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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第四章 納刀
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演武が一週間後に迫った今日の稽古は、みんなどことなく落ち着かない。地元の小さなイベントとはいえ、人前で技を披露すると思うと、自分の欠点ばかりが気になってしまうから。


「少し気持ちを切り替えた方がいいかな」


風返しで俺が同じ失敗を続けたあと、哲ちゃんが周囲を見回しながら言った。確かに今日は、俺も含めて全体的に表情が硬い。


「気持ちに余裕がないと、動きが悪くなるからなあ」


黒川流ではのびのびとした動きが良いとされ、心も同様にのびのびとしているのが理想だ。


ここひと月、それぞれ自分の苦手な部分を直そうと取り組んできている。そろそろそこから離れて気持ちを切り替えるのは良いかも知れない。                           


宗家と話した哲ちゃんが全員を集め、演武用の稽古は終了と伝えた。その瞬間、ほっとした表情を浮かべた門人たちの中、桜さんだけはショックを受けた顔をした。自分の抜刀術の完成度が低いと思い込んでいるからだ。


「残りの時間は新しいことを教えようと思う。祥子さんと雪香は風返し、莉眞さんと清都君は居合、桜さんは表木刀を」


哲ちゃんの言葉に桜さんは今度は目を見開いた。と思ったらすぐ、口元が微かに緩んだ。わくわくしている顔だ。太くて重い表木刀を振ることに、不安よりも興味の方が勝ったらしい。


教える相手を割り振る哲ちゃんに「風音は桜さん」と当然のように言われ、偶然か故意かという疑問が頭をよぎる。けれど、どちらであっても教えることに支障はない。桜さんも気にしないだろう。ただ――、俺が、家族の視線が気になるだけで。




「まず、持ち方だけど」


桜さんの隣に立ち、表木刀を正眼に構えてみせる。


「右手と左手を離して持つ。右手は柄と刃の境目くらい。左手は端。上から押さえるように持つ」

「右手は境目……」


よっこらしょ、という様子で表木刀を抱えた桜さんが右手の位置を探る。


表木刀には(つば)はない。全体的に楕円形で、刃にあたる部分の背――峰――が平らに削ってある。


「で、左手は端……」

「居合刀を握るのと同じように、上から」

「はい」


俺でも指が届かない太さの表木刀を小柄な人が持つのは最初は難しい。しっかり握れないし、刃の部分が長いので前方が重い。バランスをとるために足を踏ん張り体を反らせがちになるが、それでは上手く動けない。


「なんだか、持っているのがやっとなんですけど。……う、腕の力が足りないんでしょうか」

「力で持つんじゃないよ。てこの原理みたいな感じで、右手で支えて左手で上から押さえる。そうすると、こんなふうに切っ先が上がるから」


こちらの手元をじっと見たあと、小さく頷いて真似ようとする。


「重心は両足の間にね」

「はい」


少しずつ修正していき、ようやく正眼で姿勢が落ち着いた。満足気ににっこりする様子が相変わらず可愛らしい。


「じゃあ、相打ちをやってみよう」


間合いを取って桜さんと向かい合う。


表木刀の相打ちはお互いの面を狙って打ち、切り結ぶ。勝負がつかずに離れて再度間合いを取り、脇構えから踏み込んで相打ち……という流れを繰り返して練習する。


「踏み込みながらこちらの面を狙って、寸止めで」

「……はい」


神妙な顔で桜さんが頷く。ほかの人の稽古を見ているので、イメージはつかめているようだ。


向かい合って正眼。桜さんは足元が落ち着かず、切っ先がまだゆらゆらしている。視線も手元とこちらを行ったり来たりで定まらない。


「手元じゃなくて、相手を見て」

「はい」


木刀の重さのせいだけではなく、桜さんの場合は他人と向き合うことへの戸惑いがあるのだと思う。けれど、向かい合っておこなう技はこれからもある。桜さんが上手くなりたいと思うなら――。


そう。覚悟を決めて、戦う意志をもって相手と向き合わなくてはならない。


――よし。


頃合いを見てこちらが木刀を振り上げると、桜さんも覚束ないながら真似をする。そして踏み込んで、面。


コン。


お互いの木刀が当たって止まる。桜さんがほっとした様子で息を吐いた。


「肘を伸ばして」

「は、はい」


切り結んだ状態の桜さんの木刀がこちらに向かって少し伸びる。


「狙うのはここ、相手の面の位置」


自分の木刀を下ろし、桜さんの切っ先を持って、狙う場所へと誘導する。こちらの頭上、およそ五センチ。


「――はい」


桜さんの表情が不安に歪む。本当に当たったらどうしようと思っているのだろう。


「当たっても大丈夫。ちょっとコブができるくらいだから」


笑顔で言ったら、ますます不安な顔をされてしまった。これまでは見えない敵しか相手にしてこなかった桜さんには、相手が怪我をする可能性がある技が不安なのは当然だ。


「基本的にこっちの木刀と当たって止まるし、いざとなると、意外とみんな、寸止めできるんだよ。止まらなくても逸らすこともできるし。今まで、頭に当たったのは見たことがないよ」

