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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第三章 正眼の構え
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「合格です」


短い言葉に戸惑い、反応が遅れた。その間に輝さんは姿勢を正し、静かに頭を下げる。


「失礼な質問と態度、お詫びします。黒川さんのお気持ちと誠実なお人柄はよく分かりました。姉のことをよろしくお願いします」


そこで顔を上げると笑って肩を竦める。ようやく年齢相応の笑顔を見せてくれた。


「――と言っても、姉はまだ迷っているみたいですけど」

「知っています。でも、僕はべつに急いでいませんから」


先ほどまでとは打って変わって親しみのある態度に、こちらも肩の力が抜ける。


「本当にすみませんでした。うちには親がいないから、わたしが親の役をしなくちゃって思って……。わたしたちを侮って、利用しようと考える人もいないとは限りませんから」

「桜さんが世間知らずだからですか?」


輝さんが使った言葉を持ち出すと、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。


「未熟な娘二人の家族だからです。それに、姉は家と土地を相続して急に財産ができたので、用心しないといけないと思って」


そこで目を伏せた。


「小さい土地と家ですけど、わたしたち、ずっとお金を切り詰めて生活してきたから……、わたしたちには大きな財産なんです」

「葉空市で市街地の一戸建てなら、十分大きな財産ですよ。僕の収入では長期のローンを組まないと手に入りません」

「……そうですね」


ほっとしたように微笑む輝さん。


「姉に相続してもらえてよかったです」

「桜さんが相続したんですか? 輝さんと共有じゃなく?」

「ええ。わたしは預金をもらったんです。何もいらないって言ったんですけど、不公平すぎるからって姉に押し切られました」

「いらないなんて、どうして」

「だってわたし……逃げたから」


逃げた……。


いつだったか桜さんも言っていた。自分は楽な方に逃げたのだ、と。あれは……そうだ、高卒で就職することを選んだ理由だった。


「逃げたんです、わたし。母のことを姉に任せて」


輝さんが苦し気に目を逸らした。


「大学の寮に入ったことですか? でもそれは」

「いいえ、その前から。中学も高校も――部活に」

「部活……」


言葉に詰まった。「そうでしたか」という了解の言葉さえ口に出せない。桜さんが諦めたことの数を思うと悲しくて。けれど……。


きっと桜さんは輝さんに十代の当たり前の楽しみを味わってほしかったに違いない。それが桜さんにとっての喜びと慰めになっていたのだと思う。だって、輝さんの話をするときの桜さんは、いつも嬉しそうだから。


「母のこと……、我が家のことをお話ししてもいいですか?」


輝さんが居住まいを正した。


「黒川さんにはわたしたちが……いえ、姉がどんな生活をしてきたか、知っておいて欲しいんです。姉は自分では話さないと思うので」


桜さんのこれまでの生活。翡翠にも話さなかったというお母さんのこと。


「伺いたいです。教えてください」


もしかしたら、さっきよりも覚悟が必要なのかも知れない。





「母が体調が悪かったというのは本当ではありません」


覚悟したつもりだったが、輝さんの一言目に驚いた。


「本当ではない?」

「ええ。……いえ、完全に嘘というわけではありません。でもわたしは嘘だったと思っています」

「思っている? それはどういうことですか? 桜さんが……?」


輝さんにも嘘をついていたと?


混乱している俺の前で、輝さんは首を横に振った。


「姉は嘘などついていません。ただ信じるしかなかったんです。信じなければ、あまりにも惨めだから」


惨め……。


言葉の重みに体の中が冷えた気がした。


「母は腰や膝の痛みや何かしらの不調を常に訴えていました。そして部屋に籠って。でも、あれは嘘です。家事を姉に押し付けるためのお芝居」


思い出して怒りが湧いてきたのか、輝さんが悔し気に唇を噛む。それから小さく息を吐き、静かに続けた。


「姉は……最初は父を亡くした母を労わる気持ちから、手伝いを始めたようです。小学四年生の頃ですね。もともと器用で頭が良い姉ですから、家事はすぐに上達したみたいです」


それは納得できる。今の桜さんから容易に想像できる姿だ。


「わたしが小学校に上がった時には、食事は六年生の姉が作っていました。洗濯も、学校に行く前に干して、帰って取り込んで……というルーティーンが出来上がっていました。その頃には母は分かっていたんです。どうすれば姉を働かせることができるか」

