第51話「バトラーのレギュレーション」
天を衝くような建物だった。元々田舎出身であり中学生の頃都会に来た狭山にとって、東京の建物は未だに見慣れない。車は吸い込まれるように建物の前へ進んでいく。前方に数台車が止まっているのが見えた。
「狭山執事。これから建物の中に入る」
減速しながら加賀美は言った。
「ロビー前に車を止めたら、すぐに降車してお嬢が出られるよう扉を開けろ。当然、ロビー側の方だ」
まるで映画で行うセレブの送迎のようだと思った。狭山は小さく頷く。
「それからは俺もついていく。お嬢を中心に、俺たちで斜め後ろに着くのが基本的なポジションだ」
「わかりました」
「会場での対応は基本的にお嬢が行う。だが金持ちは面倒くさいのが多い。特に純の姐さんは業界でそれなりに名が通っているしな。少しでも朱雀院家の弱点を見つけようとすり寄ってくる連中が多い」
バックミラー越し狭山を睨む。
「お前に話しかけられる可能性があるが、基本的に黙ってポーカーフェイスを貫け。喋っても名前の紹介と執事であることを喋って頭を下げろ。わかったな」
「は、はい」
「下手な対応したら」
「加賀美さん。心配しないで。私がサポートするから」
言われて、狭山は少し情けない気分になった。綾香を守るべき立場なのは自分なのだ。
「……お嬢。あなたの専属執事を信用するのも、主の務めでは」
「え?」
「お友達としてきているのか、執事としてきているのか。狭山執事の気持ちを考えればわかるはずだ」
ハッとした神白は狭山を見て、申し訳なさそうに眉を伏せた。
「ごめんなさい、狭山くん」
「い、いやいや! 気持ちは嬉しかったです。マジです。めっちゃ頑張ります!」
「……その言葉遣いがバレないといいがな」
前方の車が動いた。車が少し進むと頭を下げながら警備員が近づいて来る。
加賀美は窓を開けた。
「朱雀院だ」
警備員は加賀美の顔を見た後、後部座席に座る2人を見ると、誘導を始めた。
広いロビーが奥に見える正面玄関に車が止まる。ロビーに目を奪われていた狭山は対応が遅れた。
「狭山執事」
「え、あ!」
慌ててシートベルトを外し外に出る。駆け足でトランク方向から回り込む。
「走るな……と、言い忘れていたな」
バックミラーに映る焦った表情の狭山を見て頭を振った。
狭山は扉を開ける。次いで神白の長く美しい足が外に出され、体が車内から出てくる。
その美貌と色気は、高校生という枠を逸脱していた。20歳前後と言われても納得してしまうほど大人びている。狭山はその姿に見惚れていた。
神白が歩き出しても、狭山は視線だけしか送っていなかった。
「狭山執事!」
運転席から出てきた加賀美の声を聞いてようやく狭山は動き出した。指示通り神白の斜め後ろに着く。後れて加賀美が来た。後方で車に乗り込むホテルの従業員が見えた。
3人はロビーに入る。扉が開いた瞬間狭山は圧倒された。ビジネスホテルくらいしか来たことがない狭山にとって、その空間は広すぎた。
和と洋が融合したモダンな内観のラウンジとグリーンの植物によって作られた、壁のオブジェクトが目を引く。静かな空間だが、賑わっているのもわかる。
「いらっしゃいませ、神代綾香様」
話しかけてきたのはオールバックのホテルマンだった。黒と金を基準とした派手なユニフォームは、浅黒い肌に長身の彼にとてもよく似合っている。
「母は先に向かってます」
「承知いたしました。会場へはこの後すぐ」
「向かいます。荷物もないですし今日で帰るので」
ホテルマンはスマートな所作で頭を下げると案内を始めた。
狭山はエレベーターに向かう間に、数名の視線を感じた。学校では目立たない存在だからか、狭山は他人の視線や話し声に敏感だった。
「背筋を伸ばせ」
小さく加賀美が指示を出した。狭山は慌てて顎を引いて背筋を伸ばす。
慣れない場所と雰囲気に、基本的な所作を忘れていた。ということは入ってからずっと、背中が丸まっていた可能性がある。見られるのも当然だった。
ショックを感じながらエレベーターに乗ると、ホテルマンがボタンを押した。階数を示すランプの”23”が光った。
