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59.帰還前日 前編 ~二人の夜~

「カエデさーん、カエデさーん」


「なーに、シーティアちゃん」


「なーに、じゃないのですわ。ぼーっとしちゃって。しっかりしてくださいな」


 シーティアは両手を腰に当て、楓を見据えた。

 その可愛らしい顔は、少しむくれている。楓はちょっとビクッとした。


「や、やだ、怖い顔して。可愛い顔が台無しじゃない、シーティアちゃん」


「怖い顔にもなりますわ。明日が地球への帰還日なのですよ。なのに、カエデさんったらピリッとしてなくて」


「そ、そんなことないよ!? すごくピリッとしてるって! あたし、出来る女だし!」


 楓の主張も、シーティアには届かない。「ハアア、そのどこが出来る女なんですのー?」とジト目でサキュバスのメイド少女は詰め寄る。

 その視線を追うと、楓も何が言いたいか分かった。


「畳んでいた服が全部裏表反対ね」


「しれっと言わないでくださいまし!」


「えへ、ごめん」


 舌を出して、楓は誤魔化そうとする。

 けれど、注意力が落ちていることは明らかだ。

 その原因もはっきりしているだけに、余計にもやもやする。「気をつけないとね」と呟いていると、部屋のドアが開いた。


「あの、カエデさん。これ、退職金ですよ」


 入室してきたのは、ルー・ロウである。その両手には、布袋を載せていた。


「え、あれ? 退職金なんてあったっけ?」


「雇用契約には書いてありませんでしたね」


「じゃ、これ受けとるわけにはいかなくない? ちゃんと月々のお給料もらってたもの」


「いや、それなんですけどね。カエデさん、この一年すごく頑張られてましたよね。それを評価して、後付けで退職金を出そうということになりまして」


「そ、それはどうもありがとう。ちなみにやけに重そうだけど、中身聞いてもいい? 魔族領(ゼノス)でしか使えない金貨とかだと、ちょっと困るんだけど」


「安心してください、カエデさん」


 ぐっと親指を立てながら、ルー・ロウは笑顔になった。

 袋を少し開き、中身を見せる。どうやら紙幣、いや、札束らしい。


「ドルとユーロを等分にしておきました! 地球で一番流通しているお金ですよね!」


「うん......その解釈で間違いないよ。間違いないけどさ。あたしの住んでる国、日本なんですけど!? どこで使うのよ、こんな大量の外貨紙幣を!」


「あら、そのまま外貨預金すればいいのですわ。円で普通に預けるより、その方が利率がよろしくてよ?」


「何でシーティアちゃん、そんな生々しいこと知ってるの? おかしいよね、ここ地球じゃないのよ?」


「定期的にグーリットさんが情報仕入れてきますのよ。あの方、国庫の一部を地球で運用してますから」


 シーティアの澄ました顔からすると、はったりでも冗談でも無さそうだ。

「夢がまったくないわね」と膝をつく楓に、ルー・ロウが微笑む。

 どことなくその視線は生暖かい。


「いやあ、世の中義理人情だけじゃ生きていけないんですよ。僕も実家が貧乏だったから、奴隷商に売り飛ばされかけた身ですから」


「ちょっ、明日には帰るのに今更重い話ぶちかまさないでね!? 気になるから!」


「嘘ですけどね?」


 ルー・ロウは実にいい笑顔を浮かべた。楓はこめかみをひきつらせる。


「最後の最後までおちょくってくれるわよね、あなた達って」


「それだけカエデさんのことを慕っているのです」


「地球に戻っても、私たちはずっとカエデさんのこと、覚えてますわ」


「っ、止めてよね。いきなりそういうこと言うの」


 たまらなくなり、楓は二人を抱き締めた。

 二人とも背丈もまだ楓より低く、体の線は細い。


 "忘れないよね"


 二人の体温を衣服越しに感じた。



† † †



 "明日には地球に帰るんだから、今日しかないんだ"


 当たり前の事実を、楓は胸の内で繰り返す。

 目の前には、大きな扉がある。アランシエルの私室だ。夕食を摂った後、彼は大体この部屋にいる。


 ここに来るまでに、決意は固めた。

 話したいこと、伝えたいことはもう決まっている。なのに、ノックしようとする手が震える。

 そうして迷っている内に、勝手に扉の方が開いた。


「あ、あれ、アラン?」


「扉の前でずっと立っていれば、いやでも気がつく。エーゼルナッハほどではないにせよ、余も気配くらいは読める」


 戸惑う楓とは対照的に、アランシエルは落ち着いていた。身振りで部屋の中に入るよう、楓を促す。


「何か話があってきたのだろう。ちょうどいい。余もお前に話したいことがあった」


「アランも?」


 楓は恐る恐る部屋に入る。

 私室だからか、執務用の机はない。

 低い円卓を挟んだ形で、ローソファが二つある。

 アランシエルがその片方に腰かける。


「立ち話もなんだ。座ってはどうか」


「うん。この部屋、落ち着いた感じね」


 素直に感想を伝えた。

 何個か置かれた洋燈(ランプ)が、部屋の様子を立体的に浮かび上がらせている。

 やや暗めのオレンジ色の光が、ほのかな安心感を楓にくれた。


「城のほとんどが厳めしい感じで造られているからな。別にそういうのも嫌いではないが、私室くらいは落ち着きたい。それより」


 そこでアランシエルは黙った。一瞬だけ視線をさ迷わせた後、また口を開く。


「お互いに話があるのだろう。そちらを優先しようか」


「え、うん」


 こくり、と楓は頷いた。

 アランシエルは「そう緊張するなと言っても、無理な話だな」と苦笑する。

 考えてみれば、楓とこうやって向き合って話したことはあまりない。


 "いつもキッチンで話していたからな"


