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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第二章 抜刀!
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「ああ、おなかいっぱい」


店を出ると、桜さんが満足のため息をついた。真っ暗な空を背景に周囲の街灯やライトアップの明かりがきらめいている。


食事中の話題はちゃんと展開し、楽しい時間を過ごした。話している間に、桜さんが意外とめんどくさがり屋だということが判明したのが収穫の一つ。


「仕事では手順を踏んできちんとやりますけど、自分のことは、やらなくても困らないことは基本的に省略です」


肩をすくめて笑う桜さんにどんなことを省略するのか尋ねると、「料理のひと手間とか……」のあと少し迷って、後ろめたそうな顔で「メイクと休みの日の身支度」と教えてくれた。パジャマ姿の桜さんを密かに想像しながら「俺も同じようなものだな」とさわやかに返すと、彼女は「信じません!」と明るく笑った。


見るからにきちんとしている桜さんが、自分のことに関しては手抜きだというのは面白い。本人はそれを欠点だと考えているようだけれど、俺はすべてが完璧な人よりも適度に緩みのある人の方が気が楽だ。それに、桜さんがときどき発揮する妙なのんきさも気に入っている。


知れば知るほど桜さんに捕らえられていく気がする。一分でも一秒でも長く一緒にいたい。


「疲れていなければ、腹ごなしに少し歩こうか」

「いいですね! こっちですか? それともこっち?」


――え?


どきん、と胸が鳴った。


楽し気に右、左、と指差す桜さんがいつもと違って見える。何倍も――百倍も、百万倍も可愛い。ふたりとも酒は適量だったと思うけれど……。


「ええと、あっちかな。猫桟橋(ねこさんばし)って行ったことある?」


動揺を隠すため、行き先を確認するふりで顔をそむける。いったい何が違うんだ? 単なる見間違い? でも「いいえ」という声もどことなく楽し気だ。


間近に見上げられることは今までにもあった。でも、なんだか今は……そう、頭を撫でたくなるような何かがある。


「ええと……、俺も初めてなんだけど、海側から夜景が見えて綺麗だって聞いたことがあるんだ」

「そうなんですか。いいですねぇ」


にこーっと笑う様子がまた可愛い。なんで? どうして?


「じゃあ、行こうか」


自分がにやにやしているのが分かる。けれど、この可愛らしい桜さんを独り占めしていると思うと、どうにも嬉しくてならない。


猫桟橋は実際に客船が停泊できる桟橋で、展望広場やホールは誰でも出入り自由だ。情報源の友人は、猫桟橋は観光スポットの端にあるから人が少なめだと言っていた。ということは、もしかしたらいい雰囲気に……。


――あれ?


歩きだして気付いた。彼女との距離に。まさに、すぐ隣にいる、という感じ。腕を差し出したらそのまま寄り添ってくれそうな。


どうしよう?


やってみるか? いや、でも、近いことに気付いて離れられてしまうかも知れない。だったらその前にさっさと肩とか腰とか……いや、それはやり過ぎか。でも、それを期待して近くを歩いている可能性はないか?


ああ……、でも桜さんだぞ? そういうことを期待して近付くはずはないんじゃないか? ……いや、だけど控えめなひとだから、距離を詰めるという方法で気持ちを表現している……なんてことはないだろうか。


やっぱりないかな。いや、でも……。


ちゃぷん、ぽちゃん、という波の音ではっとした。街灯で照らされた護岸の遊歩道。すれ違うグループ、ベンチに座る年配のカップル、海を眺める二人連れ、みんなゆったりと満ち足りた表情だ。その中でこんなことに頭を悩ませている俺は、なんて無駄な時間を過ごしているんだ!


「あ。客船停まってますね」


視線の先に、海を遮るように浮かぶ大きな船のシルエット。うきうきした気分が彼女の軽やかな口調にも足取りにも表れている。俺が手を出さなかったことをがっかりしている様子はない。……って、がっかりしているのは俺だ。


桟橋の入り口付近は大きな橋の上を歩いているような感じ。左右の柵の向こうの海は光を反射しつつも黒くて、落ちたらそのまま奥へと吸い込まれてしまいそう。桜さんも何かを感じるらしく――彼女の場合は確認せずにいられないらしい――そろそろと端に近付いていく。


柵があるとはいえ、万が一のことを考えてはらはらしながら後を追う。海をのぞき込んでから振り返り、「真っ黒です」と報告する彼女に対して湧き上がるのは保護者めいた気持ち。


――そうか。とても大切なんだ。


彼女を大切に思っている。彼女の存在を。以前の恋とは違う気がする。情熱というよりも、泉に水が湧き出るような、静かで澄んだ想い。


「客船を近くで見るのは初めてです」

「俺も。大きいんだなあ」


静かに佇む客船は、まるでマンションがまるごと船に載っているみたい。浮いているのが不思議に思える。


桟橋の上部は不規則に波打つ木製デッキになっていて、奥に進むと展望広場が海に突き出している。広場の真ん中の山なりになった人工芝の部分が猫の背に似ているという理由で猫桟橋と名付けられたそうだ。


「曲がってます。傾いてます」


桜さんがくすくす笑いながら歩いていく。スニーカーを履いた足元はしっかりしていて、俺が手を差し伸べるまでもない。少し残念な反面、はしゃぎ気味の桜さんが微笑ましくて、喜びが温かく心を満たす。


と、ぴたりと彼女が足を止めた。感情が消えた横顔の理由を求めて視線を追うと。


――ん、これは……。


場所の選定を誤ったか。


展望広場の柵にもたれるのは大量のカップル。ただ並んでいる組もあれば密着状態の組もある。関係が確定していない俺達に、まるで決断を促しているような景色。


「……いっぱいですね」


桜さんが俺を見上げる表情は……読めない。


「上に登ってみましょう」


俺の返事を待たず、彼女は猫の背に登り始めてしまった。いったい何を思っているのだろう。怒っている? 気まずい? まさかのどうでもいいとか?


