61.さよなら、異世界
大広間に入ると、まず床に目がいった。普段は敷かれている絨毯がない。
その代わり、複雑な模様、あるいは図式のようなものが描かれている。
「これっていわゆる」
「魔方陣と呼ばれるものですわ、ドドーン!」
「なんで君がいばるの、シーティア」
楓の疑問に、シーティアが胸を張って答える。
そこにルー・ロウが突っ込むのは、いつも通りだ。
「来た時と違って、今回はカエデ一人を向こうに送り返す。それに時間軸もきちんと合わせたいので、このような準備が必要だったのだ」
「あ、なるほど。色々と考えてくれてるのね」
「最悪のケースとして、送り返された場所が交差点の真ん中だったらどうなる?」
アランシエルは真顔である。
一度身震いしてから、楓は「帰還して即天国行き、なんて想像もしたくないよ」と答えた。
「ま、そんなわけで送り出す側としちゃあ、その辺の責任があるってわけよ」
「恩を仇で返すほど、魔族も落ちぶれてはいないのですよ。カエデ殿には安全に帰っていただきたい」
「ありがとう、グーリットさん、エーゼルナッハさん」
魔王の片腕二人に答えながら、楓は自分の荷物を点検する。
何度も確認したが、もし忘れたら二度と取りに帰れないのだ。
ちなみに服はこちらに来た時の黒いタートルネックに、ジーンズ。それにベージュのダッフルコートを着ている。
「こっちでもらった服に、コックコートとコック帽。それにサブリナはある。あと、いただいた退職金の袋も。ねえ、アラン。もらっといて何だけど、ほんとにいいの?」
「構わんよ。すぐに使う予定がないなら、取っておけばいい。将来、自分の店を持つ時の足しになる」
「そうね。ありがとう、じゃあ遠慮なく」
アランシエルに答えていると、どうしても昨夜の会話を思い出す。
夢を実現させると決めた以上、この厚意はやはりありがたい。
「一年間かぁ。すごく変わった、だけど素敵な一年だったなあ」
感傷的になりそうだったので、わざと明るく振る舞った。
荷物の入ったバッグを持ち直し、魔方陣の方へ足を進める。その時だった。
「ん、待て、カエデ。何か来る」
「え?」
アランシエルが楓をかばうように横に立つ。
それに一瞬だけ遅れて、グーリットとエーゼルナッハの二人が動いた。
二人が睨むのは、この大広間の隅の方だ。グーリットがそちらの方へ声をかける。
「おいおい、来るなら来るで一声かけろよなあ」
それにエーゼルナッハも追随する。
「見送りにこようとは、殊勝な心がけではあるがな」
全員の視線がそちらに集中する。この時には、楓も気がついていた。
壁の手前の空間が歪み、その辺りがぐにゃりとして見える。これは確か。
「転移魔法? そんなの使うのって」
「余と雌雄を決した勇者くらいのものだろうな。そうだろう、ユグノー?」
「ご名答だ。さよならの挨拶くらい言わせろって話だな」
聞き覚えのある声がした、と思った。
その時には、空間の歪みは消えていた。代わりに、五人の人間がその場にいる。
「ふむ、ここが魔王城か。初めて見るな」
「ふふん、私は一度ここまで攻め込んだことはありますよ! ぼろくそに負けましたけどね!」
ジューダス大司教とロゼッタ・カーマインが、どこかピント外れの会話を交わしている。
「まったく、帰る前に一言先輩に告げてもいいだろうに」
「間に合ったのだから、良しとしようじゃないか。ごきげんよう、お嬢さん」
鈴村豊がぼやき、ピレス・キャバイエがそれをなだめる。
「え、まさかリシュテイル王国の人達まで見送りに来てくれたの? なんで、どうやってあたしが帰る日にちを知ったの?」
楓は目をぱちぱちさせながら、現れた五人に聞いてみた。
それに答えたのは、紫眼の勇者である。
「答えは簡単。魔王城の中にも、俺らの間諜がいるってことだよ。罪の無い情報流してくれただけだから、ムキになるなよな」
「冷静に考えたら、余にとっては大事なのだが?」
「今回だけだって」
顔をしかめるアランシエルに、ユグノーは肩をすくめた。
その間に、ピレスと鈴村が楓に声をかける。
「私達は、もうしばらくこちらにいることになりました。こちらの菓子作りの技術発展に貢献してから、地球に戻る」
「そうそう。どこかの女騎士様がムッシュのことを放してくれなくてね」
「いや、それはその......ユタカ、余計なことを言わないように」
コホンとわざとらしく咳払いをしてから、ピレスは楓に手を差し出した。握手と気がつき、それに応じる。
「お元気で。地球に戻ったら、一度パリにおいでなさい。君なら良いパティシエールになる」
「ありがとうございます、ムッシュ・キャバイエ。光栄です」
