第28話「結局真面目に仕事やるだけ」
朱雀院家は巨大な屋敷であり3階構造であるため、窓の数は大量にある。そのため窓掃除を行うだけで1日が潰れることは必至である。そういうこともあって、掃除を毎日行う必要性などない。
しかし例外として、2階の窓、廊下だけは常に清潔を保たなければならない。純の私室と専用の書斎、仕事場として使っている部屋がある2階に集中しているからだ。
階段を上った沙希は廊下の奥へと進んでいく。狭山はその背中に黙ってついていった。もし義徳と一緒だったら、すでに冗談の一つや雑談を交えていただろう。
だが初見である沙希とは、そんな距離感が近いやり取りはできない。というより雑談などする方が間違っているのではと狭山は思った。
「あ、あの……」
それでも沈黙に耐えられず、狭山は話しかけてしまう。もしかしたら、義徳並みに気さくな人かもしれないからだ。
「なんでしょうか」
「あ。泉さ……先輩? はその、アルバイトとかではなく……」
「私の身の上話をする必要が、今ありますか?」
冷ややかな返事だった。
「い、いえ。すいま――」
「狭山さん。あなたにとっては給料のいいアルバイトかもしれませんが、それでも仕事です。集中して真面目に取り組んでください」
「は、はい、すいま――」
「雑談などしているところを見られたら、私が怒られてしまいます。気安く話しかけないよう、肝に銘じてください」
「……すいません」
「返事は「はい」でしょう」
「……はい」
消え入りそうな声で狭山は言った。何とも冷ややかな声だった。神白とは違う冷たさだった。軽蔑と敵意を混ぜたような声。
クラスの女子ともまともに話したこともないのに、見ず知らずの女性に声をかけることなど早すぎた。
すっかり肩を落としてしまった狭山を肩越しに見た沙希はフッと鼻で笑う。
情けない顔で下向くなよ、と言いたかったがグッと堪える。
しばらく廊下を歩いた後、沙希が立ち止まる。
「それでは、狭山執事」
右手に持っていた青い小さなポリバケツを床に置いて狭山を見た。
「は、はい! なんでしょうか」
「おかしな質問かもしれませんが、窓拭きの経験はございますか?」
沙希は狭山に目もくれず、ポリバケツの中からゴム手袋を取り出し、両手に装備する。
「えっと、学校の掃除くらいなら」
「雑巾を使って?」
「はい、そうです。雑巾と水以外は特に」
「なるほど。であれば勝手はそれくらいだと思ってください」
続いてスプレーボトルを手に取ると、目の前にある窓に一度だけ吹きかける。
「まず汚れ落とし用の液体が入ったスプレーを吹きかけます。その後数分待ってから、スクイジーで拭き取ってください」
沙希はバケツからT字型の道具を手に取った。ビルの窓拭きを行う清掃員が使っている、あの器具だ。スクイジーという名であることを、狭山は初めて知った。
「今回は特別に、サッと拭いてしまいます。スクイジーを動かす方向は縦でも横でもいいですが、変な痕が残らないよう綺麗に拭いてくださいね」
そう言ってスクイジーを動かし窓を拭いた。
そこでようやく沙希が狭山の方を向く。
「……」
「……?」
一瞬の沈黙が流れる。沙希がこちらを値踏みしているように見ているように狭山は思った。やはりアルバイトだから、大丈夫か心配されているのだろうか。
「じゃ、じゃあ早速、やってみます!」
自分から進んで発言すると、沙希は一度頷く。
「どうぞ。とりあえず今日はこの階の窓を全部拭いてもらいます」
「……あの、届かない場所は」
「ああ、”お立ち台”を持ってくるのでご安心を。まずは届く範囲から」
「わ、わかりました」
沙希はポリバケツから狭山用のゴム手袋とスプレーを渡す。
「スプレー、地肌に吹きかけないでくださいね。危険な液体なので」
「え、ほ、本当ですか?」
狭山の頬が引きつる。それだけで沙希にとっては噴飯物だったが、グッと堪える。
「ええ。だから注意してくださいね。目とかに入ったら……」
「き、気を付けます」
当然ながら嘘である。確かに人によっては肌が荒れるかもしれないが、中の液体は炭酸ソーダだ。飲んだりしない限り命に関わるような危険な物じゃあない。
中々からかいがいのある男だと思った。同時に、間抜けだとも。
