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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第四章 納刀
36/46

2 ---- 桜


◇◇◇ 桜 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



――右足、鯉口を切って……抜刀。


夜のリビング。テーブルとソファーを端に寄せたとはいえ、思い切り動けるほどの広さはない。


――正眼の構え。


鏡の代わりは年末に買った大画面テレビ。つやのある黒い画面は、蛍光灯の下で十分にその役割を果たす。と言っても顔と足元は映らないけれど。


――血振り。納刀。


手元を見ない。視線は前。鞘引き……、帯がきつい。


右手を帯に移して後ろへ。つま先が上がらないように。頭が上下に揺れないように。そして終了……。


「んんんんん……、できない!」


ダメだ。特に納刀が。形の締めくくりであり、黒川流の特徴ともいえる、大事な平納刀。


もう四十分も同じことをやっているのに、どれだけやっても上手くいかない。来月には他人様に見せるのに……。


鞘の引き方。右手の位置。鯉口の向き。姿勢。握り方。


一回ごとに直すべきところを確認している。やっているうちに、教わった言葉も頭によみがえってきた。けれど、どうしても上手くできない。


「……一休みしようかな」


一旦、気持ちを切り替えた方がいいかも。刀を外して……。


「ふぅ」


ソファーに座ると力が抜けた。肩に力が入り過ぎていたのかも知れない。軽い疲れが心地良い。


深呼吸をすると、のびのびとした気分とともに湧いてくる幸福感。誰にも文句を言われず、監視されることもない我が家。ぼんやりできるこの時間。なんて幸せなんだろう!


――あ。


そう言えば、わたし、悩んでいたのだった。風音さんとのことで。


でも、今は気分がすっきりしている。何も片付いたわけじゃないのに。なんだかさっきまでの悩みが大したことではないような気がしている。


刀を持ったら刀のことに集中する。いつか風音さんが言っていた、そのとおりになったってこと?


そうかも知れない。わたしにもできるってことだ。


風音さん……。


結婚のことは急がなくていいって言ってくれた。お言葉に甘えて、言われたとおり、ゆっくり考えることにしよう。今は秋の演武に向けて頑張るだけ。都合の良いことに、鏡代わりのテレビもあるし。


――あのテレビ……。


テレビのことを考えると、どうしても気分が重くなる。向こうの戸を閉めっぱなしにしていることが気になるから。


この大きいテレビ。


これはお母さんの要望で、値段的にもスペース的にも少し無理をして買ったものだった。けれど、お母さんがこのテレビを見ることができたのはほんの二か月程度。前触れもなく、お母さんの人生は途切れてしまった。


「…………」


そっと和室の戸を窺う。閉まっているその向こうにあるのは……両親の仏壇。


お母さんが亡くなって半年が過ぎた。それだけ経ってもまだ葛藤が消えない。


こんなふうに寛いでいる時、不意に頭の中にお母さんの声が聞こえてくる。「閉めてあったらテレビが見えないじゃないの! 気が利かないんだから!」その他もろもろ、言われるであろう言葉が延々と。わたしは……とても意地の悪いことをしているのだ。


戸を開けさえすれば、こんな罪悪感に襲われずに済む。でも……、どうしても戸を開けっ放しにしておく気になれない。


ひと続きの空間の中にお母さんがいる――気配がある――ということに、もう耐えられない気がしている。わたしを自由にして! と、叫びたくなる。


自由。……自由。


今のわたしは自由なはずなのに。


お葬式の後しばらくは、何もしない時間を持つことに罪悪感があった。いつも自分がきちんと役目をこなしていることを示さないといけない気がしていて、家事や有意義なことを見付けて動き回っていた。お母さん関係の手続きや整理するものもあったし、誰かに咎められないように――母親がいなくなったからって羽を伸ばしている、などと思われたら嫌だと思って、一休みすることもためらわれた。


……というか、一休みという行為に馴染みがなかったというのが真実かも。お母さんはわたしが座っていると「怠けている」と文句を言うひとだったから。そもそもテレビもこのソファーもほぼお母さん専用で、わたしが座るのはダイニングの椅子だった。


でも、あれは……お葬式から二か月くらい経ったころ? 急に、手を抜くことを思い立った。


仕事が忙しい日がずっと続いていて、疲れ果てて帰る途中だった。それまで我が家ではあり得なかったことを、ふと、「やってもいいんだ!」と気付いた。それは ”夕飯にお弁当を買って帰る“ こと。以前はお惣菜を買って帰ることさえタブーで、一食分まるごと買うなど論外だったのだ。


けれどもう家にはわたしに嫌味を言う人はいない。無理に頑張る必要はない。わたしの好きなようにして良いのだ。そう気付いた時の解放感に驚いた。まるで、体にぐるぐる巻きになっていたロープが一気に解けたようだった。


それからは、やることを徹底的に減らした。掃除、洗濯、片付けものは心地良く暮らせる最低限のレベルに。料理だけは、自分で作る方が好みに合うことが分かったので、今でも基本的には作っている。