「だが、君には技術的なことは教えないよ。魔王仕込みの菓子作りの技術が、すでに君にはあるのだからね」
ピレスが笑う。
そこにアランシエルが「ずいぶん高く評価してくれているのだな。余としては意外だぞ」と割り込んだ。
「当たり前だろう。私と互角に競えるパティシエなど、世界中見渡してもほとんどいないのだからね」
「ふふ、それは余も同じことだ。また競ってみたいものだな、ムッシュ・キャバイエ」
二人の間にまた火花が散りそうになる。それを尻目に、楓は鈴村に話しかけた。
「先輩も残るんですか。やっぱり、時間軸をずらさないようにしてくれるから?」
「そうだね。あと、ムッシュがこっちを気に入ってしまってさ。現地の材料を使って、新作スイーツを作りたいと言い始めてね」
「先輩はそれに付き合って残ると」
「俺一人帰るわけにはいかないだろ。それに慣れたら、こっちはこっちで楽しいし」
たわいもない会話である。
けれど、この突然の見送りが楓には嬉しかった。
ロゼッタからは「土産だ、持っていくといい!」と花束を押し付けられた。ピンクを中心とした華やかな花束が、心に鮮やかに染みる。
「ありがとう、もらっちゃっていいんですか?」
「そのために持ってきたんだ。どーんと持っていけ」
ロゼッタは何故か得意そうだ。
楓はもう一度礼を言い、アランシエルの方を向く。
「ほんとは皆、いい人なのかもね」
「余は認めたくないが、今日だけはそういうことにしておくか。さて、そろそろだが心の準備はいいか?」
「うん。これだけ見送ってもらえたなら、十分だよ」
楓は改めて魔方陣の中心に進んだ。床に描かれた模様は、白い光が明滅している。中心に立つと、体が軽くなった気がした。
「お別れだね」
ぽつりと呟いた。
皆の姿が視界に入る。
この一年の思い出が、楓の脳裏を駆け抜けた。
"幸せな一年だったな"
うつむきそうになる顔を、無理やり持ち上げた。
正面に立つのは、黒衣のアランシエルだ。
どう考えても、見た目は恐ろしい魔王である。だが、彼なくして今の楓はあり得ない。
「アラン、最後に聞いていい?」
「どうした」
アランシエルが答える。その声は低く、そして穏やかだった。
「あたしは貴方の良い部下だったかな? あなたの助けになれたかな?」
「言うまでもない。カエデ・サトザキは余の一番の部下で......そして何より大切な女性だ」
最後の一言はやや小声で、アランシエルは楓に告げた。
周りを気遣ったのかもしれない。
それでもきっぱりと言い切った。
「嬉しい。その言葉だけで生きていけるよ」
「大袈裟なことを」
小さく笑いながら、アランシエルが近づいてきた。
すっと手を伸ばし、楓を抱き寄せる。
ごく軽い抱擁はすぐに解かれ、魔王の姿が遠ざかる。
「異世界からでも来たくなるような、立派なお店持ってみせるからね!」
「うむ、楽しみにしておこう!」
楓の笑顔は強がりだ。嘘でもいいから、最後に涙は見せたくなかった。
離れ際にそっと手を伸ばし、ほんの少しだけ指を絡ませる。けれど、それも数秒だけだ。
アランシエルが魔方陣から遠ざかると、その場の空気が変わった。
視界が白くなる。
その場にいる全員の姿が、光の中に消えていく。
平衡感覚がなくなり、足から力が抜けていった。
ありがとう、カエデ。
耳に響いたその声は、果たして本当に聞こえたものなのだろうか。
それすら考える暇もなく、里崎楓の意識は白く塗りつぶされていった。
† † †
五感が戻る。足が地につく。
堅い地面だなと思い、足元を見る。
アスファルトだ。自分の履いているスニーカーが、黒い地面を踏んでいる。
"夜だ。寒っ、あ、そっか、クリスマスイブだった"
慌てて腕時計を見る。
間違いない、十二月二十四日だ。時刻もあの時とほとんど変わらない。
"本当に戻ってきたんだ"
安堵する。ここが六本木であることは間違いない。記憶にある風景と同じ、あの時の街角だ。
"そうだ、あのワッフルのワゴン"
反射的に辺りを見回してしまった。
アランシエルが乗っていた、あのベルギーワッフルのワゴンを探す。
「いるわけないじゃない」と自嘲しながらも、探してしまう。
矛盾に背中を押されていた。
帰還したことの安堵と、喪失したことへの悲しみ。
その二つに突き動かされ、三十分ほども夜の街を歩いてしまった。
「――馬鹿だな、あたし」
アランシエルはこちらの世界にはいないのだ。
自分一人が戻ってきたのだから、いるわけがない。
そんなことは承知の上で、帰還したのではなかったか。
ベージュのダッフルコートの襟を合わせ、楓は夜空を見上げた。
ネオンの向こうに、微かに冬の星座が見えた。
「さよなら、アラン」
こぼれた涙を冬の風がさらっていった。




