第53話「玄武洞」
神白は狭山が出ていった会場入口をしきりに気にしていた。空のグラスを持ち壁近くにある椅子に座る。
「おひとりですか、お嬢さん」
声をかけられ顔を向けると、見知らぬ男性が立っていた。年は若そうだが軽薄そうな雰囲気を身に纏っているのがひしひしと伝わる。白いスーツがそれを引き立たせているようだった。
顔も名前も知らない相手であるため視線を切る。
「ああ。名乗るのが遅れましたね。自己紹介も兼ねて、よろしければ近くの小部屋で」
「加賀美」
神白が声を出すと、男の前に巨大な壁が出現した。男は目を見開いて顔をあげていく。
強面の男が眉間に皺を寄せ見下ろしている。さながら、鬼の形相だった。
「また今度にしていただけますか?」
「は、はい」
蚊の鳴くような声で言うと、男はそそくさと退散した。ヘビー級ボクサーの体格にスーツ姿の加賀美に、毅然とした態度で立ち向かえる男など、この会場には数人といないだろう。
加賀美は周囲を警戒しつつ、物憂げにため息を吐く神白に声をかける。
「やはりあの子を連れて来たのは愚策だったな」
「む」
神白が膨れっ面になり加賀美を睨む。
「俺は警告したぞ。お嬢が電話をかける直前までな。お嬢の気持ちは理解できるが、ここに連れてくるのは間違いだと」
「今更そんなこと言わないでよ」
「こちらもできる限りはサポートしている。だが彼とお嬢では住む世界が違い過ぎる。お嬢は彼の気持ちを考えなかったのか?」
「……考えてたよ」
「その結果、狭山は嫌気が差してホテルから出て行った可能性が高い……そう思って勝手に不安になっていると」
神白が押し黙った。
「お嬢は我儘だな」
「うるさい」
「純さんとそっくりだ」
「やめてよ。あんな人と一緒にしないで」
このままでは加賀美に諫められるだけであった。神白は立ち上がって空のグラスを押し付ける。
「狭山くんを探しに行く。着いてきて」
「仰せのままに」
わざとらしいお辞儀を無視し、神白は近くの扉から廊下へ出ていこうとした。
「ん、お嬢」
扉が開いたのと同時だった。加賀美が対角線上の扉を指差す。
そこには狭山と、見覚えのある金髪の少女が会場に入ってくるのが見えた。
☆☆☆
絢爛たる世界が再び広がり狭山は辟易した。この世界を見る度に、自分がいかに底辺の世界で暮らしていたのかをあらためて認識される気分だった。
行き交い、言葉を交わす人々の顔は全員晴れやかだ。ちょっとの努力とお洒落では足元にも届かないほどの開きを、狭山は感じていた。
その時ふと、狭山の視線が一点に絞られた。
「どうしたの、ハルキ」
「いや、あれさ」
狭山が指を差した方にいたのは、女優の海東澄玲であった。年は今年で40になるが、まだまだ若々しい雰囲気を身に纏う、元宝塚劇団のトップスターだ。
女性ながら身長が180センチを超えており、ズボンタイプの黒いパーティドレスが非常によく似合っていた。
「ああ。この前テレビにも出てたわね、あの人」
「うわ、すげぇ! マジか……澄玲さんじゃん」
「知り合い?」
「んなわけないだろ。ファンなだけだよ」
興奮した狭山は口調も忘れて目を奪われていた。歩く姿と挨拶を交わす澄玲の表情は非常に絵になっていた。
美月はそんな狭山を見ながら「ふーん」と声を出す。
「話しかけてサインでも貰って来たら?」
「ば、な、無理だろ! 難易度が高いというか恐れ多いというか」
「なんで? だってあなた、バトラーとはいえこのパーティに来ているじゃない。少なくとも話しかけるくらいの権利はあるわ」
「……そう、なのかな」
一瞬邪な考えが過ぎる。だが狭山は頭を振った。
「また今度にするよ。今は、美月お嬢様のお父様を見つけないと」
「あら。若いけど物事の分別はついているみたいね。感心だわ」