「働かせる……」

「ええ。まるで召使いみたいに」


輝さんの挑むような瞳を見て、それが事実だと理解する。少なくとも輝さんの目に映っていた事実。


「母は具合が悪いと訴えることで、姉に家事を押し付けたんです。姉のやさしさや良心を利用して。そして姉が一言でも無理だと言ったり母の希望通りにできなかったりすると、徹底的に嫌味を言ったり罵倒したりしました。思いやりがないとか、親を敬う気持ちがないとか、わがままだとか。そうやって姉から気力を奪っていったんです」


頭に浮かんできたのは桜さんの諦めの表情。あれはその頃からの……。


「母が怒り出すと本当に大変で。責めるし怒鳴るし、嫌味に人格否定、さらに古いことまで持ち出して何時間でもエンドレスで怒り続けるので」


あの、祖父の話。


桜さんの家から怒鳴り声が長時間聞こえたという。あれを聞いたとき、俺は実際に不穏なものを感じたのではなかったか。けれど、お母さんが具合が悪かったことを理由にして、異常とは言えないのではないかという結論で落ち着いた。あれは……、今思えば悪い可能性から目を逸らしたい気持ちがあったからだ。異常なことが身近にあってほしくなかったから……。


輝さんも当時の記憶がよみがえったのかも知れない。そっと目を閉じて頭を振った。


「そんな事態に陥らないために……、母が怒るきっかけを増やさないために、わたしたちは気を使っていました」


きっかけを増やさない――。つまり、すでに十分に怒りを浴びていたということ。


「母が機嫌を損ねるきっかけはたくさんありました。家事の手際が悪いとか、さぼっているとか……、母の日のプレゼントが貧相だと言って怒ったこともありました。姉とわたしで頑張って考えたのに」


恐れているお母さんにも母の日のプレゼントを……。それを否定された気持ちを想像すると、俺まで辛くなってくる。


「誰かが楽しそうにしていることも許せなくて、テレビに出ている人の悪口を言ったり、わたしたちの笑い声やおしゃべりも不機嫌の元でした」

「おしゃべりまで?」

「ええ。だから家では小声で話していたんですけど、思わず笑ったりしちゃうので……。そこから嫌味が始まって、謝ってもエスカレートするだけで」


家族が楽しそうにしていることを嫌う人間がいるなんて。


「一番嫌ったのは泣くことです」

「泣くこと」

「ええ。涙を見せれば何でも思いどおりになると思っている、それは甘えだと、普段から言っていて。だけど」


気持ちを静めるように彼女は一つ深呼吸した。


「酷い言葉を投げつけられたら涙が出るのは仕方ないじゃないですか。些細なことで母に罵倒されて、悲しくて、悔しくて、でも、弁解や説明は反抗的な態度と受け取られるから何も言えない。だから姉は黙って我慢して、それでも涙がこぼれたのを見てますます怒るんです。お前は卑怯だ、泣けば許してもらえると思ってるのか、親に反抗する気持ちがあるから涙が出るんだって。お姉ちゃんだって、まだ子どもだったのに」


じっと耐えている桜さんが目に浮かぶ。唇を強く結んで、下を向いて……。


下を向いて。


「母の怒り方はずるいんです。思いやりがないとか、大人に対する敬意がないとか……、自分が道徳的に正しい側に立って、姉の欠点を延々と並べて徹底的に責めるんです。これはしつけだ、お前がきちんとした大人になれるように言っているんだって言いながら」


道徳を理由にされたら、子どもには反論できないだろう。


「気に入らないことがあるとすぐに大きな声で怒り出して、泣いてしまうと余計に怒って」


言葉を切った輝さんがそっと俯いた。


「わたしは見ていることしかできなくて……」

「見ていることも、辛かったと思うよ」


話を聞いているだけの俺でも辛い。現場にいた子どもなら尚更だ。


今の話でよく分かった。桜さんが他人と対立することを怖いと言った気持ちが。きっと、相手に激しく責めらることが頭をよぎるのだろう。


「言葉による暴力と支配」


こちらに真っ直ぐ顔を向け、輝さんが言った。


「姉はその被害者です。あれは――」


言い澱んで唇を噛む。けれどすぐに心を決めたようだ。


「あれは虐待ではないかと、今は思っています。身体的な暴力は振るわれませんでしたが、少なくともハラスメントだと」


虐待。


心に広がっていた暗い霧が一気にその言葉に収束する。


虐待。桜さんが虐待の被害者。いや、輝さんもだ。


「驚きますよね?」


言葉を失っている俺に、輝さんが薄く笑う。


「そういう反応が予想できたから、わたしたち、母は体調が悪いと周囲に言い続けたんです。あれは母の言い訳――嘘だと気付いてからもずっと。もしも本当のことを話したら友達は引いてしまうだろうし、大人からは可哀想な子どもだと認定されそうで……それは嫌だったから」


