝きを隠していた。
沙希は眉をひそめた。近くで用具の点検を行っていた結城はその言葉に釣られ窓を見る。
「結構強いね」
「おかしいなぁ。今日の天気、ずっと晴れだったような気がするんだけど」
二人のメイドは親友と言っていい間柄だ。メイド歴は沙希の方が長いのだが年齢が近かったため業務時間外、または休憩時間やサボり中は対等口で接し会話に華を咲かせる。仲良くなるのに時間はかからなかった。
沙希はポケットからスマートフォンを取り出す。
「沙希ちゃん、業務時間中だよ」
「誰も見ないって。純様もいないし鬼の居ぬ間に洗濯って奴だ」
「もう」
結城が睨むが意に介さず。スマホの画面を見て、目を見開く。
「マジか」
「どうしたの?」
「大雨警報出てんだけど。しかも帰りの電車が人身事故で遅延起こしてる」
「帰れそう?」
「ん~……まぁ」
「ねぇ? 明日暇?」
上目遣いで聞いてきた。輝く瞳は大変可愛らしいが、こういうのを向けてくる時は、七割の確率でオカルト系の話が飛んでくる。
「明日は、何もないかなぁ」
「じゃあ今日泊まって行かない?」
結城が住む家はここから歩いて五分の位置にある一軒家だ。何の変哲もない一軒家だが窓にびっしりとお札が貼ってあるため、道行く人には事故物件だと思われているらしい。
思いもよらぬ提案に沙希の顔が明るくなる。水も滴るいい女になる条件など揃っていないそう。
「泊まる! 久しぶりに恋バナでもする?」
「ううん! 昨日買ったばかりの超怖いゾンビ映画があるの!」
沙希はガクッと肩を落とした。昭和のバラエティー番組のようなリアクションを取ってしまった。時代が時代ならスタッフの笑い声が入ってもおかしくない。
「やっぱオカルトかぁ」
「大丈夫だよ! 私は怖がるけど、面白いらしいから! 私は泣いちゃうけど楽しめるよ!」
「なぁんで怖がりのくせに怖いの楽しもうとするのかなぁ。理解できないわぁ」
楽しむ、と言えば。沙希は雨の音が鳴り響く、薄暗い外に目を向けた。
「狭山、楽しんでるかなぁ。パーティー」
貴重な体験なのだ。美味しい料理でも神白と一緒に勝手に食べて怒られればいい。
沙希は狭山のことを心配しつつ、興奮状態になっている結城をどう鎮めようか脳味噌を絞り始めた。
☆☆☆
雨が降っていることに気づいたのは部屋に来てからだった。電気をつけてカーテンを開けた神白の前に満月は現れなかった。
さきほどの騒動の後、純と義徳以外はホテルの一室を借りて室中で待機することを余儀なくされた。流石にあのまま居座り続ける度胸も意味もなく、早々に退散するしかなかった。あの広い会場内では騒動は然程目立たなかっただろう。他愛のない小競り合いがあった程度の認識であり、すでに会場内にいる人々は騒動があったことすら忘れている可能性が高い。
「おい、狭山。しっかりしろ」
がっくりと肩を落とし、頭を垂れながら狭山が入ってきた。表情はわからないが微かに見える口許から、下唇を噛み締めていることだけはわかった。
狭山は加賀美の言葉に答えずベッドに行くと深く腰掛けた。無言で腿の上に腕を乗せ、黙りこくる。敵のバッターに打たれ続け交代を余儀なくされ、ベンチで悔しがる先発投手のようであった。
「綾香ちゃん……」
狭山を心配していると、足元から声をかけられた。美月が顔を上げ、潤んだ瞳を向けている。
「ごめんなさい、私のせいなの。ハルキ……執事は何もわるくなくて」
謝罪の言葉を口にするが、ともすれば泣き出しそうなほど声が震えていた。
神白は頭を振って膝を折り視線を合わせる。
「大丈夫だよ、美月ちゃん。誰も美月ちゃんのせいなんて思ってないから」
そう言いながら狭山を見る。反応はなかった。
加賀美がため息を吐いて向かいのベッドに座る。
「おお、柔らかいな。やはりスイートルームとなると物が違うな」
広く豪勢な室内に置かれている物は、見ただけで一級品とわかる物ばかりであった。
すべてが光沢を放っているかのようであり、ベッドの大きさも一人で寝るには広すぎるくらいだ。
だが今の狭山には、この景色を楽しむこともベッドの柔らかさに感動することもできなかった。
加賀美が頭を掻く。
「お前は何も間違っていない。確かにお嬢を放っておいたのは駄目だが、迷子の子を放置してきたらお嬢は髪の毛を逆立てて怒っていただろうな」
「そうだよ、狭山くん。何も悪いことしてないから……」
気にしないでと言おうとした時、美月が狭山に近づき、力無く開かれた手に小さな手を重ねた。
「ハルキ。ごめんなさい。私のせいで、あなたが苦労したのは事実ね。まさか友達の綾香ちゃんの執事だったなんて……」
