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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第四章 納刀
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「わあ……、広い」


展望台の柵に手をかけ、桜さんがまぶしそうに目を細める。


前に広がるのは海。水平線まで続く太平洋の海がきらきらと日光を反射している。同じ海でも東京湾内に位置する葉空市の港とは趣がまったく違う。


八月最後の土曜日。桜さんと一緒に海を見に来た。誘ったとき、桜さんは「泳ぎませんよ」と眉間にしわを寄せ、俺が「一緒に出掛けるだけで楽しいからいいよ」と言うと、驚いたような困ったような、なんとも微妙な顔をした。あれはきっと照れ隠しだ。


「風……っ」


岩場を駆け上がってきた海風が桜さんの髪を吹き乱す。パタパタとはためくロングスカートを押さえた彼女が、「服選びを間違えました」と明るく笑う。


「でも、気持ちいいです!」


風の合間に海に向かって大きな声で宣言する彼女。のびのびとした笑顔は幸せそうで、こちらまで幸福な気持ちになる。


――こういう桜さんでいてほしい。


強く、強く思う。


もちろん、生きている限り常に幸せというわけにはいかないだろう。仕事をしていれば嫌なこともあるし、俺がどんなに彼女を大事に思っていても、意見が食い違うこともきっとある。だとしても、彼女の生き生きとした心や感情を――それが怒りや悲しみであっても――抑え込むようなことは絶対にしない。桜さんが自分を自由に外に出せるように心を砕いていくつもりだ。


「下に降りてみよう」


磯へと続く小道で自然と手をつないだ。


一瞬合った視線を彼女は素知らぬ顔で下へと向けた。足元を確かめているように振る舞う桜さんの恋人初心者ぶりが微笑ましい。


途中で「ひ~」という控えめな声が聞こえたと思ったら、桜さんが腕にしがみついてきた。つまずいたのかと彼女を見ると、横のゴロゴロした岩を凝視している。


「虫です、虫っ。何かの虫が大量に動いてます」


岩の間から忙し気に出入りしているそこそこ大きな虫の集団。フナムシ……だろうか、確かに気持ちが悪い。と、見ているうちに、何匹かが小道に出てきた。


「だめだめだめだめ」

「行こう」


後ずさりしかけた桜さんの手を笑いをこらえつつ引っ張る。


「あんなにぞろぞろいるなんて。一匹なら平気だけど」


足早に立ち去りながら桜さんがつぶやいた。


「一匹なら平気で、集団だと怖いんだ?」

「怖いって言うか、気持ち悪いです。集団だと襲ってくるかも知れないじゃないですか」

「なるほど。そういう蟻とかバッタとか、いるよね?」

「そうですよ。下手したら食べられちゃいますよ」


確かにさっきの虫に集団で襲い掛かられたら……痛そうだし、気持ち悪い!


それにしても。


「桜さんが怖がる姿って、初めて見たかも」

「ん? ……そうかも知れませんねぇ」


自分のことなのに不思議そうに首を傾げているのが可笑しい。


「桜さんが怖いもの、ほかにあるの?」


他人が怖いという彼女だけど、人に対してはそういう気持ちを礼儀正しさで覆い隠している。


「絶対だめなのは蝶と蛾です。あれは一匹でも無理です。視界に入った時点で立ち止まって、飛んで行く方向を見定めてから、近寄らないように移動します」


大真面目な顔で答えてくれた。それだけ本気で嫌いなのだろう。


「別に害はなさそうだけど」

「害はないですけど、単純に気持ち悪いです。ひらひらした動きとか、柔らかそうな体とか、羽の粉とか」

「けっこう詳しいね」


嫌いな割に。


「小学生の時に、友達が、捕まえた蝶を目の前に差し出したんです! 羽をつまんだ状態で『ほら』って。その子はただ捕まえたことを自慢したかっただけなんですけど、トラウマですよ!」


訴えるように説明する桜さんを気の毒だと思いつつ笑ってしまった。そして、いつか俺たちの子どもが昆虫を飼いたいと言ったら蝶以外にしようと、頭の片隅にメモした。


元気で表情豊かな桜さんを見ていたら、輝さんから聞いた話がよみがえってきた。お母さんへの反論も、泣くことも、禁じられていた、ということを。


学校や職場では、誰でもある程度は我慢している。家でも大人になるにしたがって、家族の前では自制する方向に向かう人が多くなるのかも知れない。けれど、禁じられるというのはそういうこととは違う。


禁止ということは、何がなんでもダメということだ。弱音を吐きたくても、自分の意見が正しいと信じる根拠があっても、慰めてほしくても、受け付けてもらえない。一切拒否……どころか、坂井家では怒らせてしまう引き金だった。


――そっちの方がトラウマになりそうだな……。


桜さんも、自分でその点には気付いているのかも知れない。聡明なひとだから。


自分の心も意見も表に出せない家庭なんて、どれほど息苦しかったことだろう。想像すると俺まで苦しくなる。そんな状態はもう終わったのだと分かっていても怒りが湧いてくる。