「そ、そうなんですね……」


技の途中で小手や指に当たることはある。それでも痣ができる程度で済んでいる。おそらく相手がいることで緊張感が上手く働くのだろう。


桜さんは自分に何かを納得させるように頷くと、こちらを見上げた。


「わかりました。面を狙って、肘を伸ばす、ですね。やってみます」

「うん」


正眼で向き合うと、桜さんの表情がさっきよりも引き締まっているのが分かる。覚悟を決めたようだ。


――いざ。


振り上げて、面。


コツン、と木刀同士が当たった。


「こっちの木刀に当てようと思わないで、真っ直ぐ面を打って」

「はい」

「切り結んだあとに力を抜かないで、左手を効かせて。ここまできたら、右足から下がって脇構え」

「は、はい」


慌てた桜さんが摺り足を忘れてぴょこんと跳び下がる。そこは指摘せずに脇構えが整うのを待つ。


「体はなるべく正面に向けて。刃は下じゃなく前に向ける。左手は正眼のときと同じくらいの高さで」

「はい」

「そこから上段に上げて、右足から踏み込んで――面」


ゴツッ……と今度は少し重い音になった。


「まだ遠いな。もう一度。ちゃんと面を狙って」

「はい」

「打った時に左足を引き付けて」

「あ、はい」

「もう一回。下がって脇構え。そこから上げて……面」


何度か繰り返し、リズムがつかめてきたところでストップ。


「もっと力いっぱい打っていいよ」


表木刀はダイナミックさも見せどころだ。上手くなると、相打ちでカーンと澄んだ音がする。ついでに「やああああああっ、とおおおおおおおぅ!」という掛け声もあるが、今日の桜さんはまだそれどころではないだろう。


「大丈夫だよ。左手をしっかり効かせれば絶対に止まるから」

「……自分が信用できないんです」

「当たっても木刀だと斬れないから大丈夫」


そう言っても、何か言いたそうに俺の顔を見ている。……と思ったら数秒後、急に何かに気付いたようにパチパチっと瞬きをして背筋を伸ばすと、俺に向かって頷いた。


「分かりました。遠慮せずに行きます」

「よし。じゃあ、構えて」


憑き物が落ちたように、すっきりと凛々しい表情でこちらを見据える桜さん。何かを一つ乗り越えたようだ。こういう切り替えの早さ――というか、思い切りの良さというか――も彼女の強みだと思う。


いざ、呼吸を合わせて――面。


先ほどまでよりも少し勢いをつけた木刀に、ドン、と手ごたえを感じた。


「左は手首を入れて握って、打ち負けないように」

「はい」


一旦離れて脇構え。そして、面。


桜さんの振りにも勢いが出始めた。こちらの動きに合わせられているようだ。


「視線はこっちの木刀じゃなくて、狙う場所に」

「はい」


再び離れて脇構え。そこから――面。


カン、と澄んだ音がした。今の桜さんの振りは、大きくて思い切りが良かった。


「いいよ。あと少し踏み込んで」

「はい」

「下がる時も視線は相手に」

「はい」


一本打ち合うごとに、桜さんから硬さが取れてゆく。お互いの呼吸が合って、技が一つになってゆく。その心地良さ。そして、清々しさ!


すごく楽しい!


桜さんが遠慮を手放して、真剣に、そして対等に、俺と打ち合っている。これこそが、俺が桜さんとの間に望む関係だ。


そうなれる日も近いかも知れない。




「風音さん」


稽古終了後に桜さんがやってきた。真っ直ぐに見上げる表情はどこか堂々としている。相打ち稽古の効果だろうか。


「今週、ご飯食べに行きませんか? わたしがお店を探しますから」


思いがけない申し出に返事が遅れた。桜さんからの初めての誘いだ。


何か大きな決断をしたのだろうか。大きな決断――俺たちの未来に関わること。


「もちろん、いいよ。明日でも」


微かな不安はすぐに隅に押しやられてしまった。だって、俺たちはお互いに想い合っているのだ。一緒の時間が持てると思うと嬉しさの方が先に立つのは当然だ。


「明日……」


そんなにすぐにとは思っていなかったのか、桜さんは驚いたふうだったが、すぐに「分かりました」と頷いた。


「明日にしましょう。早い方がいいですもんね」


俺に話しかけつつも、自分に言い聞かせているように見える。それを見たら、少し期待がしぼんだ。やはり、彼女の中で何か変化があって、俺に伝えたいことがあるのだろう。


伝えたいこと……。


良い返事だといいのだけれど。




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