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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第三章 正眼の構え
30/46


お盆期間の稽古日。桜さんの妹、(きら)さんが見学に来た。桜さんが始めたチャレンジをぜひ見たいと。


「家の外での姿を家族に見られるなんて、小学校以来ですよ! うちの母は参観日に来る人じゃなかったので、ずっと安心していられたんです。それが、今になって妹に参観されるなんて!」


と、桜さんは冗談と泣き言半々だった。


輝さんは顔のつくりは桜さんと似ているけれど、ショートカットで意志の強そうな表情が印象に残る。彼女の方が桜さんよりも、武道をやっているという雰囲気がある。


宗家や俺たちにあいさつしてくれた様子は、まるで桜さんの保護者のよう。いつだったか桜さんが、妹さんを「しっかり者」と言っていたのも頷ける。雪香よりも年下だったはずだけれど、輝さんの方が精神的にだいぶ大人なのではないだろうか。


稽古が始まると、桜さんは緊張で調子が出ないようだった。けれど、プレッシャーも稽古のうち。何があっても、刀を持ったらそれに集中する。桜さんも今日、それを一つ経験することになる。




「素振りのときに、どうしてもほかの人よりも遅れ気味になってしまうんです。足運びが遅いせいでしょうか」


自主稽古の時間に桜さんに尋ねられた。妹さんに見られている緊張感は素振りの間に消えたらしい。


桜さんも入門から三か月以上経った。できることが増えてきたのに合わせるように、自分で課題に気付くことも増えてきた。そうしてある程度は自分であれこれ試してみてから、誰かに確認したり相談したりしている。


「足運びが遅いっていうのはあるかも知れないけど……、特にどの素振りのときに感じる?」

「どれもなんですけど、特に面です。正眼に構えて、ここから――」


言いながら上段の構えに移り、面を狙って振ると同時に踏み込む。


「うん、なるほど」


遅れる原因はたぶんこれだ。


「上段から振る前に、切っ先が一旦後ろに下がってるね。勢いを付けようとして振りかぶっているんだと思うけど」


目を丸くした桜さんが、「つまり、こうなっているということですか?」と頭の上で刀を後ろに動かす。


「そう。正面から鏡で見てると分かりにくいかも知れないけど、その余分な動きで遅れてるんだよ」


実戦であれば、ほんの瞬間的な動きでも、出遅れて命を失うかも知れない。一方、余分な動きを無くすことで、素早く攻めることもできる。


彼女から横向きに立って上段に構えてみせる。


「構えたら、そこから直接――振る。正眼のときも、例えば突きのとき、一旦引いたりしないでそのまま――突く」


俺の動きを彼女の真剣な視線が追う。


「構えはすぐに動ける状態だから、刀を振る前に準備の動きを入れる必要はなくて……、ちょっと上段に構えてみてくれる?」


返事をして桜さんが構えた。手の高さはだいたい良いが、切っ先が不安定に揺れている。


「もう少し刀を立ててみて。切っ先を意識して。うーん、もうちょっと……このくらい」


刀の峰をそっと押したら、桜さんが驚いたように「あ」と声を上げた。


「バランスが……取れました」

「うん。その位置を忘れないで」


横から見ても安定している。刀の重心と体の線がきれいに重なった状態。


「はい。で、ここからそのまま――振る」


慎重に面を狙って刀が振られる。


「そう。振るときも切っ先を意識して」

「はい」

「左手をしっかり使って」

「はい」


二度三度と繰り返すうちに無駄な動きが消えて、スムーズになってくる。止めもきれいに決まり始めた。


「うん、良くなったね。じゃあ、一緒に十本やってみようか」

「はい。お願いします」


鏡に向かって並んで構える……と、俺たちの後方に、壁際に正座している輝さんが映った。じっとこちらを見つめている。


向けられている視線が強いような気がする。彼女は桜さんと俺の関係をどの程度知っているのだろう?


――いや。俺も集中だ。


構えている桜さんに気持ちを向ける。鏡に映っている彼女の構えは安定している。


「では――始め。一、……二、」


確認しながら素振りをしてもらうため、普通よりも少しだけゆっくりのリズムにする。


「五。左手をしっかり効かせて」

「はい」


桜さんも小声ながらも数を数え、一振り一振り丁寧に動いている。そして、十本終わると嬉しそうににっこりした。


「なんだかすごく楽になりました」

「うん、そうだね。正しくできると余計な力を使わないし、余分な時間もかからないからね。なんとなくやりにくいと思うときは、何かが間違っていることが多いよ」

「そうなんですね。……でも、まだわたしには、慣れなくてできないのか、間違っているからできないのかの判断がつきません。あ、上段だけははっきり分かりました! あの位置、絶対忘れません」