気を良くした美月は笑みを見せる。喋り方は大人びているのだが、笑うと少女らしい。
狭山は再び周囲を見渡した。チラホラと著名人の顔が見えた。
「こんな場所通れるか」
「う~ん、いないなぁ」
「とりあえず動くしかないか……美月お嬢様。あまり目立ちたくないんで、ちょっと外周歩く感じでいいですか?」
「いいわ。エスコートしてちょうだい」
美月が手を差し出した。狭山が疑問符を浮かべる。
「エスコート!」
「え、いや、手を繋ぐってことですか?」
「それ以外何があるのよ」
戸惑い、少し視線を逡巡させた後、小さな手を握った。
美月の顔に微笑みが浮かぶ。心なしか、頬に朱が混じっているように見えた。
「行きましょう」
「ええ」
二人はなるべく人混みから離れ、外側を歩く。視線を向ける者はいなかった。全員がギラついたような瞳で誰かと話している。どこか異様な光景だった。
壁近くにあるソファに座る老人がチラと狭山を見て、鼻で笑った。
「そんなにおかしいかよ」
「どうしたの?」
「……その、美月お嬢様から見て、俺ってどうです?」
「どうって?」
「このパーティに相応しいかどうかです」
「そうね。ちょっと背伸びしている感じはあるけど、様になってるわ。貴方、結構いい男なんだから胸を張って歩きなさい」
こんな小さな女の子の誉め言葉だと言うのに、狭山の心に自信が湧いてきた。
その時、美月が立ち止まった。
「お父様」
視線を美月が見つめる先に移す。青色のストライプ柄のスーツを着た男性が見えた。
センター分けにしたツーブロックにパーマを巻いており、高身長で身形がいい。グラスを持つ手から覗く金色の腕時計が彼のステータスを物語っているようであった。
しかし美月に似ていない。完全に日本人だ。美月はハーフで、母親似だということを今更ながら理解した。
父親はしきりに周囲を見ていた。きっと美月を探しているのだろう。狭山は手を離し、美月に笑顔を向ける。
「よかったですね。すぐに見つかって」
「……うん」
浮かない顔だった。狭山は疑問に思ったが先導し父親に近づく。
声がかかる距離まで来て、美月が父親を見上げた。
「あ、あの、お父様」
視線を美月に向ける。
「……ん、ああ、美月か」
それだけ言って再び周囲を気にし始めた。次いで顔を明るくし、ある人物の元まで近づいていく。
「お久しぶりです」
若い女性に話しかけた。女性は顔をパッと明るくする。
「文治さん! この前はありがとうございました。おかげでうちの来客管理が楽になりましたよ」
「いえいえ。こちらはシステムを提供しただけで」
「いや、本当に頭が上がりません。あ、お子さんが話しかけたいみたいですけど……」
女性は心配そうに美月を見ながら言った。美月は胸元に両手を当ててしどろもどろになっている。
その時、父親、文治が一瞬だけ冷めた目で美月を見た。
「今大事な話をしているんだ。何処かに行ってなさい」
冷たい声だった。感情も何もない。
美月は頭を下げて縮こまってしまった。あの元気で可愛らしかった姿からは想像もできないほど、弱々しくなってしまった。
「そんな言い方ないでしょう」
狭山の口から言葉が零れ落ちていた。無意識だった。だが自分の思いを込め、掴みかかる勢いで距離を詰め言い放っていた。
それなりに大きな声だったため、女性と、周囲の注目が狭山に集まる。次いで文治が横目で狭山を睨んだ。
だが顔を見ると視線を切り、美月を見下ろす。
「母さんがいなくなって、まだ寂しいのはわかる。だけどここは遊びの場じゃないんだ。美月は頭がいいから理解できるね」
美月はドレスを握りしめ、消えるような声で。
「はい……ごめんなさい」
と言った。
文治はそれを聞いて満足そうな表情になると女性に向き直った。
「失礼。娘が我儘を」
もはや狭山の存在など忘れ去られているだろう。狭山は美月に近づこうとする。
