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39.タルト・オ・シトロン

 タルト・オ・シトロンの生命線、それは土台であるシュクレ生地のさっくり感とアパレイユの滑らかな甘酸っぱさのコントラストにある。

 シュクレ生地は白焼きといい、一度生地だけで焼き上げる。それを取り出してからアパレイユを乗せて、もう一度焼く。

 こうすることでアパレイユのフレッシュさを保ちつつ、生地自体にはきちんと火を通すことが出来る。


 "だから当然食べる側としては"


 フォークに突き刺したタルトを見る。

 しっかり焼き上げられたシュクレの白と茶色が見えた。

 そして、アパレイユは鮮やかな黄色だ。バターや卵黄の黄色にレモンの黄色が混じり、見た目からも美味しそうだ。


 "シュクレとアパレイユのバランスが気になるのよね。ん、美味しい"


 プディング状のアパレイユが、舌の上で踊った。

 とろりととろけ、レモンの後味を残して消えていく。

 そこにシュクレ生地がアクセントになる。さっくりした歯触りと控えめな甘さで、アパレイユを見事に引き立てていた。


「しっかりと甘さを保ちつつ、レモンの風味が生きている。これはかなりの」


 気がつけば一切れペロッと食べていた。もっと食べられそうだったが、楓はそれを自重する。

 理由は明白だ。もう一つ、タルト・オ・シトロンが残っているからだ。

 仮面の男もそれを分かっているのだろう。楓の高評価にも「最終決断を聞いてから喜ぶとしよう」と一言呟くのみだ。


 そして楓は問いかける。彼女が最高に信頼するパティシエに。


「ねえ、アラン。あなたのタルト・オ・シトロン、これより美味しいのよね?」


 アランシエルは頷く。

 その静かな自信と共に、自分のタルトを一切れ切り分けた。

 濁りの無い白磁の皿の上で、彼のタルト・オ・シトロンが黄金の輝きを放つ。


「そのつもりだ。好きなだけ食べろ、カエデ」


「うん。じゃ、いただくね」


 とくん、と心臓が鳴った気がした。

 自分がこうして審判役として、スイーツを味わっている。

 相手のタルトも、そして自分の信頼する魔王のタルトも両方味わう。

 それが不思議でたまらず、だが――胸が高鳴ってたまらない。


 フォークに乗せたタルトを一口、そして楓の舌の中に弾けたものは。


「っ、うっわあ......すごいなあ」


 レモンの爽やかさを限界ギリギリまで保ち、甘酸っぱさを極限まで引き出した幸福だった。

 シュクレ生地はあくまで脇役に徹している。けれども、土台であるこのシュクレ生地自体が限りなく完璧に近い。

 先程のタルトのシュクレ生地も相当だったが、これは更に上回る。

 香ばしさと歯触りの二点において、アランシエルのタルトの方が上だ。


「アパレイユのこの舌触りといい、滑らかなコクのある甘さといい、素晴らしいとしか言えないわ」


 そしてそのシュクレ生地が良いからこそ、主役のアパレイユの美味しさが引き立つ。

 甘酸っぱさがより強く濃く引き出され、ほう、とため息さえもつきたくなった。

 グラニュー糖の甘みをバターと卵黄が包みあげ、あくまでベースはまろやかだ。

 そこにアクセントとして、レモンの爽やかな甘酸っぱさが加わる。


「甘みにメリハリがあるのよね。こう、パキッというのかな。食べる程にもう一口って舌が語りかけてくる感じ」


 自然と笑顔になり、楓は感想を漏らした。気がつけば、タルト・オ・シトロン一切れ分を食べ終えていた。

 心がそれほど求めていたのか。アランシエルの作ったスイーツを。


 楓が両方のタルトを食べ終え、フォークを置く。

 アランシエルが、仮面の男が、そして両陣営が固唾を飲んでそれを見守っていた。 チチ、とどこかから小鳥のさえずりが聞こえ、それがこの沈黙をより一層引き立てる。

 それに耐えきれなくなったように、ジューダスが口を開いた。


「執行官として審判役にお聞きする。このスイーツ決闘(デュエル)の勝敗、どちらにあるかを聞かせていただこう。さ、己の心の天秤は、どちらのスイーツを指すのか?」


「はい。それでは正直に」


 正式な手順など知らないが、楓は気にしなかった。

 要は、自分が美味しいと思った方を素直に示せばいいだけだ。迷いなど欠片もない。


「アランシエルの作ったタルト・オ・シトロン。こちらの方が美味しかったです。シュクレ生地の焼き上げ具合、そしてアパレイユの豊かな甘酸っぱさは際立っていました。両方がバランスよく両立しており、至高のタルトと呼んでいい美味しさでした」