それから狭山は慎重に、窓にスプレーを吹きながら移動し始める。たかが窓拭きに異常なまでの真剣な表情を浮かべていた。少しでも自分をよく見せようとしているのが丸わかりだった。
――う~ん、いいとこ見つからないなぁ。
狭山の横顔を見て思う。世の中には星の数ほど男がいるが、狭山は恐らく下から数えた方が早い男だろう。
とりあえずだ。次に窓を拭く時。十中八九窓に痕が残るだろう。その時に狭山をもう一度責めてやる。
転ばせたり、窓ガラスを割った風に見せかけるなどの細工はしてある。だが言葉責めだけで充分だと沙希は判断した。相手は本当に気弱な男なのだろう。
狭山がバケツからスクイジーを取り出す。
「え、っと、これを……」
沙希を見ながら呟く。沙希は何も言わずふわりと微笑む。一度言ったんだから覚えろ、と言われたような気がした狭山は、慌てて窓を拭き始める。
案の定、拭いた後に白い痕が残ってしまっている。実は意外とコツがいるのだ。
窓ガラスに残ってしまった痕を見て、狭山が困惑した表情を浮かべる。ガラスに反射した狭山の表情を見ていた沙希は、声をかけようとした。
――何と言おうか。少し厳しい口調で言おうか。とりあえず、「使えない」という一言で相手の心に軽く傷をつけてしまおう。
そう思っていた、その時だった。
窓ガラスに、狭山と自分と、もう一人の人物が映っているのを沙希は見た。
物陰からコッソリ、神白が見つめていた。
ものすごく心配そうな目で、狭山と沙希を見ている。
だが表情はどこか嬉しそうだった。狭山を見つめているからか、明るい雰囲気がガラス越しにも伝わってくる。
――マジでベタ惚れじゃないですか綾香ちゃん~……。
いったいなぜ、という疑問が浮かんだ直後、沙希はハッとした。
――マ、マズい。この状況で狭山を責めたりしたら、綾香ちゃんの目の前で狭山を詰ることになってしまう。それはつまり、綾香ちゃんを悲しませることであり同時に自分の評価を落とすことになる……!!
刹那の思考。沙希は次のどんな言葉を出すか、脳内をフル回転させる。
そうして行きついた答えは。
「さ、狭山執事」
「へ? あ、はい!」
肩を上げて振り返った相手に、沙希は微笑む。
「あ~、痕が残ってしまってますね」
「そ、そうですね。すいません、これはどうすれば……」
「もうちょっと時間を置いてからにした方がよかったですね。あと、私がもう一度拭き取る動作を見せます。見様見真似で構いませんので、一緒に拭いていきましょう」
「は、はい!! ありがとうございます!!」
「いえいえ。初めての人にこんな多くの窓を拭くよう指示した私のミスです、申し訳ございません」
「そんな、泉さんが謝る必要なんてないです! あの、よろしくお願いいたします!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
二人は窓拭きを再開した。沙希は時にアドバイスしたり。
「さきほど、聞いてましたよね? 私がアルバイトかどうか」
「え? あ、はい」
「”一応”アルバイトという形になっております。本業は学生なので」
「……もしかして、泉さん、同い年ですか?」
「ふふ。ちょっと嬉しいですね。大学生ですよ」
「ええ!? 全然見えないです!」
「それはそれで悲しいかもですね」
時に、雑談を交えたり。さらに、仕事を教えたり、多少褒めたり。
沙希が行きついた答えは、”狭山と仲良くする”になってしまった。そのせいか、狭山はやる気を出して生き生きとしだした。
これでは嫌がらせどころではない。一度褒めたりしているため、ここから態度を急変させるわけにもいかない。
ガラスに映る神白の小さな姿を捉える。というか、ずっと同じ場所にいる。
表情は穏やかになっていた。楽しそうに業務を行うこちらを見てのことだろう。
――迂闊だった……綾香ちゃんが、この男にここまで惚れているなんて思わなかった。
沙希の脳内に、自分の立てた作戦が瓦解していく音が響き渡った。
それから窓拭きの業務は滞りなく進んでしまい、時刻は昼頃になってしまった。
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