「……」
「だから納得したわ。綾香ちゃんの執事だから、とても優秀だったのね」
美月は頑張って笑みを浮かべる。
「ありがとう、怒ってくれて。すごく嬉しかった」
純粋な感謝は狭山の心にすっと入り込んだ。顔を少しだけ上げ、力のない笑みを浮かべる。不安でいっぱいだった状態に比べればいささか気持ちが楽になった気がした。
扉が開いた。加賀美は素早く立ち上がり姿勢を正す。入ってきたのは純と義徳だった。黒のドレスを着ている純はウェーブのかかった髪を鬱陶しそうに払う。しかめっ面を隠そうともしない。
「さっきからずっと笑顔ばっかりだったから頬が攣りそうだわ」
「いえいえ。素敵ですよ純様の笑顔は。ずっと笑顔のままでいいのでは?」
「あんたのそういうナンパ気質なところは嫌いじゃないわ」
随分と明るい雰囲気の純と義徳は室内にいる全員を見る。狭山の姿を見ても特に何も言わず、純は美月に近づき笑みを向ける。
「美月ちゃん。さっきはごめんなさい。あなたのお父様とお話をして来たわ」
「ち、父は……その、失礼なことなど」
「してないわ。むしろちゃんとお話を聞いてくださって、寛大な心で許してくれたわ。むしろ落ち度があるのはこちらなの。あなたに迷惑をかけて、本当に申し訳ございません」
相手が子供だというのに、丁寧な謝罪だった。美月はどぎまぎしながらもその謝罪を受け入れる。
「それでそのハルキ……じゃなかった。狭山執事は、その」
「ええ。そっちも大丈夫。特にお咎めなんてないわ。私からも特にない。だって大事な美月お嬢様のためを思っての行動だもの。酷いことなんて言えないわ」
美月は嬉しそうに声をあげ、その言葉に狭山は顔を上げた。純は優しい笑みを向けた。
「そんな顔してないでさっさと立ち上がりなさい。朱雀院家の執事でしょ。さっき啖呵切った時みたいに堂々としなさい」
「は、はい!!」
救われた。素直に純の言葉を受け入れ立ち上がると勢い良く頭を下げた。
「本当に申し訳ございませんでした!」
「ああ、もういいわよ。謝罪の言葉は」
美月は狭山に近づく。
「よかったね、ハルキ!」
「はい……よかった、本当に……すいません。美月お嬢様の」
「お嬢様なんて付けなくていいわ。あなたは綾香ちゃんの執事でしょ? 私は、そうね……」
「……美月さん?」
「う~ん。ちゃん付けでいいよ。ありがとう、狭山執事」
美月がニコニコとした表情で言った。狭山も、笑みを向けた。二人の姿を見て神白も安堵する。
しかし、義徳と加賀美は顔を見合わせ、渋面を貼り付けていた。
☆☆☆
終わってみればあっという間だった。朱雀院家に戻った時には22時を過ぎていた。
まだパーティーは続いているのだが、騒ぎを起こした手前居座ることはよしとしなかったのだろう。純が帰宅することを決め、仲のいい企業の者たちと挨拶を交わした後はすぐに車に乗り込んだ。
美月は父親と合流し、最後まで狭山に感謝していた。手を引く父親は最後まで狭山を見なかった。
「それなりに、楽しかったのかも」
狭山は廊下を歩きながら、隣を歩く神白に言った。時間も時間であるためメイドの姿は少ない。ほとんどが純の方に行っており、神白の部屋には一人のメイドが待機しているらしい。
「……ごめんね、狭山くん。本当に、純粋に楽しんでもらおうと思っただけで……あんな辛い思いさせちゃって」
「い、いえいえ! いいんですよ! ていうかどう考えても自分の自業自得と言いますか」
自虐的に笑う。
「けど貴重な体験でした。違う世界、自分の知らない世界が広がるってああいう時に使う言葉なんだなって思いました」
「新鮮だった?」
「なにぶん初めての体験だったので……」
「お酒飲めるようになったら、また行く?」
「うーん、お嬢様の執事としていくなら、お酒は飲めないかもなぁ」
「じゃあ私の――」
言いかけて、神白は口を隠した。
狭山は首を傾げる。相手の頬が少し赤くなっていた。
「どうしました、お嬢様」
「う、ううん! なんでもない。そうだね、執事じゃ、駄目だもんね」
早口に言って視線を切ると神白は歩調を速めた。狭山は疑問に思いながらもそれに続く。
そうして部屋の前までつく。
「それじゃあ、今日はありがとう、狭山執事」
「いえ。こちらこそ、本当に色々とご迷惑を」
「もう謝らなくて大丈夫だよ! そうだ、今度沙希さんとご飯食べるときに、また今日の話しようね」
「……はい。ぜひ」
おやすみなさい、お嬢様。
そう告げて頭を下げる。神白が部屋の中に消え、扉が閉まるまでその体勢だった。
「狭山執事」
声をかけられ顔を上げる。義徳の声だった。