「今は潮が引いてる時間ってことなんですよね?」


桜さんが楽し気にこちらを見上げた。その微笑みがとてもとても愛しい。


磯では潮溜まりや岩の隙間を子どもたちが覗き込んでいる。何かを指差したり、カニを捕まえたり、元気な声が聞こえてくる。そして、彼らそれぞれのそばには見守る大人たち。


桜さんも俺から手を離し、いそいそと岩場を進んで行く。隙間を用心深く越え、でこぼこの岩を一歩ずつ確かめながら。振り返って俺に笑いかける様子は子どもみたい。やがてスカートをたくし込んでしゃがみ、足元をじいっと覗き込んだ。


「何かいる?」


俺の問いかけに顔を上げ、首を傾げる桜さん。


「フジツボ……?」


あまり心躍る生き物ではなさそうだ。


「さっき、向こうでイソギンチャクって言ってたけど」

「おお! いるなら見てみたいです。イソギンチャクって言うくらいだから、きっと磯にいるんですよね? 水がなくてもあの形なのでしょうか?」

「あの触手ひらひらは水がないと難しそうだよね」

「これ、イソギンチャク」

「!!」


よこからにゅっと出てきた小さいバケツ。青いプラスチックの底に黒っぽい丸いものがいくつか転がっている。


「え? これ?」


幼稚園児くらいの男の子が勢いよくうなずいた。日に焼けた顔がいかにも外遊びに慣れている感じだ。俺たちの会話が聞こえて、自分で採ったイソギンチャクを見せてくれたらしい。


「採れるんだ? なんかコロッとしてるんだね」


桜さんが感心した様子で言うと、男の子は「海の水入れると出てくる」と言った。どうやら水がないときには触手を引っ込めてしまうということのようだ。続けて「毒あるやつもいる」と説明され、桜さんが「え?! 大丈夫なの?!」と訊き返している。彼女のおおらかな反応は子どもと相性がいいようだ。


男の子が父親に呼ばれたのを機に、岩場の突端まで行ってみようと誘った。桜さんは瞳をきらめかせて頷き、立ち上がる。さして広くもないこの磯が、桜さんがいるだけで、まるで冒険の舞台のように感じられる。


「この辺が限界かな」

「海ですねえ……」


手をつないで広い海を前にしているうちに、無性に桜さんにキスしたくなってきた。けれど、すぐ後ろで家族連れが賑やかに遊んでいるこんな場所では俺には無理だ。仕方なく、つないだ手に力を込めた。


彼女がこちらを見上げた気配。そして。


「どこかに冒険に出ますか?」


見返すと、楽し気に俺の答えを待つ桜さん。冒険の舞台のようだと感じたのは彼女も同じだったらしい。


「そうだね」


視線を彼女から海へと戻す。


冒険。挑戦。桜さんとふたりで。


「結婚したいな」


自然に言葉が出てきた。


まるで当たり前のことのように口から零れ落ち、照れくささも何もない。同時に、桜さんに手を引っ込められないようにしっかりと掴んだ。


「結婚って冒険だと思わない? 不安もあるけど、わくわくする」


隣を見下ろすと、桜さんが俺の本気度を確かめるように目を見開いてこちらを見つめていた。


「一緒に冒険に出ようよ。今すぐじゃなくていいけど」


言いながら自分で笑ってしまう。


「なんか……未知のことに挑戦するって考えたら、結婚が出てきた。桜さんと一緒に挑戦するのはきっと楽しいに違いないよ」


桜さんは固まったまま。驚きが大きかったのか困っているのかは、表情からは読み取れない。


「ははっ、ごめんごめん、突然でびっくりしたよね。急に言っちゃって自分でも半分驚いているけど、ずっと思っていたことだから」

「あの……、ありがとうございます」


握っていた手を緩めると彼女の手がするりと――抜け切る前に指先を握って止まった。まるで命綱にぎりぎりのところで掴まるみたいに。


「わたし……、風音さんとなら冒険に出てみたいです。でも……」


彼女の唇が次の言葉を言いかけて止まる。少しの間、訴えるように俺を見つめてから、諦めたように瞳を閉じてため息をついた。


「今は『はい』って言えない。考えないといけないことがあるんです」


項垂れる桜さん。悲しい思いをさせてしまったことが申し訳なくなる。お詫びの気持ちと愛情を込めて彼女の肩を抱き寄せ、ぽんぽんと叩く。


「いいんだ。急がなくていいからね。俺だって、今日、プロポーズするとは思ってなかったなかったんだから。自分でもびっくりしちゃったよ」


冗談めかして伝えると、彼女も微笑んでくれた。弱々しくだけれど。


「よし。じゃあ、今の話は置いといて、何か食べに行こう。歩いたからお腹すいたよ。水分補給もしないと」

「……はい」


戻る道でも手をつないだ。来る時と同じように話し、笑っているその裏で、お互い慎重に言葉を吟味しているのを感じる。


口に出してしまった言葉はもう元に戻せない。俺たちの関係に、俺が次の分岐点をはっきりと示してしまった。そこに向かって進むしかないことを。


ただ……。


――桜さんも、気持ちは俺と同じ。


それが分かってほっとしている。それを口に出してくれたことが。たとえ今は「はい」と言えないと言われても。


決断できない理由は心の深い部分に根差しているのだろう。それを押し退けて桜さんに決断をさせるくらいの何かを、俺が桜さんに提示できるかどうか。桜さんの決断はその点にかかっている。そのためには……。


俺の思いを根気良く伝えていくことしかないのかも知れない。





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