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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第四章 納刀
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年明けに桜さんの家をリフォームした。二月には俺がこの家への引っ越しを済ませた。三月半ばには哲ちゃんたちと一緒に身内だけの結婚式を挙げる。


家は買い替えてしまうという選択肢もあった。桜さんにとっては悲しい思い出もある家だから。けれど彼女は「スポセンが近くて稽古に便利ですよ?」という一言で片付けた。


黒川流剣術がそこまで桜さんの中で優先事項になっていることは、頼もしく感じる一方で意外でもあった。でも、リビングでの練習方法を説明されたとき――笑ってしまったけれど――彼女がどれほど剣術が好きなのかがよく分かった。このことは俺にとっては励みになるし、祖父もきっと嬉しいだろう。


剣術練習とは関係なく、リフォームにあたり、俺は1階の間取りを変えることを提案した。リビングに接した和室をリビングと一体の空間として使えるように。


桜さんには言わなかったけれど、俺は彼女をこの家に残るお母さんの気配から解放してあげたかったのだ。桜さんは仏壇のことを気にしながら、俺を信用して承諾してくれた。


壁紙やキッチンやバスルームなど、いろいろなものを相談しながら決めるのはとても楽しかった。工事の間は桜さんがうちに泊まりに来たり、工事の確認を兼ねて俺が泊まりに行ったりした。


完了後、すっかり見違えた1階を見て、桜さんは晴れ晴れとした笑顔を見せた。仏壇は新しく設置した壁面の棚に収め、インテリアと馴染んで存在感が薄まった。


「わたしたちの家ですね……」


桜さんはしみじみとつぶやいた。


家具も更新し、新しい住まいで新しい生活が始まった。悲しい過去を、幸せな今が上書きしていく――。


いや、違う。それは正確ではない。過去が完璧に消え去ることはない。


桜さんの心には傷跡が今でもたくさん残っている。普段は絆創膏で隠されていても、何かのはずみでそれが剥がれて傷跡がじくじくと痛んで彼女を苦しめる。会話の途中で彼女がふと黙ったり、言葉を濁したりするのはそういう時だ。そうしながらも静かな微笑みを消さない彼女を見ると胸が痛む。


知り合ってからずっと、彼女はお母さんのことを話さなかった。結婚を決意してくれたあの日も、語ったのは主に自分のことだった。桜さんを心が冷たい人間だと言ったお母さんの仕打ちを俺に訴えたわけではない。


思うに彼女は自分が被害者だと申し立てることに抵抗があるようだ。お母さんに限らず、仕事や町の中で不愉快な思いをさせられても、理不尽だと思いつつもその場を耐え、後で俺に話すときには相手を悪く言うことをためらう。自分の何かが悪かったのかも知れないと考える傾向が強いのだ。そういうときは、俺が桜さんの分も憤慨して文句を言うことにしている。


それでも一緒に過ごす時間が長くなるにつれて、ぽつりぽつりとお母さんのことを話してくれるようになった。「あのときは……」と、言葉少なに。


最初のころは、俺は慰めの言葉を探した。でも、次第に分かった。彼女は慰めを求めているのではないのだと。


桜さんは、語ることでそれが過ぎ去ったのだと確認し、気持ちを整理しているように思う。今はもう大丈夫、と。まるで昔話を語るみたいだ。怖いものや悪いものはもういない、めでたしめでたし――と。


だから俺は彼女の話を黙って聞いて、目を合わせ、うなずく。大丈夫だよ、という気持ちをこめて。


彼女を怖がらせ、怯えさせるものはここにはいない。犠牲を強要する存在もない。思いのままに話し、笑い、文句を言える。俺を叱ったっていいのだ。


そんなことの一つが、ちょうどお母さんの喪が明けたころにあった。ソファーに並んで寛いでいた日曜日、桜さんが「ときどき思うんですけど……」と、考え考え話し始めた。


「子どものころ、母はいつも『目上の者を敬え』って言っていたんです。それから『自分よりも他人を優先するのが美徳』とも言われて……。そういう教えって、まあ納得できるんですけど……」


