56.幕間 その勝負の翌日
どちらも素晴らしかったため、どちらかを選ぶなど出来なかった。
白紙の投票用紙を書いた審判役は、後にこう語ったという。祭典からしばらくの時が経ち、人々の記憶が鮮やかさを忘れた頃の話だ。
それだけハイレベルのスイーツ決闘だったのだと、ある者は言う。
決断力が足りないのではと、ある者は言う。
これはこれで後世に語り継がれると、ある者は言う。
どれもが真実であり、真実の一面でしかない。
† † †
その後の出来事を、楓はよく覚えていない。
闘技場に集まった人々が騒ぎ、わめき、悲鳴あるいは歓声をあげていた。ジューダス大司教らは、彼らを鎮めるために必死で語りかけていた。
それくらいしか記憶にない。
「あのあと、楓さんは気が抜けたようになっていましたからね。はい、これ」
「ありがとう。そっか、そんな風になってたんだ」
ルー・ロウからスープの皿を受け取りながら、楓は首を捻る。
窓の外を見ると、春の風景が広がっていた。名も知らない小鳥が鳴いている。
「昨日、転移魔法で帰ってきたのは覚えているんだけどね」
「長居は無用でしたからね。ふらふら歩いて、そのままベッドにバタンでしたよ」
「だらしないなあ、あたし」
まったく覚えていない。
ただひどく疲れているのは確実だ。普通のスープがやたらと美味しい。
丸一日何も食べていなかったことになるが、どうにかこれで持ち直した。
「アランはどこにいるの?」
ルー・ロウに尋ねる。
インキュバスの執事見習いは「昨日はリシュテイル王国に泊まりです。受賞式や話し合いがありましたからね」と簡潔に説明した。
「そっか。ああ、あたしも受賞式出なきゃいけなかったんだよね。悪いことしたなあ」
「予想もしない引き分けでしたから、ぎこちなくてたまらなかった。代わりに出席したシーティアは、そう通信魔法でこぼしてましたよ」
「シーちゃんにも後で謝っとく」
スープを飲み終えてから、楓はベッドから起き上がった。
疲れはまだ残っているが、いつまでも寝ていても仕方がない。
「着替えたいから、ルー君ちょっと席外してくれない?」
「良かったら手伝いますが?」
「お約束ありがと。デコピン欲しいみたいね」
にっこりと楓は笑う。その右手の中指がたわめられた。
ルー・ロウは「遠慮しときますね!では!」と返答し、さっと退室していった。
「まったく油断も隙もないんだから」
そう呟き、楓は寝間着を脱ぎ捨てた。
† † †
ただ待つだけの時間は、退屈でジリジリしたものだった。
考えても仕方がないので、キッチンを勝手に使わせてもらうことにする。
"留守にしていた間、ビスケットやクッキー作ってなかったからなあ"
そういう簡単な菓子は、日常的に魔族領の民に配っていた。
最大の目標である大いなる菓子の祭典に出場していたので、当然ながらその期間中はお休みだった。
だが、それも終わった今、作らない理由は無い。
薄力粉、卵、砂糖、バターを用意する。それらの分量を計りながら、楓は色々と考える。考えてしまう。
"もう、こんな風にここで働くこともないんだよね"
雇用期間は一年間。大いなる菓子の祭典が終わるまで。
それはアランシエルにこの世界に連れてこられた時に、決まっていたことだ。
楓としても、それには異論はない。日本が懐かしい気持ちには嘘はつけないし、何か虚脱感もある。
"あと何日くらいここにいるんだろ。転移魔法の準備とかあるよね"
手を動かしつつ、思考はまったく別のことに向かう。
まだ早い。まだいつ帰るのか、はっきり決まったわけじゃない。
それでも、楓の気持ちはどこかもやもやしていた。
大いなる菓子の祭典のあの熱狂の渦が。
アランシエルとピレスの技術を尽くしたアシェット・デセールが。
崖っぷちに追い込まれてから、自分がビスキュイ・ショコラで鈴村に勝ったことが。
最後の第三試合で、まさかの引き分けという結果になったことが。
天井から吊るしたモビールみたいに、ゆらゆらとゆらゆらと、自分の中で揺れている。
もう、あんな経験は出来ないだろう。
一国の命運を賭けて、スイーツの技術を競った。そんな数奇で、馬鹿馬鹿しくて、だけど素晴らしい経験はもう――出来ないだろう。
「あたし、よく頑張ったんだよね。多分、うん」
オーブンにクッキーを入れながら、楓は呟いた。空白の時間がしばらく流れていく。
「おい、カエデ。もう焼きあがってるんじゃないのか?」
「ふあっ!? アラン、いつの間に帰ってたの!?」
「ついさっきだが。ルー・ロウに聞いたら、キッチンに行ったと教えてくれたんでな」
楓は慌てた。自分が気がつかない間に、アランシエルが隣にいたからである。
いつもの黒マント姿のまま、彼はオーブンのスイッチを止めた。流石に着替える時間も無かったらしい。
「ああ、民に配るためのクッキーか。わざわざすまないな」
「すまなくないよ。あたしが留守の間、皆に配れなかったんだから。当然でしょ」
「......そうだな」
返答には、ほんの少しのタイムラグがあった。
それでも、振り向いたアランシエルは笑顔だった。そのことに、楓は理由もなくホッとする。
「よく眠れたようで何よりだ。グーリットらも一緒に戻ってきているから、とりあえず来い。簡単な報告会でもしよう」
「うん。じゃあ、このクッキーやビスケットは後でやるね」
「ああ、そうだな。余も久しぶりに作ってみるか。そうだ、カエデ」
「はい?」
「よくやったぞ。本当にな」
あっと思う暇もなかった。
楓の華奢な体は、アランシエルの両の腕の中にあった。
着衣を通して伝わる体温に、脈拍が急上昇する。
この抱擁は、きっと親密さの表れだ。それ以外の何物でもない、と思う。
恥ずかしさから逃れようとし、嬉しさからそれを思いとどまる。
結局残ったのは、暖かな切なさだった。
「――アランってさ」
「何だ?」
「ううん、何でもない」
複雑な感情に包まれたまま、楓はそっと目を閉じた。




