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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第四章 納刀
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◆ おまけのおはなし ◆


ある地方都市の中心街。残暑で蒸し暑い八月末の午後十時になろうというころ。駅前のベンチに女性がいた。


ショートカットの髪に紺のブラウス、白いパンツ。一人ひっそりとうつむいて、泣いているのか眠っているのか具合が悪いのか、じっと動かない。道行く人々は大半が自分のことで手いっぱいで、彼女には気付かない。あるいは気付いても、ちらりと視線を投げるだけで通り過ぎてゆく。


……というわけでもなかった。一組の足が彼女の前で止まった。スラックスに革靴という、特徴のない男性の足だ。


「大丈夫ですか?」


少しかすれ気味の、腹の底から響くような声。平凡な足元と違い、強い印象を与える声だった。


ゆっくりと顔を上げた女性の目に涙の跡はなかった。警戒半分で見上げた瞳に映ったのは静かなたたずまいの男性。この時間でもボタンダウンの白いシャツに乱れはなく、酔っ払いやナンパ目的ではなさそうだ。――と、ふたり同時に眉をひそめた。


「どこかで……」

「見たような……」


あっ――と先に思い出したのは女性の方。目をぱっちり開けて背筋をぴんと伸ばした。


「服装が違う! 袴履いてた!」

「え? ああ……、そう……ですね」


確かに休日は袴を着けて活動をしている。その活動のどこかで会ったのだ。それも、さほど以前ではなく……。


考えている間に女性が立ち上がり、そのままぴょこんと頭を下げた。


(きら)です。坂井桜の妹です。先日、稽古を見学させていただきました」

「ああ! 桜さんの――あれれ、大丈夫?」

「す、すみません。ただの立ちくらみ……」


支えられて再びベンチに落ち着き、ほっと息をつく。そのときふと気付いた。支えてくれた腕がまったく揺れなかったことに。まるで木でできた手すりみたいに。そしてもう一つ――。


「あの……、申し訳ないのですけど、お名前が思い出せません……」


あはは、と笑う声も深味があって心地良く響く。


「お互い様ですよ。黒川哲也です。この前はご挨拶だけでしたから仕方ないですね」


哲也さん――と輝が口の中で繰り返した。


他人から名前で呼ばれるのは慣れている。けれど、仕事と剣術に関係のない相手に呼ばれることはめったになく、少しばかりこそばゆい。


「具合が悪いんですか? タクシー乗り場まで送りましょうか?」

「いえ、具合が悪いわけではないんです。仕事でちょっと失敗しちゃって、ひとり反省会を……」

「ここで?」


静かに反省できるような場所ではない。


「落ち込んで歩いてたら目に入ったから……」


周囲も気にならないほど落ち込んでいたのだろうか。


「そう。でも、もう遅いですよ。帰った方がいい」

「はい、そうします。でも……」


そこでほうっとため息をついた。


「まだ何かあるのかな?」

「お腹がすきました」


ひどく情けない表情で見上げる輝に、思わず言葉に詰まる哲也。そして、ははは、と豪快に笑った。


「じゃあ、ラーメンでも食べに行こう。どこか知ってる?」

「え? でも、付き合わせてしまっては申し訳ないです」

「いや、こっちも少し物足りないと思ってたところだから」


哲也のこだわりのない笑顔が輝の迷いを払ってゆく。哲也の人となりは姉の話や稽古の見学で知っている。それに、提案がラーメンというところも気楽でいい。


「ありがとうございます」


笑顔で答えた途端にお腹が盛大に鳴った。恥ずかしさを誤魔化すため、えへへ、と笑い、「あっちです」とラーメン店へと歩き出す。


「哲也さんはお仕事でこちらに?」

「うん。造園業の会合があってね。懇親会にも出たんだけど、料理が少なめでね」

「ああ! 宴会で料理が少ないのって残念ですよね! お酒があればいいっていう人もいるけど、食べ物がないとお腹がふくれないし!」


人差し指を立てて指摘しながら、輝はちらりと思う。あたし、さっきまで酷く落ち込んでいたのに。こんなに元気にしゃべっていたら、たいしたことなかったと思われてしまいそう……。


そんな輝の弾むような足取りにつられて、哲也の心がのびのびと軽くなる。仕事も剣術もひたむきに努力し、技と知識を積み重ねてきた。それ以外の世界があることを忘れていたわけではないが、今、その世界をいつになく身近に感じるのは……。


笑顔の裏に戸惑いを隠したふたりを夏の大三角形が見下ろしている。





では、またいつか!

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― 新着の感想 ―
[一言] 完結おめでとうございます。 私たち書き手は、苦しくとも「書きたいから書く」のだと思います。 書き続けられること、それが全ての人にできることではなく、それが出来る虹色さんはやはり「書き手」な…
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