確かに尊敬の心や思いやりは、世の中に必要だと思う。


「でも、母がそれを言うときって、母の希望どおりのことをわたしができなかったり、母の言うことに対して自分の意見を言ったりしたときで……。つまり言うことを聞けってことなんですけど、それって母が自分を優先しろと言っているわけですよね? なんだか矛盾しているような……」

「うん……、確かにそうだね」


ふつふつと怒りが湧く。桜さんのお母さんは道徳の理屈を、娘を支配するために利用していたのだ。子どもだった桜さんは、親の言葉を素直に受け取っていたのだろう。そしてそれは大人になってからも桜さんを縛った。


「やっぱりそうですよね……」


桜さんは小さくため息をついた。


「まあ、今さら言っても仕方ないですけど」


そのとおりだ。今さら言っても仕方ない。仕方ないけれど……、この憤りをどこに片付ければよいのか。


桜さんは俺の苛立ちには気付かず、湯飲み茶わんをぼんやりと両手で包み込んで続けた。


「あるとき読んだ本に、『相手の良心に任せることでわがままを通してきた人』っていう言葉があって……。それはその中に登場するお年寄りなんですけど、『わたしの希望なんてどうでもいいんですよ』って遠慮した後に『あなたの良心に任せます』って言うんです。言われた側は、希望を通さない自分は意地が悪いみたいな気がして、結局、その人の言いなりになってしまうんです」


なるほど。言葉は使いようだ。


「わたし、その部分に衝撃を受けて……」

「似てたから、かな?」


桜さんはふふっと笑った。


「ええ。母はもっと遠回しだったり、無言の圧力だったりしたけど……、わたしも全部、自分で選んできたから。母と対立しないで済む道を」


そして、お母さんは桜さんの犠牲に責任を感じずにいられた。自分が命令したわけではない、本人が選んだのだと……。


「風音さん? そんなに鼻息荒くしないでいいんですよ?」


桜さんが笑って俺の頬をつついた。


「わたし、それを読んで元気が出たんです」


元気が出た?


「そのお年寄り、実際に作者の身近にいたんだと思うんです。あれは創作の物語ですけど、人物やエピソードは作者の観察や体験から生まれていたようなので。だから、いつの時代にもそういう人がいるんだなっていう驚きと、そんな人と一緒に生活しているやるせない気持ちがよく分かって……、自分だけじゃないと思ったら、わたしもきっと大丈夫って思えたんです」

「……そう」


自分だけじゃない、同じ思いの誰かがいる。それは確かに大きな慰め、そして力になる。


「それと、ユーモアで乗り切ることも教わりました」

「桜さんはたくさん本に助けられてきたんだね」

「ええ。本当にそう」


桜さんは今でも本を読む習慣を失っていない。彼女の本棚には隙間なく本が詰め込んであり、市立図書館からも常に何冊か借りている。電車で出かけるときには必ず本がバッグに入っていて、この前は伝説や由来を持つ刀を紹介する本を読んでいた。


「最近、母は不幸に捕まってしまったんだなあ、なんて思うんです。父が亡くなって、小さい娘二人を自分の責任で育てなくちゃいけなくなって……。自分に降りかかった不幸を――不幸だけを見て、幸せそうな他人と比較して、その不公平さが悔しくて、世の中を憎んでいたんじゃないかなって」


その憎しみと怒りを娘たちにぶつけた。あるいは娘たちも自分と一緒に不幸でいるべきだと考えていた……。


「わたしは……そんな生き方はしたくないです。起きてしまった不幸にとらわれずに、その次に目を向けていきたい。小さな幸運や面白いことに感謝して、楽しい気持ちで過ごしたいです」

「桜さんは大丈夫。会ったときからずっと、プラスのオーラをまとっているよ」

「ほんとに? それなら嬉しい」


そう。その笑顔だ。無邪気で、そして喜びにあふれて。


そんなふうに笑うから、桜さんが重い過去を背負っていることに気付かなかった。そして過去を知った今は、辛い生活の中で彼女の良いところを守り育ててきた強さに感謝し、尊敬している。その強さはきっと、新しい生活にも明るさとしあわせをもたらしてくれるだろう。