その気持ちは分かる気がする。自分が特別視されていると感じたとき、心に兆すのは疎外感や孤独感ではないだろうか。どんなに親切にされても――だ。


「それに」


輝さんが続けた。


「学校や児童相談所が家に確認に来たりしたら、それこそ大変なことになります。母はその場は穏やかに対応して、後で『お前たちがちゃんとしていないから』って怒るに違いないんです。自分のミスを指摘されたり、他人から能力が低いと思われることに我慢ができないひとでしたから」


家族の気持ちよりも自分の評価が大事だった? でも、何を評価されるというのだ。親としての技量? 馬鹿馬鹿しい。


けれど、助けを求めることを封じてしまうほど、ふたりはお母さんの激しい怒りを恐れていた。彼女たちの置かれていた状況がそれほど厳しかったということだ。


「姉とわたしの間でも、母は体調不良ということで通してきました。姉は……その理由がある方が、自分が担っている役割を耐えやすかったのだと思います」

「分かるような気がします」


支配され、強制されているよりも、自分の意志で行っていると考える方が救いがある。


「ふたりだけで助け合ってきたんですね……」


俯いた輝さんが「いいえ」とつぶやいた。


「頑張ったのは姉です。わたしは姉の陰に隠れていただけ。母の怒りを姉は全身で受けて、わたしを守ってくれました」

「それは輝さんが小さかったからでしょう。確か五歳離れていると聞いています」

「そうですけど……」


悲しそうに肩を落とす。


「もう少し何かできたのではないかと思うんです。でも……何もできませんでした。母が怒っているときには口をはさむ隙はなかったし、あの権幕が恐ろしかった。何より、反論したら火に油を注ぐ結果になるので……」

「そうでしたか」


桜さんに強さを感じたのは間違いではなかった。輝さんを守るために強くなったのだ。一方で、彼女の良いところも、輝さんがいたから守られたに違いない。


「姉はわたしを逃がしてくれたんです。中学に入ったら部活に入りなさいって……。家にいる時間を少しでも短くするために。遠くの大学に行くことも応援してくれました。『家のことはもう慣れちゃったから大丈夫』と言って」

「……強いね」

「はい。強くて優しいです」


桜さんが――桜さん姉妹がどれほど傷付きながら大人になったのか、想像すると胸が痛くなる。


「家の中が窮屈な分、姉は外ではたくさん遊ばせてくれました。一緒にスーパーに行くときは公園に寄ってくれたし、大きくなってからも、歩きながらたくさん話したり笑ったりしました」

「それは桜さんにとっても貴重な時間だったと思うよ」


きっとそうだ。輝さんの笑顔が桜さんの支えになっていたのは間違いない。


「だといいんですけど……」


一瞬、頼りなげな微笑みを浮かべ、輝さんが続ける。


「高校を卒業するころの姉は表情が乏しくて、口数も少なくなっていました。わたしにはいつも元気そうに笑顔を見せてくれていたけど……。それに気付いていながら、わたしは部活を続けていたんです。家に――お母さんと一緒にいたくなくて」

「うん。でも、部活だけなんだよね?」

「え?」


意味を問うように見返す輝さん。


「世の中にはいるよね? 居心地の悪い家から逃げて、夜の街を徘徊したりする中学生や高校生が」

「そんなことしたら、お姉ちゃんの苦労が増えてしまいます!」

「そうだよね。いい姉妹だね」


一瞬、ぽかんとした表情を見せたあと、輝さんは少し睨むように俺を見た。


「風音さんはやっぱり要注意な気がします」

「え? どうして」

「だって、優しいですもん。モテるでしょう? 間違いなくモテますよね?」

「さあ?」


平均値が分からないから判定のしようがないし、桜さんと俺の間にはまったく関係がないことだ。


「どうしてお姉ちゃんは迷っているんでしょう? こんなに良いひとに想われて、自分だって好きなのに」

「まあ、そこが桜さんらしいところかなあ」

「風音さんものんびりさんですねえ……」


呆れられてしまった。


「でも、姉にはちょうど良い感じです」


そう言って明るく笑う輝さん。どうやら桜さんのたった一人の家族は俺を気に入ってくれたようだ。そして。


今の話を聞いて、桜さんを大切にしたい理由がもう一つ増えた。





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