36.フィナンシェ
楓らが注視する中、仮面の男は菓子作りに取りかかり始めた。
冷蔵庫からバターや卵を取り出し、オーブンの温度を220℃に合わせる。その動きは滑らかで、迷いがない。
「フィナンシェは食べたことがあるかな?」
男の問いは全員に投げかけられた。
答えたのは、シーティアだ。彼女の青い目は仮面の男をぴたりと見据えている。
「ありますわ。あの金の延べ棒みたいな形をした、平たい四角い焼き菓子でしょう。美味しいですよね」
「そうだね。比較的ポピュラーなお菓子だね。バターの風味が濃く、アーモンドパウダーを使うのが特徴だ。正確にはアーモンドパウダーと粉糖を合わせ、タンブータンと呼ばれるものを作るのさ」
仮面の男の口調は優しい。敵に対してでも、穏やかな態度だった。
鼻歌を唄いながら、彼はバターを鍋に放り込む。「澄ましバターを作り、更にその一部を焦がしバターに」とわざわざ説明してくれた。
半透明の澄ましバターは黄色く透き通り、焦がしバターは濃いカラメル色になっていた。
「さすがムッシュ、今日も素晴らしい」
うっとりとした口調で、ロゼッタは呟く。最初はこのバターの匂いだけで、落ち着かない気分になっていた。
「ムッシュってことは、やっぱりフランス人なのね。ロゼッタさん、ありがとう」
「えっ、私何かまずいこと言ったのか?」
「さあ、どうかしらね」
楓はわざと意地悪く振る舞った。
狼狽するロゼッタだったが、すぐに気を取り直す。
「ふ、ふふん! もしムッシュの生まれが分かっても、勝負には影響はないさ! しかもフランスってどこなんだろうな!?」とまで開き直る。
「まあいいのですがね。そうだよ、お嬢さん、私はフランス人だ。いわばスイーツの本場生まれさ」
自分から告白しつつ、仮面の男は手早く工程を進めていた。
あらかじめ準備していたタンブータンとグラニュー糖、ふるった薄力粉をボウルに入れ、それを木べらで混ぜ合わせていく。
それを見ていたグーリットが「ひゅう、いい匂いだな」と声をかけると、低い笑い声を響かせた。
「ここに卵白を入れるんだよ。卵黄を使わないことだ。理由は一つ。高温で焼いた際に、卵白だけの方がパッと固まるからだね。フィナンシェは生地の柔らかさよりは、しっかりした歯触りを楽しむ菓子だ」
「そう、ね」
頷きながらも、楓の表情は固い。
卵白を混ぜ終えた生地を見る。とろりと薄茶色をした生地は、完璧な滑らかさだ。
自分がやってあの状態になるかと考えると、答えにつまる。
"多分無理かな。十回に一回ならあるいは"
それをこの男は易々とやっている。
楓の目の前で、男は生地に焦がしバターを加えていく。
とろみのあるカラメル色のバターは更に香ばしさとコクを加え、生地に深みを与えていた。
「さあ、これを絞り袋に入れようか。あとは絞り出し、そして焼成だけさ」
男の手さばきに目が追い付かない。
絞り袋を握る手はリズミカルに動き、瞬く間に全ての型に生地を入れ終えた。
澄ましバターを塗られた型は生地の貼り付きを防ぎ、表面に僅かながら光沢を添える。
ガコン、と鉄の型が鳴った。220℃に予熱されたオーブンに、それが丁寧に差し込まれる。
「十五分で完成だ」という声には、自信と喜びが溢れていた。楽しいという感情が、仮面の男から伝わってくる。
「速い、それに正確ね」
「おほめに預かり光栄だね」
楓と男は短く言葉を交わした。
この瞬間、楓は僅かに身体を震わせた。相手の力量を認めたからだ。
少なくとも、今の自分では相手にならない。同じ菓子を作っても、細かい仕上がりには差が出る。
「あとは食べてみてから、ということかな」
「おい、大丈夫か、嬢ちゃん。顔色悪いぜ?」
楓の漏らした独り言に、グーリットが反応する。「え、なんでもないよ」という強がっても、心のもやもやは晴れなかった。
† † †
財源、資金、金融のことをファイナンスと言う。
このファイナンスとフィナンシェという菓子の名称は、基本的に同じ仲間だ。
フィナンシェの形は金の延べ棒の形であり、平たく四角くまとまっている。
「名前の由来を聞くと、黄金の価値があるように見えてくるな......」
ロゼッタがそう言うのも無理はない。
焼き上がったフィナンシェは、バターの色が強めに出ている。黄金と茶色が混じった表面は、甘く香ばしい匂いを周りに放っていた。
熱を帯びた甘い匂いは、スイーツ好きには凶器である。
