第36話「白」
「じゃあ、また明日」
駅のホームで神白は狭山に言った。
「うん、また明日」
「変なのに襲われんなよ、綾香」
寅丸がぶっきらぼうに言う。その声色には確かに優しさがあった。
短く返事をすると神白は背を向け改札口を通った。一度も振り向きはしなかったが、その背中を狭山は、見えなくなるまで黙って見つめていた。
「じゃあ私たちも帰るか」
「そうですね。狭山くん、行きましょう」
「ああ」
踵を返す。同時に頭にある考えが浮かぶ。
もし自分に自信があったのなら、明日ここで待ち合わせしようと声に出せていたのだろうか。いや相手が改札口を通る前からその考えはあったはずだ。
言えなかったのは、自分に勇気がなかったからだ。
地味な男でいると、一生このままかもしれない。
「あのさ、鹿島」
「はい?」
駅から出ると狭山は前を歩く鹿島に声をかけた。
「俺ってやっぱり地味だよな」
「そうですかね? 普通ですよ」
「地味だよ地味! めっちゃ! 普通以下」
寅丸がケラケラと笑った。少し前までなら心の中で悪態をついていたが、今は異性の正直な意見がありがたかった。
「大牙……」
「んだよ。怒るか? 事実だろうが」
「そうだ、事実だよ」
寅丸が横目で狭山を見た。
「だからさ、カッコよくなってみようかな、って、思うんだけど」
「……そう思えるだけで既にカッコいいですよ?」
鹿島が笑みを浮かべて言った。それは小馬鹿にしているわけではない。その心意気を称賛する讃美の微笑みだった。
寅丸が鼻を鳴らす。
「聖に言われたこと気にしてんのか?」
「……まぁ。事実かなとも思ったし。神白さんの隣歩いていると確かに不釣り合いだよなぁって思ってさ。でも」
狭山は頭を振った。
「なんでかな。それが嫌なんだ。釣り合ってなくてもいいから、「神白さんの隣にいてもいいかな」って言われるくらいには、なりたいかも」
自信なさげな声だった。自分がなぜそう思うのか、それすらもわかっていない男の言葉。
だが寅丸が喉奥を鳴らす。
「いいじゃん。頑張れよ。無駄な努力だと思うけど。綾香とお前じゃレベル違うから無理だよ」
「でも近づけるでしょう?」
鹿島の反撃に、寅丸は何も言い返さなかった。
鹿島が狭山の隣に立つ。
「彼女なりの応援なんです」
「あれが!?」
「わかりづらいでしょう。素直に頑張れ、って言えばいいのに」
「うるせぇよ。そんな地味オタク陰キャ、応援する気になるかっつうの。せめて体鍛えとけよお前。いざという時に綾香守れなかったら後悔するぞ」
寅丸は吐き捨てるように言うとずんずんと前に進んでいく。鹿島を横目で見ると、肩をすくめた。
「ね?」
狭山は寅丸という少女が本当に難しい性格をしていることを、ここで初めて知った。
同時に、噂で聞いているほど、危ない子でもないと思えた。
☆☆☆
「ただい……」
玄関の扉を開けていつも通り、誰もいない家に向けて帰宅を告げようとした時だった。
三和土に革靴が置いてあった。見たことは何度もあるが自分のではない。
狭山の顔に影が差す。靴を乱雑に脱ぎ廊下を進みリビングに行くと、薄暗い部屋でテレビを見つめていた男がいた。
ソファに座っていた男は音に気づき、首から上を動かし、狭山の方を見る。
相変わらず顔色が悪い、白髪の酷い男だと狭山は思った。
以前会った時より痩せており、頬が若干こけているようにも見える。少し前までは元気溢れていた中年だったというのに。
男はゆっくりと立ち上がった。
「……お帰り」
狭山は視線を下から上に動かす。
ビール腹だった不健康な体も、酷く痩せ細ってしまっている。
それが無性に悲しかった。
もう気にする必要なんてないんだと、声をかけたかった。
「……うん」
返事をすると、父親の強張った顔が少しだけ緩む。
「……今日は、そうか。遊んできたのかな?」
「……まぁ。寄り道した感じ」
「そうか」
会話が途切れる。父が後頭部を掻く。薄くなった髪が搔きむしられる音がする。
「その、お金とかに困ってないか? 何かできることがあったら」
「ないから。大丈夫だよ。もう、帰っても大丈夫だから」
それだけ言って視線を切った。これ以上、父の悲しげな姿を見たくなかった。
逃げるように2階に上り自分の部屋に入りため息を吐く。気分を紛らわすように狭山は勉強机の上に置いてあったファッション雑誌を手に取り、ソファに深く腰掛ける。沙希から言われた雑誌だ。
ぺらぺらとページを捲っていく。ファッション雑誌に載っている男性は、どれもこれも輝いて見えた。自信という物が顔から滲み出ている。
”一般人の素敵モテファッションを取材!”というコーナーに入る。モデルでもない男性たちが映る。確かにモデルとは少し雰囲気が違うしオーラもないように感じるが、非常にカッコよく映った。
カッコいいのだ。だが、これなら自分でもできるかなという根拠のない自信が出てくる。
それぞれのファッションの総額と、パーツがそれぞれいくらかかっているかが下部に記載していたため確認してみる。
「え……こんなにかかるの?」
今まで自分が着て来たのは大衆向けの、安物だ。2980円のTシャツだ。だが彼らの着てる服は”万越え”がデフォルトのようになっている。
表紙を確認する。「高校生にもオススメ」。学生にもリーズナブルな価格のファッションご紹介。
「嘘じゃん」
学生ってそんなに稼げるの、とツッコミを入れてしまう。狭山は頭を抱えた。とてもじゃないが自分の稼ぎでは買えない。
見た目を変えるために、いきなり”金”という大きな壁に直面した狭山の脳裏に、1階にいる父の姿が思い浮かぶ。
今ここで、あの人を頼ってもいいのだろうか。
別に恨んでいるわけでも怒っているわけでもない。頼っていいだろうと自問する。相手もそれで気が紛れるかもしれない。
狭山は頭を振った。こんな形で父を頼ってどうする。
稼ぎがないなら稼げばいい。
そのための、執事バイトなのだから。
雑誌を置いて着替えようと立ち上がる。着替えている間頭の中に浮かんだのは神白の美しい姿と。
母を間接的に殺してしまったと思い込んでいる、父の悲し気な顔だけだった。
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