37.タルト・オ・シトロンの下ごしらえ
タルトはポピュラーな菓子である。パイとよく似ている菓子ではあるが、ちょっとした違いはある。
パイは生地に具を入れて焼いたものを指すのに対して、タルトは生地の上に具を乗せてから焼く。
より具の押し出しが強い菓子がタルト、とも言える。
"土台となるシュクレ生地は既にある。問題はアパレイユの方か"
アランシエルは思い浮かべる。
タルト・オ・シトロンの要となるのは、間違いなくタルトの中に注ぎこむアパレイユだ。
レモンの特徴をフルに生かし、どれだけ爽やかな甘酸っぱさを演出できるか。そこにタルト・オ・シトロンの出来はかかっている。
"スイーツ決闘は明日の正午。焼成は直前でいいとしても、アパレイユは今日作ればいいな"
昨日も一つ練習として作っていたので、今日は本番ということだ。
アパレイユは冷蔵庫で保存すれば、数日はもつ。直前でばたばたすることは避けたい。
「やるか。あの仮面のパティシエに一泡吹かせてやろう」
まずはレモンの黄色い皮の部分をすりおろす。おろし金で丁寧に、黄色い表面だけを削り落としていく。
少し深くなると、苦味を帯びた白い皮の部分が出てくる。ここは注意深く避けていく。
この作業を終えてから、アランシエルはレモンを横半分に切り、果汁を絞り出した。
レモンの半透明の果汁が滴り、これを小さめのボウルに溜めておく。すりおろした皮と共に、後で使うからだ。
"これは準備に過ぎない。アパレイユ本体を作ろうか"
用意した二個の卵を割り、ボウルに入れる。
更に二個の卵を割ったが、これは卵黄だけ使う。オレンジを帯びた卵黄は見た目も鮮やかだ。これもボウルに入れ、さらにそこにグラニュー糖を投入した。
それを泡立て器でシャカシャカとよく混ぜていく。
"このアパレイユ、プリンみたいなものだからな。違いは牛乳を入れないことくらいか"
ふと以前、楓にクリーム・カラメルを作ったことを思い出した。
あの時、楓は二つも食べていた。よほど風邪で弱っていたのだろうか。
「意外によく食べる女だ」とふとおかしく思いつつ、ボウルにレモンのすりおろした皮と果汁を加え、軽く混ぜておく。
ここから溶かしバターを入れるのだが、アランシエルはこの工程には慎重だった。溶かしバターの温度が高すぎると、先にボウルに入れた卵が固まるからだ。
「50℃、それ以上の温度にはしてはならない」と自分に注意しながら、バターを湯せんにかける。
やがてバターは湯の温度により、ゆるゆると溶かされた。
とろりとしたその溶かしバターは、黄色い流れとなって生地に合わさる。
先に加えたレモンの芳香が、バターに滲んで合わさった。
"これでアパレイユは完成。シュクレ生地の白焼きより後のプロセスは当日行えばいい"
ほう、と息をついて、アランシエルはいったん作業を終えた。目の前のボウルには、全ての材料を混ぜ合わされたアパレイユがある。
ほんの少しだけ味見をすると、まろやかな甘さの中にツンとしたレモンの風味を感じた。問題ない。
改めてボウルにラップをして、冷蔵庫にしまう。少し多目に作ったので、それだけは手元に置いておいた。戦いの前準備はこれで良しだ。
アランシエルが静かに闘志をたぎらせた時、馴染みの気配を後方に捉えた。
「覗き見とは趣味が悪いな。エーゼルナッハ、それにルー・ロウ」
振り向かずに声をかける。魔王の背中に答えたのは、忠実な執事見習いだった。
「すみません、声をかけようかと思ったのですが。あまりに真剣に菓子作りに取り組んでおられたので」
「とがめているわけではないさ。今回は相手が強敵だからな。本気でやらねばまずい」
「という割りには、ずいぶん楽しそうなご様子ですな。この光を失った目でも、アランシエル様が生き生きしておられることは分かりますぞ」
エーゼルナッハが口を挟む。呪印が編み込まれた布を通して、この年老いたダークエルフは対象を感覚呪法で把握する。感情の揺れや気配は、むしろ目に頼らない方が分かるらしい。
「伝わってしまうものだな、エーゼ翁には。ふ、確かに心に来るものはあるとも。地球でパティシエの技術を学んだとあっては、相手にとって不足なし」