疑念を振り払いつつ、勢いをつけて桜さんを追い越す。


「勝った」

「負けました」


顔を見合わせて笑ったら気持ちが晴れ晴れした。――と思ったら、次の瞬間、桜さんが「はっ」と何かを思い出したように両手で口元を押さえた。何か重大なことを忘れていたのか? さっきの店に忘れ物でもした?


「失礼しました!」

「え?」


突然、頭を下げられてしまった。とりあえず、「失礼します(・・・)」ではなく「しました」だから、帰ってしまうわけではないようだけど……?


「わたし、今日はずいぶん馴れ馴れしくしちゃいましたよね? すみませんでした。気を付けようと思っていたんですけど、楽しくてつい」

「え? いやいやいや、ちょっと待って」

「親切に誘ってくださったのに失礼な態度で申し訳ありません。図々しくて、本当にごめんなさい」


――……なんてこった。


深々と頭を下げる彼女に力が抜けていく。彼女には、俺はまだ距離のある相手という位置付けだったらしい。肩を抱くかどうかで悩んだ俺は、いったい何だったんだ……。


「あのね、桜さん。馴れ馴れしいなんて、少しも思ってなかったよ? 桜さんが楽しそうだから嬉しかっただけで」


彼女が顔を上げ、ゆっくりとこちらを見た。俺の言葉が真実かどうか見極めようとしている。


「だって、友達だろ?」


本当はそれ以上だと言いたいれど。


数秒後、彼女が口を開いた。


「わたし、風音さんとお友達……でも良いのでしょうか?」

「もちろんだよ」


ため息をこらえて微笑みながら理解した。おそらく桜さんはずっと、俺との関係を判断できずにいたのだ。


今日の午後、彼女が何度か戸惑いの様子を見せていた理由もそれだ。俺は彼女が次の段階で迷っていると思っていたけれど、彼女はそもそも友達かどうかの確信さえなかったのだ。


それに気付かないほど俺が浮かれていたってことか……。


「俺はずっと友達のつもりだったよ。だから誘ったんだし、楽しく過ごせたんだよ」


更に無言の数秒が過ぎ、彼女がほっと息をついた。「ありがとうございます」とまた頭を下げ、少し落ち込んだ様子で説明してくれた。


「わたし、他人の気持ちとか距離感がよく分からないんです。一度、仲良くしているつもりだった相手が実は迷惑がっていたってこともあって」

「ああ、相手と認識がずれていることってあるよね」

「風音さんもあります?」

「うん。ときどきね」


今だよ、今! 恋人候補とは見做されていなくても、友達認定くらいはされていると思っていたのに。


「桜さん。一番先端まで行こう」


言葉と同時に体が動いた。桜さんの手を取り、歩き出す。


後ろで息をのむ気配。けれど、一歩遅れただけで、彼女はついてきてくれた。


「桜さん」


一瞬だけ振り向いて、また前を向く。


「俺は桜さんともっと仲良くなりたいと思ってる。だから、これからもいろいろ誘うけど……迷惑?」

「それは……」


彼女が答えに迷うのは予想の範囲内。その場しのぎの受け答えをしないひとだと分かっているから。


無言のうちに広場を囲む柵にたどり着いた。ここまで来てしまうと周囲のカップルは逆に視界から外れて、さほど気にならない。


並んで柵に手を乗せて海に目を向ける。ところどころに灯る光は船だろうか。接岸せずに夜を過ごす船があるのかも知れない。


桜さんはしばらく海を見てからこちらを向いた。体の前で手を組んで姿勢を正し、穏やかな表情で。


「迷惑ではありません」


そっと微笑んだ。


「わたしも風音さんと仲良くなれたら嬉しいです」

「!」


ということは、つまり桜さんも俺を――。


「ただ、一つお願いがあります」


楽しい未来を語るにしては静かな瞳。どうしてそんな顔をする?


「わたしのことが嫌になったら、気にせずに距離を取ってください。わたしは大丈夫ですから。自分のせいで誰かが困るのは嫌なんです」

「桜さん……」


まるで俺が彼女から離れたくなることが確実みたいに。そして……そうだ、その表情に浮かぶあきらめ。いったいなぜそう信じる?


「分かった」


うなずくと、桜さんは安心した様子で微笑んだ。


そんなときは来ないと言っても彼女は納得しないだろう。だから今は彼女の頼みを受け入れる。でも、受け入れても受け入れなくても同じことなのだ。好きじゃない相手と良好な関係を保てないのは誰でも同じことだから。


当然、桜さんが俺に愛想を尽かす可能性もあるし、桜さんにも俺を断る権利がある。なのに、どうして自分が嫌われる側だと決めつけているのか。


自分に自信がないから? でも、ここまではっきり言う覚悟は、どこかもっと深いところから来ているように感じる。


桜さんは何を抱えているのだろう? 何か……幸せをあきらめさせようとするもの。それは何?


「また美味いもの食べに行こう。楽しいこともたくさん」

「はい」


微笑みを交わしながら決めた。俺は桜さんが安心して休める場所になる。


一緒にいるとどんなに楽しいか伝えよう。桜さんを大切にして、彼女の存在が俺にとってどれだけプラスになるか教えてあげよう。


そして。


いつか彼女の苦しみ、悲しみを一緒に背負ってあげたい。取り除くことはできなくても、それが何かは分からなくても、隣で支えたい。


今、この夜に誓う。






お読みいただき、ありがとうございます。

第二章 「抜刀!」はここまでです。

次から第三章に入ります。

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