元気に「ありがとうございました」と頭を下げる桜さん。ついでに抜刀術を見ようか……と言いかけたところで俺を呼ぶ声。振り向くと、宗家と哲ちゃんが手招きしている。


そう言えば、稽古のはじめに、宗家から秋の演武の話があった。たぶん、そのことだ。


休憩に入った雪香と高校生の二人が輝さんに話しかけている。輝さんのよく通る声ではきはきと答える様子は学校の部活を思い出す。スポーツの経験があるのかも知れない。


「今年の山守神社の演武だけど、十月の第二日曜、風音も大丈夫だよな?」


哲ちゃんの問いかけ。やっぱり演武の相談だ。


「今年は雪香と風音で表木刀をやってもらおうかと思ってるんだ」

「わかった」


雪香の掛け声は迫力があるから見栄えがするだろう。場合によっては、観客には俺が親の仇みたいに見えたりして。


ちなみに宗家は演武には出ない。挨拶や解説などの進行が役割だ。


「あとは居合と風返しから何本かずつと、抜刀術を通しで……と思ってる。出入り含めて二十分」

「風返しは哲也と祥子さん、水萌さんと風音の二組を考えてる」


二組か。表木刀ほど大きな動きではないから大丈夫だろう。


「居合は雪香、祥子さん、風音、水萌さん、俺。抜刀術は俺を除く全員」


全員ということは、桜さんも抜刀術には出るということだ。それは楽しみだ!


「あれ? ちょっと待って、父さん。風音が全部に入ってるよ」

「ん、そうか。全部じゃ忙しいなあ。抜刀術か居合、どっちかやめとくか。どうする?」


自分のことは気付かなかった。確かに全部に出るのは忙しないし、観客も俺の顔を見飽きてしまうに違いない。


「順番によるけど……、全体の合間に一回抜けられるといいな」

「そうだな。じゃあ、考えておく」

「きょうだいで表木刀なんて、貴志がいたころ以来だから……三十年ぶりくらいか?」

「もっとだよ」


宗家がなんとなく嬉しそうだ。


中学教師になって黒川流をやめる父を引き留めなかったと聞いたけれど、心の中では残念に思うこともあったのだろう。けれど、父の恋人だった母が剣術に魅せられて入門し、さらに今は俺と雪香も稽古に励んでいる。家族が黒川流を続けていることは、祖父としてはやっぱり嬉しいのだろう。


稽古の終了時に、演武には全員がどこかに参加すると宗家から伝えられた。


桜さんは微動だにせず聞いていたけれど、解散後に声をかけると、「わたしのせいで黒川流の評判が落ちたらどうしたらいいのでしょう?」と真剣に尋ねられた。――と思ったら、すぐに「とにかく稽古するしかないですよね。できるところまでやります」と決意を固めた。


こういうところが彼女の魅力だ。できないなりに頑張ろうとする姿勢が可愛くて、いくらでもバックアップしたくなる。


片付けの後、ロビーで輝さんが着替え中の桜さんを待っていた。「もう暗いし、そんなに歩いている人もいないって言ったんですけど、近所の人には絶対に見られたくないって……」と苦笑している。


軽く稽古の感想などを聞いているうちに、「あの」と輝さんが声のトーンを落とした。


「わたし、水曜日までこっちにいるんですけど、少しお時間をいただけないでしょうか? お忙しいですか?」

「ああ……、大丈夫ですよ。僕は木曜まで仕事が休みですから」


こんな申し出をするということは、桜さんから俺とのことを聞いているのかも知れない。輝さんは桜さんのただ一人の家族だから。


「良かった。姉はほかの人が休暇を取るから休めないって言うんです。せっかくわたしが来てるのに」


輝さんが軽く唇を尖らせた。


「仕事と言われると仕方ないですよね」


でも、その気持ちは分かる。


市役所はお盆休みはなく、夏季休暇を各自の都合で取るそうだ。俺も密かに俺に休みを合わせてくれないかと期待したけれど、同じように言われてしまったのだ。


とりあえず、会う日を明日の午後と決め、連絡先を交換。輝さんが桜さんには内緒にしたいと言うので、それも了承した。


明日、輝さんから何が聞けるのだろう。いや、彼女の方が俺から何かを聞きたいのか。駐車場に向かいながら、期待と不安が入り混じる。


帰りの車で雪香が輝さんの噂をするのかと思ったが、演武に話題が行った。雪香は俺と組んで演武に出ることが不満なようだ。さすがに嫌だとは言わないが。


「中学のときの同級生とかが見るんだよ? もっとカッコいいお兄ちゃんなら自慢できるけどさあ」

「一緒にやらなくたって、俺はずっと演武に出てたぞ。今さら同級生の目を気にする必要ないだろ?」

「でも、一緒にやったら注目されるじゃん。『あれって雪香のお兄さんじゃない?』って話になるよ」


まったく腹が立つ! 世の中には俺の容姿を褒める女性もいるのに。


それに、桜さんは俺の後ろ姿に憧れたんだ! 桜さんの入門のきっかけは、本当は俺なんだぞ!


悔しかったら、自分の後ろ姿で誰かを勧誘してみろ!






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