「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」
ホテルマンが小さく頭を下げて言った。
「再び綾香様とお会いできて光栄です」
「去年ぶりでしたね」
「ええ。半年前は体調が優れなかったと聞いておりましたので、従業員一同心配しておりました」
ホテルマンの瞳が狭山を捉える
「1年経てば顔ぶれが変わりますね」
「そうですね」
「随分と、お若い執事ですね。仕事ができるようで羨ましい限りです」
その言葉は確かに狭山に向けられていた。どうしていいかわからず、狭山は小さく頭を下げた。ホテルマンはクスリと微笑むだけだった。
指定の階数に着くと、到着を告げる音が鳴り響き扉が開いた。ホテルマンの誘導に従い廊下を進み、扉の前まで来る。
「それでは、ごゆるりとお楽しみくださいませ」
「ありがとうございます」
神白は扉を開けて中に入った。狭山も続いて中に入る。
会場は白とダークブラウンを基調としたシックな空間だった。清潔感が漂い美しい装飾品が目を引く。立食型とテーブル型の二つが設けられており、どこ見ても人がいた。
狭山はふと壁際の人々に目を向ける。加賀美のようにガタイのいいスーツ姿の者たちが多く並んでいた。恐らく他の企業のボディガードなのだろう。
狭山は自分の場違いさをひしひしと感じつつあった。
周囲を見ていると神白に近づく一人の影が見えた。初老の男性だ。白髪交じりの髪を七三分けにしており、丸顔に腹がでっぷりと出ている。身長は狭山よりも低く、額には脂汗が滲んでいた。
「おお! 綾香ちゃんじゃないか!」
「お久しぶりです、須川様」
神白は笑顔を浮かべて頭を下げた。須川と呼ばれた男性は頭を振る。
「あ~、そんなかしこまらなくていい。純さんは?」
「……違うところから入っているかもしれません」
パーティ会場の出入り口は非常時の際に備えて複数ある。純は既に別口から入場しているだろう。
「そうか。なら話がしやすいなぁ。一応先月も手紙を送ったが、あの件については考えてくれたかい?」
「いえ。私は、まだ高校生なので。未成年の身であのような話は」
狭山は神白の横顔を見た。無理をして笑っているのがわかる。
須川は不服そうに鼻を鳴らした。
「そうか。君にとっても家にとっても悪い話じゃないぞ。一度息子に会ってくれ。私に似て男前だぞ」
須川は豪快に笑う。煙草を吸っている人間特有の、黒ずんだ歯が一瞬見えた。
「そうですね。機会があれば」
「うん、考えておいてくれ。今度お邪魔しようか。これからも御贔屓に」
脂ぎった手が差し出された。神白はニコリと笑って握手に応えると、須川はその場から去った。
そこでようやく、神白の肩が震えているのがわかった。
「お嬢様」
話しかけると神白はチラと狭山を見て、弱々しく笑みを浮かべる。
「ごめんね。大丈夫」
何がごめんで、何が大丈夫なのか。意味がわからなかった。
ただわかったことは、神白の顔色が少し悪いということだけだった。
それからは大量の人々が挨拶にきた。朱雀院家はそれほど上の立場にいるわけではないらしいが、この数を見ると、その言葉も嘘に感じる。
時折、狭山でも知っている芸能人やスポーツ選手が挨拶に来たとは、流石に顔が強張り背筋に汗が伝った。
自分と違う世界に生きている人々しかいない。狭山は顕著に、神白との差を感じていた。
「……ところで、そこの執事」
狭山は肩を上げて視線を向ける。
視界に入ったのはスキンヘッドに大柄の男性だった。名前は忘れてしまったが、そのガタイと顔から、ボクシングの選手であることを思い出した。
「随分と不愛想だな。若いんだ。もっと笑顔で楽しもうぜ」
ぐいと、瓶ビールが差し出された。
「トキさん。彼は未成年なんで」
横から加賀美が口を挟んだ。
「あぁ? カガミっちゃん、それマジで」
「……本当です」
「ほほう」
トキの目は神白と狭山を交互に見た。
「なるほどねぇ」
「トキさん」
「わぁってるって。いやぁ若いっていいねえ。ただよぉ、実力が伴ってない子を連れてくるのは違くねぇか?」