「あ、そろそろ稽古の時間です」

「じゃあ、着替えようかな」


この家から稽古に通うのは間違いなくとても便利だ。特に俺は袴のまま行って帰ってくるので、荷物は居合刀と木刀だけで済む。


その俺と一緒に歩くのに、桜さんは相変わらず洋服で通っている。一式持つとそこそこ重いが、自分の荷物は絶対に俺に持たせない。これも稽古の内だからという桜さんらしい頑固さで、そういうところも……やっぱり好きだ。


稽古の後に実家に帰らなくなったことを家族が淋しがっているのかと思ったら、「夕食後に駅まで送り届ける手間がなくなって楽になった」と喜ばれていた。ほんの少しだけど、がっかりした。でも、今までありがとう、だな。


いろいろなことが、変わったり、変わらなかったりする……。




「視線を下げないで。視線を動かすと頭がぐらぐらするよ」

「はい」


表木刀を構えた桜さんが向かい合った哲ちゃんに注意されている。彼女は今でも下を向く癖がぬけない。


とはいえ、入門当時と比較すればずいぶん改善されている。そして。


「やあああ……、とう」


今一つ頼りないながらも掛け声が出るようになった。目立つことを嫌う彼女にとって、これは大きな進歩だ。


「ごめん、風音! ちょっと交代」

「はい!」


哲ちゃんが目に何か入ったと言って武道場から出て行く。それを見送って、桜さんとうなずき合い、まずは礼。


――上手くなったな。


開始の作法もしっかりしてきた。その間、視線が多少揺らぐけれど、懸命に固定しようとしているのが分かる。重い表木刀の構えも姿勢よくピタリと決まった。そしてこちらに向けた表情が……。


迷いがない。挑む、という気持ちが伝わってきて、心が躍る。


そうだよ、桜さん。怖がらないで、顔を上げていこう。


「やああああああっ、とおう!」

「とう」


ゴン、と正面で木刀が切り結ぶ。手応えがまた力強くなっている。


桜さんはダメな子なんかじゃない。そして、世界は桜さんが思っているよりもやさしい。それに、今は俺と一緒だ。


「とう!」

「とう」


楽しいことをたくさんしよう。いろいろなことに挑戦しよう。悲しいときは一緒に泣いて、怖いときには一緒に逃げよう。


これからのふたりの人生に何が待っているのか――。


わくわくする。






・・・・・・・・あとがき



最後までお読みいただき、ありがとうございます。

たくさんの作品の中から読もうと思い、お越しくださったこと、大変嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいです。

今回も無事に書き上げることができ、ほっとしています。


実は途中から、ジャンルを「恋愛」にしてよかっただろうかと考えてしまいました。一応、主軸は恋愛――のつもり――なのですが、恋愛要素が控えめすぎるような気がして……。

もっと甘い恋愛小説を期待された方には非常に物足りなかったのではないでしょうか。そのように感じた読者さまには申し訳なく思います。

でも……少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。


剣術関係の記述につきましては、知識不足による正しくない言葉や説明があるかも知れません。その点はどうかご容赦ください。


☆ ☆ ☆


「小説家になろう」での活動もずいぶん長くなりました。その間に自分の環境が変化し、また、サイトを利用される方々の変化も感じています。そして、活動を続けるかどうか、たびたび考えます。

世の中には十分な数の作品があるし、誰かの役に立っているわけでもないし、時間的にも精神的にも負担がかかるし……。


けれど、書き上げてほっとしてしばらくたつと、使えそうなネタから頭の中で設定やストーリーを練っていたりします。今度はさくさく書けそう……などと気楽なことを考えたり。まさに ”喉元過ぎれば熱さを忘れる“ という状態ですね。

で、結局、懲りずにまた書き始めてしまいます。そして――また悩ましい日々に突入です。


そのようなサイクルで今まで続けてきたので、おそらく、いつかまた作品を公開させていただくと思います。その際はまたいらしていただけたら嬉しいです。


では、この辺で。


皆さまに、楽しくHAPPYなことがたくさんありますように!

虹色



最後におまけのおはなしを……。


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