 楓の宣告が下される。

 闘技場(コロシアム)の沈黙が数瞬深まり、そしてそれは一気にほどけた。


「やった! アラン様の勝利ですわ!」とシーティアが小躍りし、隣のルー・ロウは「よっし!」と小さくガッツポーズを取る。

 グーリットは右目をウインクしながら「さすがアラン」とだけ呟いた。

 エーゼルナッハは何も言わない。けれどひっそりとした微笑が、その枯れた口許に宿っている。


 その様子を嬉しそうに見ながら、楓は椅子から立ち上がった。アランシエルの隣に立ち、頭二つ高い彼を見上げる。


「やったね、アラン」


「当然だろう。余を誰だと思っているのか。魔王にして至高のパティシエ、アランシエルだぞ。そして」


「そして?」


「カエデの上司だ。こんな前哨戦で不覚を取るはずがなかろう」


 その一言が、楓の心を弾ませた。

 アランシエルのコックコートの端を小さく握る。ごく自然な動作だったからか、アランシエルも何も言わない。

 その代わりに、視線は仮面の男へと向く。 


「さて、勝負は終わった。余の勝利に終わったわけだが、約束は約束だ。その顔を見せてもらおうか?」


 こちらから要求したことではなく、向こうが言い出した条件だ。

「ふっ、まさか本当にこの仮面を外すことになるとは」と仮面の男がゆっくりと素顔をさらしても、アランシエルは驚くことはなかった。

 だが「潔いことだ」と言いかけた瞬間、彼は楓の異常に気がついた。


「嘘、まさか、そんな」


 震える指で素顔になった男を指し示す。その素顔は、二十代半ばくらいの男性のそれだ。

 髪こそ薄茶色だけれど、目は楓と同じく黒い。それは日本人特有の瞳だった。


「久しぶりだな、里崎。まさかこんな異世界で再会するとはね。魔王様に教えてもらって、上手くなったかい?」


「鈴村ーー先輩、なんであなたがここにいるんですか!?」


 そう問いつつ、楓はその答えを知っていた。ただ反射的に聞いてしまっただけだ。 

 数ヵ月だけだが、鈴村豊とは同じ職場で働いていた。日本人だろうとは予想していたけれど、これだけ身近な相手だとさすがに動揺する。

「リシュテイル王国が鈴村先輩を連れてきた、そっか」と呆然と呟くのが精一杯だった。


「おい、カエデ。この男、お前の知り合いか?」


「う、ん。職場の先輩だった人。数ヵ月だけど、お菓子作りのこと教えてくれて。今はパリに留学しているはずで」


 アランシエルに答えている時、楓の脳裏に閃くものがあった。

 もう一人の仮面の男のことを思い出したのだ。

「鈴村先輩。昨日、あたし達、もう一人の仮面の職人に会ったの。フランス人で、ロゼッタさんにムッシュって呼ばれてた。まさか、その人」


 楓の問いに対して、鈴村は答えなかった。

 いや、答える必要がなかった。

 彼がしたことは、背後を振り向いただけだ。

 もっともその時には、その場にいる全ての者の視線がそちらに向いていたのだが。


「やれやれ、ユタカでも勝負にはならなかったか」


 よく通る声が闘技場(コロシアム)に響く。

 控え室からの通路からではなく、客席の最前列にその男はいた。

 もう一人の仮面の職人。

 間違いない。あの砂色の髪は、楓が昨日会った男の特徴だ。


「ユタカが正体を明かした以上、私だけ隠していても無駄だな。ユグノー、受け取ってくれ」


「ちっ、仕方ねえな。よっと」


 金属の仮面が外され、無造作にぽいと放り投げられた。コートの端にいた勇者がそれを受け取った時には、男は客席から飛び降りている。

 銀色のコックコートの裾がふわりと舞った。ぞく、とさせるような蒼氷色(アイスブルー)の双眼が、アランシエルに、そして楓に突き刺さった。


「およそ四年ぶりといったところかな、君と会うのは。まさか異世界の魔王とは思わなかったよ」


「......思い出した。貴様、余が修業時代にコンテストで負かした相手か。名前は――」


「ピレス・キャバイエ......? パリの誇る天才パティシエの、嘘、本気で?」


 アランシエルはまだしも、楓はへたりこみそうになった。

 鈴村が留学していた先がピレス・キャバイエのパティスリーだったので、嫌な予想はしていた。

 だが、予想と現実は別だと痛感する。


「覚えていてくれたようで何よりだね。アランシエル君」


 華の都の天才(ジェニー)がひたと標的を捕捉した。

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