28.幕間 舞い降りた天才 2
脳裏に閃くものがある。四年前だ。休暇先で訪れたニース。飛び入りで、現地のスイーツのコンテストに参加した。
そこでピレスは負けた。自信のあったアシェット・デセールだったのにだ。
「ムッシュ、どうしたんですか。顔色悪いですよ」
鈴村の声も、今のピレスには届かない。
わなわなとその手は震える。驚きか、これは。
その目はギラギラとした光を放ち始めた。喜びか、これは。
久しく味わっていなかった感情が、ピレスの体を動かした。
「ユグノーさん、これがあなた達の敵か。魔王と言っていたが、名前は無いのか。この男を指す個人名は」
「あるけど、それがどうしたんだ」
「教えろ、今すぐ」
ピレスの声はぞっとするほど低い。歴戦の勇者ユグノーが思わず警戒するほどだった。
気圧されたことに内心舌打ちしつつ、ユグノーは素直に答える。
「アランシエル。それがこの魔王の名前だ」
「アラン――シエル」
ピレスは再び壁に写された映像を見る。褐色の肌は精悍さを伝え、その黄金の髪は獅子のたてがみのようだ。顔は綺麗に整っているが、女性的な部分はない。男性的な力強さと美しさを両立させている。
記憶と目の前の魔王の映像が重なっていく。
強いていえば、髪から突き出た二本の角、それに真っ赤な血の色をした目が違う。
だが、それ以外はそっくりだ。この魔王アランシエルと、あのアランという見知らぬパティシエは。
「ジューダス殿、ご存知であれば教えてほしい。この魔王という存在は、自分の姿形を変えられるのか? 例えば角を隠したり、目の色を変えたりくらいは」
「恐らくそれくらいなら造作もありますまい。条件次第では、もっと大がかりな変化も出来る。自分の特徴を消すくらいは、魔王にとっては簡単なことでしょう」
ピレスの問いに答えながら、ジューダスは密かに驚く。先程までの無関心さを忘れたかのように、ピレスが食いついてくる。
何が彼を駆り立てるのか。不意に聞いてみようと思った。
「ピレス殿。もしやとは思いますが、この魔王アランシエルをご存知なのですか?」
沈黙は一瞬に過ぎなかった。礼拝堂の静寂を、ピレスの返答が破る。
「ああ、恐らくだがね。この男はよく似ている。アランと名乗り、コンテストで私を負かした男に。証拠は無いが、まず間違いなく同一人物だ」
「何と。あの魔王、地球でパティシエ修業をしていたことは知っていましたが。そんな偶然が」
「ピレス殿とアランシエルにそのような因縁があるとは」
ジューダスに続いて、ロゼッタも反応した。偶然というには、あまりにも低い確率を引き当てたものだ。
ユグノーもこれには驚いたが、彼はもう一人のパティシエの方へと注意を向けた。
「スズムラ、君もさっき驚いていたようだな。こっちの助手を見た時、顔がひきつってたぞ」
「後輩だよ」
「後輩? 何のだよ」
「俺がフランスに留学して、ムッシュ・キャバイエの下で働き始める前の話だよ。日本で同じ職場で働いてた。たった数ヵ月だったけど、俺と彼女は先輩後輩の関係だったんだ。あ、先輩とか後輩って分かるかな?」
「ああ、それくらいはね。へえ、そうだったのか。てっきり元恋人かと勘違いしたんだがな」
ユグノーの返答に対して、鈴村は苦笑いで応じるしかなかった。
「もしそうだったら、ほんとに映画だよね。けど違うよ。俺と彼女の間に恋愛感情はない」とはっきりと答える。これは間違いないと断言出来る。
「そうか。もしそうならドラマチックだなと思ったんだけどな。敵味方に分かれた恋人同士、彼と彼女はスイーツ決闘でしのぎを削る。ちょっと見てみたかったね」
「ご期待に添えず悪いね」
ユグノーのちゃかしたような様子が気にならないわけではない。
けれど、鈴村はそれどころではなかった。上司であるピレスは、彼を負かした相手を見据えている。鈴村自身も、昔の後輩を相手にしようとしている。
運命のいたずら以外の、何物でもないんじゃないかと考えた。
ピレスと鈴村は目を合わせた。言葉を交わすより先に、二人は頷く。