横を向くと、いつになく深刻な表情を浮かべていた。
「こちらへ。純様がお待ちです」
「……はい」
何の用でしょうか、とは聞かなかった。
なんとなくわかっていたからだ。
雨脚が強まっている。窓ガラスを叩くような雨の音色は、狭山の足取りを重くさせた。
☆☆☆
「何の用で呼び出されたかわかってるわよね?」
机に腰かけ、純は煙草を咥えていた。煙草を吸う女性だということを初めて知った。
「煙草の煙が駄目とか言わないでよ。イライラしている時に吸わないとやってられないのよ」
紫煙を揺蕩わせながら、鋭い視線を向ける。その奥には確かに怒りが見えた。
「あなたが喧嘩を売った相手。玄武洞って言うんだけどね。あれはうちのライバルみたいなものなのよ。ずっと昔から続く商売のライバル。先々代の時は流血沙汰まで起こったわ。だから朱雀と玄武は互いに過度な干渉をしないように仲良くやりましょうってことになっていたの」
純は煙草をふかす。
「まぁこれに関してはしっかりと説明してなかったこちらも悪かったわ。まさか玄武洞が招待されているとは思わなかった。だから相手が勝ち誇ったような笑みと視線を向け続けるのは耐えたわ。ただ……」
灰皿に煙草を押し付けると純が狭山に近づける柳眉を逆立てる。
「喧嘩売るならもっと場所を考えなさいよ。あんた言われてたわよね? 誰にも干渉するなって。――義徳!!!」
「はい」
「ちゃんと教えたんでしょう?」
「はい」
「できてないじゃない!! 適当に指導してんじゃないわよ! 高校生だから大丈夫だと思ったの!?」
「申し訳ございません。私の判断ミスです」
義徳は頭を下げた。
「だいたいあんたもあんたよ、狭山。高校生にもなって自分の感情を押し殺せないわけ? どこで騒いだらいけないか判断できないの? あなたの胸中には「お前らが勝手にパーティーに誘ったんだろ」って思っているかもしれないわね。けど私たちは聞いたわ。「本当に出るのか」って。あんたはそれに乗ったんでしょうが。どういう相手が来るかも聞かされたうえでもう一回こっちは聞いたわ。それでもあんたは来るって言ったんでしょう?」
狭山は黙るしかなかった。純は舌打ちした。
次の瞬間、ネクタイを掴みそうな勢いで狭山に人差し指を向ける。
「ならしっかりと決め事を守れ!! 金払ってんだよこっちは! お前が騒いだせいでどれだけの人に迷惑がかかったと思っている! 協力している企業の連中が私に不信感を抱いていたわ。突っかかった相手が玄武で、むしろよかったわよ。これが白虎蓮だったりしたらもう目も当てられない」
「……本当に、申し訳――」
「黙れ。お前の謝罪なんて聞いても何の得にもならない。意味もない。時間の無駄よ」
狭山は口を噤んだ。純は前髪を上げため息を吐いた。
「まぁちょうどいいわ。責任って言葉くらいは聞いたことあるでしょう。あなた、執事辞めなさいな」
「純様」
「今回の件で反省したあなたが自主的に辞めた、って筋書だったら綾香も納得せざるを得ないでしょう」
狭山はぐっと言葉を飲み込んだ。ここで言い返したら火に油だ。
「純様。お待ちください」
「義徳。あなたも黙りなさい。この状況であなたの意見を聞けるほど、私は優しくないわ」
今回の件は本当に問題だったのだろう。助け舟を出そうとした義徳は口を噤んだ。
「貧乏なくせに片親だからこういう不出来な子ができちゃうのかしらね」
狭山が下唇を噛み、拳を握る。自分の思いが心臓からこみ上げ、純を睨んだ。
相手は冷ややかな視線を向けていた。それは、神白綾香が興味のない相手に向けていた視線そのものだった。
氷柱のように鋭く冷たい視線に、狭山の言葉は喉奥で止まってしまった。
さらに文句を言えない立場であり失敗のことも後押しし、自分の気持ちは、殺すしかなかった。
「……わかり、ました」
震える声で告げる。
「辞める時の言葉教えてあげる。理由をちゃんと言うことよ」
純が新しい煙草を咥えながら言った。
やっぱり自分に、こんなこと不可能だったのだ。
「私は……業務についていけません……なので」
声が震える。
もっと神白と仲良くなりたい。
きっと、自分の立場も考えずそんな高望みしすぎな思いを抱いた罰なのだろう。
もうどうでもいいのだ。
狭山は深々と頭を下げる。瞳が潤み、一滴の水が零れ落ちる。
「執事を……辞めさせて、ください」
色々な自分の思いを掻き分けようやく出てきたのは、自分が最も口から出したくない言葉であった。
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