「い、いえいえ。流石文治さんですね。娘さんもしっかりとされてますし」
「ええ。自慢の娘です」
自慢の娘。
「……ざけんなよ」
狭山の腕は文治の肩を掴んでいた。力を入れ、相手の顔が見えるよう引き寄せる。
気付いた時には、視線が合っていた。だが狭山の怒りの表情は治らなかった。
さきほどの文治の言葉から美月が片親であることがわかった。そのため、美月の寂しさが手に取るように分かった。
だというのに、この父親はそれを理解していない。迷子になっていた娘の心配すらしていない。
だから怒りが湧いてきたのだ。
ただ飯を食わせれば親になれると思ったら大間違いだ。
「ふざけんな」
「……何?」
「あんた自分の娘のことしっかり見ろよ。迷子になってようやく見つけたのに、そんな言い方ねぇだろ。せめて近くに置いてやれよ。賢い娘さんなんだから、あんたの邪魔なんてしないだろうが。邪魔になると思ってんのはあんたが勝手に思っているだけだ」
一気にまくしたてるように言い放った。周囲の人々の視線が集まる。
女性の顔が青ざめ、両者を見比べる。
文治が眉間に皺を寄せた。
「何だ、キミは? さっきから突っかかってくるじゃないか」
狭山の手を払いスーツの襟を正す。
「……お前、執事か。胸ポケットにこれ見よがしにハンカチを入れている分際で、誰に掴みかかっているのかわかっているのか」
圧が凄まじかった。この場所にいるということは、それに相応しい存在感と力を持っているのだ。
狭山は一気に頭が冷え、足が竦みそうになる。いつの間にか周囲から音が消え、両者を囲うように円ができ始めていた。
「所属を言え。生意気な執事を雇う人間の顔を拝んでやる。舐めた口をきいてくれた礼をしようじゃないか」
「私ですよ」
視線が集団を掻き分けて現れた神白に注がれる。次いで加賀美が姿を見せた。
「神白……綾香? 何? 朱雀院の執事なのか」
文治の目の色が変わった。
「だったらどうしたというのです」
「いや。中々に舐めたことをしてくれと思ってね。私が玄武洞の人間だと知ってのことかもしれないが」
神白が鋭く睨む。対し相手は勝ち誇ったように笑みを浮かべ、狭山を顎で指した。
「朱雀院家の人間はまともな執事を雇うこともできなくなったのか。こんな教養もなければ態度も悪い男を雇うとは。こんなパーティに出席してないで、まともな教育をしていたらどうだ?」
「文治」
挑発的な発言をしていた文治が言葉を止める。
群衆の道が開き、純と義徳がその間を歩く。
「どうも、ありがとうございます」
純は周囲に礼を言って美麗な笑みを振りまきながら近づく。
「これ以上ここで言い争うのは無意味です。悪い意味で注目を集めているので、双方に利益がありません」
「最初に喧嘩を売ってきたのはそっちの執事だ」
「そちらの態度も問題があると思われるので、どうでしょう? 場所を変えませんか。私とこの老人相手に話すだけです。”ご安心ください”」
頭を下げる純に対し、顎に手を当ててしばらく沈黙した文治は「いいだろう」と返した。
顔をあげた純は礼を言うと踵を返し、神白に向き直ると鍵を渡した。
「しばらく向こうの”ご淑女”と一緒にいなさい」
「お母――」
言葉を遮り、小声で言った。
「それと、その執事の処遇についてはあとで話すわ。目を離すんじゃないわよ」
そう言い残すと純と義徳は文治と共に何処かへ向かった。
群がっていた者たちは興味が失せたように掃けていく。
「……とりあえず移動しよう」
神白が優しい声で諭すように狭山に行った。美月も心配そうに狭山を見る。
狭山は顔が青ざめ、頭の中が真っ白になっていた。
ただ自身の呼吸音だけが、嫌に大きく聞こえていた。
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