コック帽を取り、アランシエルはニヤリと笑う。
褐色の肌にはわずかに朱がさしている。感情の高ぶりを隠す気は無いらしい。
エーゼルナッハは「ようございますな。好敵手というのは、己を高める良薬です」と頷いた。
その時ルー・ロウが口を開いた。
「あの、アラン様。その仮面の男が地球から来たというのは、確かなのですか?」
「明言はしていないが、ほぼ確実だな。リシュテイル王国の連中、余に対抗する為によくよく考えたと見える。もう一人いる仮面の男もそうだろうよ」
「ズルくないですか? アラン様はご自分で修業されたのに、奴らは人をかっさらってきて戦力にするなんて」
「そうは言うが、余もカエデを連れてきているからな。仕方ないんじゃないか? そう怒るな、ルー・ロウ」
アランシエルがこう言うのであれば、ルー・ロウもそれ以上追求することは無い。
エーゼルナッハも「そうよな。特に規則には触れない以上、リシュテイルの連中が思いきった決断をした。それだけのことよ」とこだわりは無いようだ。
会話が一段落したのを見て、アランシエルは「余ったんだが味見するか?」と余ったアパレイユを差し出した。
「喜んでいただきます、」とルー・ロウは顔をほころばせ、エーゼルナッハは「かたじけない」と小さく礼をする。
ちょっとした役得といったところだ。
「別にそんな嬉しそうな顔しなくとも、余がいつも作っているちゃんとした菓子があるではないか」
「おまけにはおまけの良さがありますからね」
「そうですな。作りかけのアパレイユなど、アラン様の身近にいなければ食べる機会も無いですし」
ピンときた。「カステラの切り落としみたいなものか」と魔王は納得する。
正規の菓子ではないが、意外に美味だったと思う。
"結果的に喜んでもらえれば良いさ"
そう結論を出し、アランシエルは「好きに食べていいぞ。あと、一時間後に会議室に来てくれ」と声をかけた。
† † †
魔王城の会議室は、ごく平凡な造りだ。
壁や天井は、魔竜の骨を加工した素材を使っている。
床を覆う絨毯は暗闇かと思う漆黒であり、初見の者なら戸惑うだろう。
他の部屋は普通の人間でも受け入れやすいデザインだが、ここだけは違う。
「不敬ながら、初代の魔王様のセンスって変わってますよね」
「ほんとに不敬であるが、ルー・ロウの言いたいことは分かる」
ルー・ロウの呆れたような声に、アランシエルは深く同意する。
彼も本当はこの会議室はどうにかしたい。だが、伝統と権威としがらみがまとわりつき、それも現実的ではなかった。
二人の会話を聞きつつ、エーゼルナッハは「私は見えなくて幸運ですかな」と珍しくおどけたような声を漏らした。その光を閉ざした視線が、魔王へと向く。
「して、わざわざ我ら二人を呼んだのはいかなご用でしょうか。立ち話では済まぬ用件ですかな」
「うむ。二人も知っての通り、スイーツ決闘は明日の正午だ。タルト・オ・シトロンはこちらで完成させ、転移魔法で持っていく。その際に、お前達にも来てもらいたい」
「ほう......私は構いません。ですが、理由をお聞きしてもよろしいですか。決闘の場に、アラン様以下の全幹部が揃うことになります。けしてその意味は軽くはありませんぞ?」
「簡単なことだよ。余の勝利を皆で祝おうというだけだ。決闘が無いなら、エーゼ翁とルー・ロウにはそのまま留守番で良かったのだが――気が変わった」
アランシエルが微笑する。
その笑みに潜まされた闘志を感じ、エーゼルナッハは微かに畏れを感じた。
本気だ。これまでにない本気で、魔王は相手を叩き潰す気でいる。
ルー・ロウの「ある意味、祭典の前哨戦になっているということですね。承知しました」という言葉は、恐らく的確だろう。
「ああ。言うまでもないが、明日は勝ちにいくぞ。それだけの価値がある相手だ」
漆黒のマントをはためかせ、アランシエルは立ち上がった。
その目は窓の外を向いている。
紅い視線が向かう先はただ一つ。リシュテイル王国の方角だった。