ただ半年間、リシュテイル王国に協力するだけではない。個人的な因縁が課された今、二人のやる気はいやでも高まる。
「ジューダス殿。地球と同じような環境で、我々は菓子作りが出来る。確かそのような条件でしたね」
「うむ、その通りです。勇者ユグノーの頑張りにより、既に王城の一角にスイーツ作りの場は設置されています。不足の物があれば、私かユグノーに伝えてください」
「承知した。ではこちらからもお伝えしよう。ユタカ、いいな?」
ジューダスに最終決定を伝える前に、ピレスは鈴村へと振り向いた。「はい、構いません」という鈴村の返答を確認してから、ピレスは再び口を開く。
「ピレス・キャバイエ、並びにユタカ・スズムラの二名はリシュテイル王国に力を貸そう。この半年間、よろしくお願いします。魔王アランシエルの好き勝手にはさせない」
それは一つの誓いであった。そして同時に宣戦布告でもあった。
奇妙な運命と偶然が重なった結果は、リシュテイル王国に最強の武器をもたらした。
ジューダス大司教はほくそ笑む。「これで勝てる」と。
勇者ユグノー・ローゼンベリーは皮肉な笑みを浮かべる。「面白くなってきたぜ」と。
赤髪の女騎士ロゼッタ・カーマインは密かにびびる。「一体どんなスイーツが出てくるんだ」と。
そして魔王アランシエルは、未だこの事を知らない。ピレス・キャバイエという天才がナノ・バースに降り立ったという、想定を越えた最悪の事態を。
† † †
真新しいキッチンの真ん中に、ピレスは立つ。
その長身は白銀色のコックコートに包まれている。コック帽もきちんとかぶり、サブリエと呼ばれるエプロンも着けていた。気が引き締まる。
「やっぱりムッシュはその格好が一番似合いますね」
「パティシエだから当然だろうね。さて、ユタカ。この世界に来てから一週間が経過した。そろそろ見せてやろうじゃないか、我々の実力を」
あごに手をやりつつ、ピレスは鈴村を促す。彼も同じ気持ちなのだろう。表情を引き締め、自分のコックコートをぽんと手で叩いた。
「ウィ、ムッシュ。それでは記念すべき最初の菓子は何にしますか?」
「もう決めているのさ。栗のフォンダンにする。とりあえず、ロゼッタさんに食べてもらおう。魔王のスイーツに未だに悩まされているらしいからな」
鈴村に答えてから、ピレスは小さなボトルを開けた。
中にはマロンペーストが入っている。完熟した栗を丁寧にすりつぶし、甘さと風味を熟成させたペーストだ。
これを使った栗のフォンダンなら、ロゼッタもきっと満足するだろう。
そして、時はその日の午後へと経過する。
ピレスの目論みは当たった。栗のフォンダンを一口食べた瞬間、ロゼッタはあまりの歓喜に転げ回ったのだ。
「こっ、これは――栗の甘さがケーキ生地の隅々まで行き渡り、私の舌を浄化していく! ケーキのど真ん中にあるのは、これは栗の渋皮煮かっ。ふわりとほろ苦さを秘めて、しかしそれでいて豊かな自然の甘さが優しいっ!」
感動の余り、言葉が見つからない。涙を流してロゼッタは感謝する。
ああ、このピレスの作った栗のフォンダンが、自分にかかった呪いを解いたのだ。あの甘美で忌まわしいケーク・マーブルという名の魔王の呪いから、ようやく逃れられたのだ。
彼なら、この天才パティシエならば、きっと魔王アランシエルを倒してくれる。
「ピレス殿おおお! このロゼッタ・カーマイン、一生貴殿についていきますっ! わ、私は女子力は低いけど、そ、それでもっ! 貴殿と貴殿のスイーツを想う気持ちは誰にも!」
「ちょっと待ってください、落ち着いて!?」
ロゼッタが押し倒さんばかりに詰め寄り、ピレスは必死で彼女を落ち着かせようとする。
その二人を見ながら、鈴村豊は「ムッシュのスイーツ食べたら、確かにこうなるよな」と小さく笑った。
秋が終わる。冬が始まる。落ち葉が風に舞い、もうじき初雪が降ろうとする季節になっていた。
そんな寒気も、ピレス・キャバイエには関係ない。まだ見ぬ魔王アランシエルに対して、静かに闘志をたぎらせつつある。
大いなる菓子の祭典まで半年を切った今、事態は大きく動こうとしていた。