そして――テレビを見る時間が増えた。連続ドラマを見られることが嘘みたいで、新鮮な経験だった。ただ……。


テレビを見ていると、亡くなった家族の写真が飾ってある部屋が出てくることがある。そういう場面を見ると苦しくなる。写真を飾る気になれないわたしに、 ”心の冷たい娘“ という事実が突き付けられるから。


心が冷たい……。お母さんに何度も言われた言葉だ。


思いやりがない。気が利かない。自分のことしか考えない。……直そうと思ったのだけれど。


「自分よりも他人のことを優先に考えるのが、人として当然」


事あるごとに言われてきた。


その考え方にはわたしも異論はない。そうでありたいとも思う。だから自分のことは後回しにしてきたつもり。けれど、お母さんにはそうは見えなかった。


わたしのやることは全部お母さんの期待と違っていて……、何をやっても文句を言われた。たぶん、本当にわたしには他人の気持ちが分からないのだ。あるいは、わたしの思考が一般と違っているか。


そして今は、仏壇や遺影にまで意地の悪いことをしている。自分の気持ちを優先にしている。


つまり、わたしが自分勝手で心が冷たい娘だと証明されたということ。お母さんの言葉は真実だった。やっぱり親だから、娘のことを正しく判定できていたってことかな。


「ふふっ……」


もう……認めるしかないかな。ずっと抵抗してきたけれど。


要領が悪いとか、他人の気持ちを察することができないとか、ほかのことは事実だから仕方ない。だけど、心が冷たいということだけは認めたくなかった。そんな人間にはならないように、周囲に気を配ってきたつもりだ。


でも、仕方ない。確かにそうなのだから。そういう事実があるのだから。


わたしは冷酷な人間。意地の悪いことを平気でできる人間。自分のことしか考えない自分勝手な人間。そういうこと。


……心が冷たい、か。


そんなわたしが誰かと一緒に幸せになりたいなんて、思っちゃいけないね。自己中心的なふるまいで相手を不幸にしてしまう。


お母さんも言ってたよね、「お前が結婚なんてできるわけがない」って。誰にも好かれるはずがないって。その言葉どおり、今まで一人も希望者はいなかった。


なのに風音さんが突然現れた。輝は、お母さんという重石が無くなって、わたしが変わったからだと言ったけれど……。


でも、わたしの本質が簡単に変わるわけではないと思う。逆に、重石が無くなったことで今までよりもはっきりと表れるかも知れない。実際、戸を閉めっぱなしにしているし。


どうして風音さんは気付かないのかな、わたしが自己中心的な人間だって。わたしが隠していたから? ……そうだよね。隠してた。


だって、一目で憧れた相手だったんだもの。


知り合ってみたら親切で、真っ直ぐで、どんどん惹かれてしまった。そういう相手に、冷酷な人間だなんて思われたくないよ。


でも、もう駄目だ。


今まではわたし自身が否定してきたから、隠すことができた。けれど、それを認めた今は、黙っているわけにはいかない。結婚まで考えてくれているひとに知らんぷりしていることはできない。


話さなくちゃ。そのせいで関係が壊れてしまっても、それを受け入れる覚悟をして。


結局、わたしはひとりで生きて行くってこと。要するに、これまでと同じってことね。


でも……自由がある。以前はなかった自由が。


剣術も続ける。偶然始めた剣術で、なかなか上手にならないけれど、今ではわたしの一部のように感じている。


だから、心を強く持たなくちゃ。


わたしは大丈夫。今までだって、片思いはあったもの。恋が実らないからといって、人生が終わってしまうわけじゃないと分かっている。なにより今は自由があるのだし。


風音さんは何て言うかな。……いや、想像したってどうにもならない。希望は持たない。ただ覚悟だけ。


悲しい。考えると悲しくなる。けれど、どうしようもない。だから……今は練習しよう。刀を持つと、ほかのことは忘れられる。さあ、立って。刀を差して。


お母さんのテレビ。それが今は鏡代わりにわたしの役に立っているなんて、ちょっと皮肉な感じ。


――鏡、か……。


稽古のとき、風音さんはよくわたしと並んで鏡に向かってお手本を見せてくれる。


その姿がしっかりと記憶に焼き付いていて、動きをコピーしようと思いながら練習している。それに、わたしの動きをじっくりと見て、修正したり、できない理由を考えたりしてくれる。その時間が有り難くて楽しくて、とても……好きだ。


ダメだ。風音さんのことを思うと、楽しいことばかり思い出してしまう。そして、何もかも上手くいきそうな気がしてくる。


どうしてこんなに楽天的な気分になるのか。さっき感じた悲しさは嘘ではなかったのに。情緒不安定なのかしら?


――さあ、姿勢を正して。


風音さんに伝えなくちゃ。でも……このまま進みたい。


――呼吸を整えて。


黙っているのは卑怯だ。それはできない。そして話したら……。


ダメだ。ふたりで幸せになれる可能性を捨て去ることができない。一緒に笑顔で暮らしている場面が頭から消えない。これはわたしの願望が見せる夢? それこそ自分勝手の証拠だ。


風音さん……。


幸せになる方に賭けてもよいのだろうか。でも、賭けに負けて、風音さんが苦しむことになったら……。


ごめんなさい。決心がつかない。


もう少し保留にさせてください。わたしの覚悟ができるまで。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



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