狭山がどういうことかと思っていると、トキは人差し指を狭山に向けた。
「さっきまで俺が何を話していたか思い出せるか?」
低い声と鋭い視線に圧倒され、狭山は押し黙ってしまう。トキは鼻で笑った。
「まぁ頑張れや、”兄ちゃん”」
もはや礼節もない言葉遣いだった。トキが離れていくと、神白は心配そうに狭山を見た。
「大丈夫?」
相手は実力不足を見抜いてた。どんどん、胃が痛くなる。
自分がここにいる意味があるのか、どうしてここに呼んだんだ、と頭の中が混乱し始める。少し油断すれば、神白にそれを大声で言ってしまいそうだった。
グッと飲み込む。そのせいで、喉奥がつまる。徐々に胸が苦しくなってくる。
時折聞こえてくる笑い声に煌びやかな世界、料理と酒の匂い。
すべてが、今の狭山にとっては毒そのものだった。
「……して」
どうして俺を呼んだ。セレブと庶民の違いを見せつけたかったのか。それとも嫌がらせか。
浮かれていた過去の自分と不安、さらに疑問が重なり、口から声が零れ落ちていた。
神白は眉根を下げた。
「気にする必要、ないよ? あの人、誰にでもあんな態度だから、大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間、泣きそうになった。
主に気を遣われた。神白に気を遣われてしまったのだ。
途轍もない恥ずかしさと情けなさが、狭山を襲った。
「狭山執事。一度顔を洗ってこい」
加賀美の言葉を聞いて、狭山は頷くと踵を返した。
「お前は何も悪くない。だからすぐに戻ってこい」
小さな励ましの言葉は、スッと胸に入った。
狭山の目尻に涙が浮かんだ。
★★★
鏡に映る自分の顔は、酷い物だった。青ざめているどころかゲッソリとしている。
「何で俺、こんなところにいんだよ……」
投げやりな口調で台に両手をつく。さきほどからずっと同じ疑問が浮かんでいる。
どうして神白は自分を呼んだのだろう。やはり、当て付けだろうか。
「調子に乗らないで。あなたとは住む世界が違うの」
氷柱姫(神白)の冷たい罵倒が聞こえてくる。
こんなわざわざ、場所を使った嫌がらせをしてくるだろうか。そこまで酷い女性だろうか。
狭山は顔をハンカチで拭くと、ため息を吐いてトイレを出た。戻りたくない。そう口許を動かした時。
「キャッ!」
甲高い声が聞こえたと共に、脚に衝撃が走った。
視線を下に向けると、ピンク色の派手なドレスに身を包んだ少女がいた。ウェーブになった金髪のロングヘアは光沢を放っているようだった。
少女が顔をバッと上げ、キッと狭山を睨む。明るい緑色の瞳と顔立ちから、外国人だと察した。
しばらく時間が経過すると、少女が口を開いた。
「ちょっとあなた! バトラーのくせに淑女に手も差し伸べないの!? 誰のせいで転んだと思っているのかしら」
流暢な日本語が返された。
「あ、えっと、大丈夫です、か」
手を差し伸べると、満足したのか少女はふふんと鼻を鳴らし、手を取って立ち上がる。
「まったく! 私に見惚れるのはいいけど」
少女は人差し指を立て、柳眉を逆立てて言った。
「バトラーのレギュレーションは素早く、それでいて優雅にこなすべきだと思うわ」
「も、申し訳ございません」
「もう、本当に反省……あら、あなた」
少女は小首を傾げる。
「顔色が悪いわよ。大丈夫?」
さきほどとは違う、優しい声色だった。
「だ、大丈夫です。申し訳ございませんが、俺……じゃなかった、私はこれで」
だが狭山はこれ以上関わるとマズいと思い、適当に答えて踵を返そうとする。
「待ちなさい!」
少女が声を荒げた。
「困っているレディーを、このまま放っておくつもり?」
今にも鼻を鳴らしそうな表情を浮かべ、少女は自分の胸元に手を当てた。
「……え?」
狭山の混乱した頭の中は、謎の少女によってすべてが上書きされてしまった。
すぐに戻って来いという、加賀美の言葉と共に。
代わりに浮かんだ言葉は、面倒なことに巻き込まれた、だった。
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