これはスイーツ決闘ではないので、あくまでもただの試食会のようなものだ。地下では狭いからということで、全員が一階に戻ってきている。
窓からの陽射しに照らされ、皿に重ねられたフィナンシェが浮かび上がる。
わざと斜めに立てかけさせたフィナンシェもあり、そのアンバランスさが見た目のアクセントになっていた。
「どうぞ、召し上がれ。気取った菓子じゃないしね」
「じゃあ遠慮なくいただきます」
仮面の男の勧めに従い、楓がまず最初の一個を手に取った。
甘く漂うこの匂いは、タンブータンとバターのものだろうか。
アーモンドパウダーが熱されると、独特の香ばしさが生まれる。
"美味しそう"
もうこの男の腕は分かっている。
怖い。けれどもこれを食べずにはいられなかった。
サクリと、楓はフィナンシェに最初の一口を入れた。まず感じたのは、ほどよく重たい歯触りだ。
「フレッシュな卵白を上手に使ってるからよね」
見ていたからこそ分かる。
フワリとした軽さが無いわけではない。だが同時に、ねっとりとした重さがある。
大きさ、手軽さからよく比較されるマドレーヌとの違いは、主にこれだ。
"ふわっとした食感とレモンの風味がマドレーヌの特徴。だけどフィナンシェは"
タンブータンの香ばしさと生地の程よい重さ、それが組合わさっている。
コクのある甘さが口の中に溢れ、楓の食欲を刺激した。
これは、隙の無い美味しさとでも言うのだろうか。「フィナンシェ一つでこうも違うの」と彼女は言葉を漏らす。
悔しいが、美味しいと認めよう。
「完璧なフィナンシェですね」
素直な感想を口にした。
「ありがとう、そう言われると励みになるね」と仮面の男は言いつつ、砂色の髪をくしゃりと払う。
賛辞には慣れているようだが、それでも嫌みではなかった。
その余裕ある態度に、ロゼッタの声が覆いかぶさる。
「素晴らしいっ! いついただいてもっ、ムッシュの菓子は絶品だ! この生地の決め細やかさといい、滑らかな甘さといい! どうにかなってしまいそうだっ!」
満面の笑みを浮かべ、ロゼッタはひたすらに賛辞を述べた。
一つでは足りないらしく、更にもう一つフィナンシェを手に取る。
「食べてもよいかな?」という期待に満ちた質問に、仮面の男は「もちろん。たくさんあるからね」と答えた。
楓の聞き間違いでなければ、多分少し苦笑している。
「いやあ、しかしよお。ほんとこれ美味いよな。敵の作った菓子だけど、これはすごいわ。アランにゃわりいけど、あいつの作った菓子といい勝負だな」
「えっ、そこまで言っちゃうんですの。私は、うーん、いや、でも確かにアラン様のお菓子と......くぅ、とりあえずもう一個いただきます」
グーリットの感想に、シーティアが唸る。答えは先送りにして、まずは食欲を満たすことにしたらしい。
サキュバスの少女は小さく笑いながら「まだまだ色気より食い気の年なんですの」と呟いた。
それを聞いて、楓は思わず「平和な戦いね、ほんと」と頬を緩めた。
その黒い目は、このフィナンシェの作り手に向かう。
「あなたのフィナンシェを食べた後だと、スイーツって本当にスゴいなと思います。ありがとうございました」
「いいえ、お礼を言われるほどのことは。私は毎日の仕事をしただけだからね」
「はい。ちょっと気合いもらいました。ありがとう、名前も知らないムッシュ」
手を拭いてから、楓はそっと右手を差し出した。仮面の男も右手を差し出す。
再びの握手は、食べる側の喜びと作り手の喜びをお互いに伝えあった。
その感触が逃げる前に、楓は右手をぎゅっと握る。
"この人、強い。けど、それでもアランなら"
祈りにも似た願いを、拳にこめた。
† † †
楓からそんな願いを託されたとは、アランシエルは知らない。
いくら魔王でも、人の思うこと全てを把握することは出来ない。
その代わりに、今のアランシエルは自分の持てる技術をフルに稼働させようとしていた。
「タルト・オ・シトロンか」
明日に迫ったスイーツ決闘、その品目を思い浮かべる。
脳裏に浮かんできた菓子は、レモンイエローも鮮やかなアパレイユ(タルトに流し込むたねの事)が特徴だ。
甘酸っぱく爽やかな風味を、いかに発揮させるか。
"抜かりはない"
白いコックコートをまとい、アランシエルは魔王城のキッチンに立つ。その赤い目が一瞬強く輝いた。




