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異世界スイーツ物語 ~魔王さまはパティシエ!~  作者: 足軽三郎
第五章 大いなる菓子の祭典
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56.幕間 その勝負の翌日

 どちらも素晴らしかったため、どちらかを選ぶなど出来なかった。


 白紙の投票用紙を書いた審判役は、後にこう語ったという。祭典からしばらくの時が経ち、人々の記憶が鮮やかさを忘れた頃の話だ。


 それだけハイレベルのスイーツ決闘(デュエル)だったのだと、ある者は言う。


 決断力が足りないのではと、ある者は言う。


 これはこれで後世に語り継がれると、ある者は言う。


 どれもが真実であり、真実の一面でしかない。



† † †



 その後の出来事を、楓はよく覚えていない。

 闘技場(コロシアム)に集まった人々が騒ぎ、わめき、悲鳴あるいは歓声をあげていた。ジューダス大司教らは、彼らを鎮めるために必死で語りかけていた。

 それくらいしか記憶にない。


「あのあと、楓さんは気が抜けたようになっていましたからね。はい、これ」


「ありがとう。そっか、そんな風になってたんだ」


 ルー・ロウからスープの皿を受け取りながら、楓は首を捻る。

 窓の外を見ると、春の風景が広がっていた。名も知らない小鳥が鳴いている。


「昨日、転移魔法で帰ってきたのは覚えているんだけどね」


「長居は無用でしたからね。ふらふら歩いて、そのままベッドにバタンでしたよ」


「だらしないなあ、あたし」


 まったく覚えていない。

 ただひどく疲れているのは確実だ。普通のスープがやたらと美味しい。

 丸一日何も食べていなかったことになるが、どうにかこれで持ち直した。


「アランはどこにいるの?」


 ルー・ロウに尋ねる。

 インキュバスの執事見習いは「昨日はリシュテイル王国に泊まりです。受賞式や話し合いがありましたからね」と簡潔に説明した。


「そっか。ああ、あたしも受賞式出なきゃいけなかったんだよね。悪いことしたなあ」


「予想もしない引き分けでしたから、ぎこちなくてたまらなかった。代わりに出席したシーティアは、そう通信魔法でこぼしてましたよ」


「シーちゃんにも後で謝っとく」


 スープを飲み終えてから、楓はベッドから起き上がった。

 疲れはまだ残っているが、いつまでも寝ていても仕方がない。


「着替えたいから、ルー君ちょっと席外してくれない?」


「良かったら手伝いますが?」


「お約束ありがと。デコピン欲しいみたいね」


 にっこりと楓は笑う。その右手の中指がたわめられた。

 ルー・ロウは「遠慮しときますね!では!」と返答し、さっと退室していった。 

「まったく油断も隙もないんだから」


 そう呟き、楓は寝間着を脱ぎ捨てた。



† † †



 ただ待つだけの時間は、退屈でジリジリしたものだった。

 考えても仕方がないので、キッチンを勝手に使わせてもらうことにする。


 "留守にしていた間、ビスケットやクッキー作ってなかったからなあ"


 そういう簡単な菓子は、日常的に魔族領(ゼノス)の民に配っていた。

 最大の目標である大いなる菓子の祭典(グランドスイーツ)に出場していたので、当然ながらその期間中はお休みだった。

 だが、それも終わった今、作らない理由は無い。


 薄力粉、卵、砂糖、バターを用意する。それらの分量を計りながら、楓は色々と考える。考えてしまう。


 "もう、こんな風にここで働くこともないんだよね"


 雇用期間は一年間。大いなる菓子の祭典(グランドスイーツ)が終わるまで。

 それはアランシエルにこの世界に連れてこられた時に、決まっていたことだ。

 楓としても、それには異論はない。日本が懐かしい気持ちには嘘はつけないし、何か虚脱感もある。


 "あと何日くらいここにいるんだろ。転移魔法の準備とかあるよね"


 手を動かしつつ、思考はまったく別のことに向かう。

 まだ早い。まだいつ帰るのか、はっきり決まったわけじゃない。

 それでも、楓の気持ちはどこかもやもやしていた。


 大いなる菓子の祭典(グランドスイーツ)のあの熱狂の渦が。


 アランシエルとピレスの技術を尽くしたアシェット・デセールが。


 崖っぷちに追い込まれてから、自分がビスキュイ・ショコラで鈴村に勝ったことが。


 最後の第三試合で、まさかの引き分けという結果になったことが。


 天井から吊るしたモビールみたいに、ゆらゆらとゆらゆらと、自分の中で揺れている。

 もう、あんな経験は出来ないだろう。

 一国の命運を賭けて、スイーツの技術を競った。そんな数奇で、馬鹿馬鹿しくて、だけど素晴らしい経験はもう――出来ないだろう。


「あたし、よく頑張ったんだよね。多分、うん」


 オーブンにクッキーを入れながら、楓は呟いた。空白の時間がしばらく流れていく。



「おい、カエデ。もう焼きあがってるんじゃないのか?」


「ふあっ!? アラン、いつの間に帰ってたの!?」


「ついさっきだが。ルー・ロウに聞いたら、キッチンに行ったと教えてくれたんでな」


 楓は慌てた。自分が気がつかない間に、アランシエルが隣にいたからである。

 いつもの黒マント姿のまま、彼はオーブンのスイッチを止めた。流石に着替える時間も無かったらしい。


「ああ、民に配るためのクッキーか。わざわざすまないな」


「すまなくないよ。あたしが留守の間、皆に配れなかったんだから。当然でしょ」


「......そうだな」


 返答には、ほんの少しのタイムラグがあった。

 それでも、振り向いたアランシエルは笑顔だった。そのことに、楓は理由もなくホッとする。


「よく眠れたようで何よりだ。グーリットらも一緒に戻ってきているから、とりあえず来い。簡単な報告会でもしよう」


「うん。じゃあ、このクッキーやビスケットは後でやるね」


「ああ、そうだな。余も久しぶりに作ってみるか。そうだ、カエデ」


「はい?」


「よくやったぞ。本当にな」


 あっと思う暇もなかった。

 楓の華奢な体は、アランシエルの両の腕の中にあった。

 着衣を通して伝わる体温に、脈拍が急上昇する。


 この抱擁は、きっと親密さの表れだ。それ以外の何物でもない、と思う。

 恥ずかしさから逃れようとし、嬉しさからそれを思いとどまる。

 結局残ったのは、暖かな切なさだった。


「――アランってさ」


「何だ?」


「ううん、何でもない」


 複雑な感情に包まれたまま、楓はそっと目を閉じた。

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