 立ったままが多かった。

 上司と部下という関係なので、それはある意味当然なのだが。


 "これからする話は、その一線を越える話か"


 楓を見る。緊張しているようだった。

 自分はどうなのかと自問する。

 どうだろう。確かなのは、黙っていてはどうにもならないということだ。


「今さらと言われるのを承知なのだが、あえて問おう。カエデはやはり地球へ帰りたいのだな?」


 その問いに対して、里崎楓の返答は早かった。


「はい。こっちでは色々な経験をさせてもらって、とても楽しかった。でも、あたしにもやりたいことがあるから」


「そうか......はは、では今から余が言うことは、聞き流してくれ。魔王の戯れ言と思ってくれていい」


「何か、大事なこと?」


「少なくとも余にとってはな」


 その一言を発してから、アランシエルは視線を楓の顔に合わせた。

 真っ向から話すことが、この一年間にあまりに少なかったから。


「本心を言えば、お前を帰したくはない。余の傍にいてほしいと願う。それが無理だと分かっていても、この場を借りて伝えたかった」


 一息に言い切る。

 楓は固まっていた。

 不安を与えたのだろうか。けれど自分の本心を伝える機会は、今しかなかった。


「理由はいくつかある。余はお前と一緒にいて、楽しかった。カエデは余のパティシエとしての技術を理解してくれた。余の片腕として、共に菓子作りに励んだ。大いなる菓子の祭典(グランドスイーツ)では、共に戦った。そのような者がいなくなるのは、分かっていてもとても寂しい」


 偽りない本音を、アランシエルは吐き出した。言葉が言葉を生んでいく。


「多分、余が言っていることはとても自己中心的なのだろう。けれども、お前を手元に置いておきたいという気持ちだけは、どうしても伝えておきたかった」


「――うん」


 目を微妙に泳がせながら、楓はどうにかそれだけを答える。

 嬉しさと驚きが頭の中でぐるぐるしている。

 そんな彼女の内心を分からないまま、魔王は自分の本心を紡いでいく。


「覚えているか、カエデ。ヘスポリスでピレス、スズムラと一緒に話した時のことを」


「もちろん。第二試合のスイーツを決める為に、先輩とあたしが話していて。そこに、アランとムッシュ・キャバイエが同席していたのよね。騒がしかったなあ、あれは」


「ああ、騒がしく、そして愉快な一席だったよ。スズムラが茶化して言ったことも含めて、な」


 何のことを指しているのか。

 楓は「えーと」と言いかけて、そこで思い出した。

 そう、確か鈴村豊はこう言った。



 お前、魔王様に愛されてるなあ、と。



「覚えているようだな」


「えぇ、いや、はぁ」


「はは、素面では話せない話だな。飲むか、カエデ」


 小さく笑い、アランシエルはピシッと指を鳴らした。

 瞬時に、細い酒のボトルとワイングラスのペアが円卓の上に現れる。多分、空間魔法を使ったのだろう。


「お酒強くないけど、いただきます」


「その方がいい。余も飲みたい気分だからな」


 コルク栓を指で抜き、アランシエルは酒を注ぐ。

 透明度の高い赤ワインが、とくとくとグラスに注がれていった。お返しに、楓も注ぎ返す。

 二つのグラスが赤い液体で満たされた。


「じゃあ、乾杯」


「ん、乾杯」


 ぎこちない楓のかけ声に、アランシエルは応える。グラス同士が触れ合い、チリンと細い音を立てた。

 こくりと一口飲み干してから、アランシエルは口を開く。


「あの時、スズムラに言われて考えたよ。余のお前に対する感情は、一体何なのかとな」


「うん」


「菓子作りの一番の理解者であり、もっとも側にいる存在だ。仕事上の部下であり、得難い協力者でもある」 


「そうね......」


「これが愛情なのかどうか、余には分からない。けれども、間違いなく好意だとは思う」


 ワイングラスを傾け、アランシエルは一息に煽った。

 そんな仕草までが、優雅で絵になる。

 洋燈(ランプ)の淡い光が、彼の赤い瞳をぼうっと照らした。


 "何か言わないと"


 ワイングラスを掴みながら、楓は自分を叱咤する。

 アランシエルがここまで言ってくれたのだ。

 最低でも、自分の気持ちと考えを言わなくてはいけない。


 "勇気を下さい、神様"


 目の前に魔王がいるのに、変なお願いではある。

 だがそうでもしないと、プレッシャーに潰されそうだった。

 一気に煽るのは怖いので、ほんの一口だけワインを舐める。ベリーのような香りが口の中を抜ける。


「ずっと考えていたの。あなたに何を言ったらいいのかなって」


 ためらっていたのは、最初だけ。


「はっきり言って、最初はアランのこと怖かった。そもそも人間じゃないから、自分の常識が通用しないんじゃないかなと思ったし」


「酷い言われようだが、そう思われても仕方ないな」


「ごめんね。でもね、一緒に働いている内に、打ち解けて。だんだん楽しくなっていった。お菓子作りの技術はちゃんと教えてくれる。あたしのことをちゃんと考えてくれる。本当に尊敬してるの。だから今は」


 ほう、と柔らかくため息をつく。それは落胆ではなく、次のとっておきの一言への助走だ。


「アランはあたしの一番大切な人だよ」

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