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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第二章 抜刀!
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10


――やっぱり簡単じゃないなあ……。


金曜の夜。スマートフォンを見てため息をついた。桜さんはちっとも連絡をくれない。


前回の稽古のあとに俺が言ったことは無駄だったか。あるいは、平日にも桜さんとつながりが持てたら……などと淡い期待を抱いていたのを見透かされたのか。「家で練習していて分からないことがあったら、いつでも連絡くださいね」なんて、親切を装った下心が見え見えか?


桜さんと親しくなりたいと思っているのに、彼女はいつまでも他人行儀。


知り合ってもう三か月になろうとしている。一度は――武道具屋に行ったことも含めれば二度、ふたりで出かけた。なのに、稽古の日は俺が話しかけなければ近付いても来ない。話し始めれば普通に楽しく話せるのに。


あの申し出を忘れている? いや、そもそも俺のことなど考えていないのかも。


きっとそうだ。彼女が俺を気にかけていると考えること自体、おこがましい。俺はそんな重要人物ではない。


何も言わなければよかった……。


あんな申し出、するんじゃなかった。桜さんには桜さんの世界があって、そこでは俺なんかまったくお呼びではないのだ。こんなふうに後悔するなら黙っていればよかった。


「うーーーーーん……」


思わず唸ってしまう。でも……。


なんだか情けなくないか? いい大人なのにこんな状態。まるで思春期の片思いみたいじゃないか。もうちょっとスマートに振る舞いたいよな?


でも、どうすればいいのか分からない。週に一度は稽古で会うというのが、逆にタイミングを奪っているみたいな気もする。


イベント的なものよりも、日々の生活の中で接点が欲しいのだ。ほんのひと言交わすだけでも。俺から……っていう手もあるけれど、つまらない情報で五月蠅がられたら、その後の稽古に影響が出そうで。だけど……。


やっぱり、俺から連絡した方がいいかも知れない。


だって、桜さんは超が付くほど控えめなひとだ。自己評価が低いから、遠慮している可能性は大きい。さらに、社交辞令だと思われて流されてしまっている可能性だってある。


よく考えたら、あんな中途半端な言葉でそういう桜さんの行動を促そうなんて、上手く行くはずがない。馬鹿じゃないか、俺は。


接点が欲しいと思っているのは俺なのだ。だったらこちらから動かないと。


「よし」


電話してみよう。


金曜の夜だから、今週はどうでしたか、みたいな感じで。


こうやってため息ついているよりもずっと建設的だ。……でも、金曜の夜。誰かと出かけていたりするだろうか? 男の同僚とか?


ああ、もうやめ!


考えていたらきりがない。ダメでも何でも早く済ませよう。画面の名前をタップして。


コール音。コール音。コール音……。呼吸が浅くなっている。今のうちに深呼吸を――。


『はい。坂井です』


名字で名乗った?! 俺だって分かってるはずだけど? もしかして、俺と距離を取るための……?


「あ……、風音です。こんばんは。すみません、急に」


ちょっと声が掠れてしまった。息切れしているみたいに聞こえていたら嫌だな。


『いいえ、大丈夫です。何をしていたわけでもないので』


落ち着いた口調はいつもと変わらない。


「ちょっと……素振りをしていたら思い出して。どうですか、今週は。疑問点とか……ありますか?」


なんだこれ。家庭教師じゃあるまいし。変だろ!


『ああ……、実は今週は家で練習できていないんです。すみません』

「あ、そう、でしたか。いや、謝らなくていいですよ。忙しかったんですね。働いてたらそうですよね」


失敗した。変なプレッシャーをかけてしまった。桜さんをますます委縮させてしまう。


『忙しかったのは間違いないんですけど……、ちょっと今週のは普通とは違ってて』


ふふ、と小さな笑い声。でも半分はため息みたいだ。確かに元気がないような……?


「疲れているみたいですね。大丈夫ですか?」

『大丈夫です、明日はお休みですし。たまにあることなんですけど、今回は事件が大きくて、影響も大きかったので』

「事件? 事件ですか? 市役所で? 何かありましたっけ?」


そう言えば、今週、葉空市という言葉を見たような気が。


『学校内のいじめで葉空市を訴えた方がいらして、弁護士さんが記者会見を……』

「ああ! 今週の初めですよね?」


ニュースで見たんだ。いじめの内容がかなり悪質で、いじめというよりも恐喝ではないかと思ったやつだ。


『そうです。そのあとずっとお怒りの電話が止まらなくて……』

「怒りの電話? 桜さんの職場、関係あるところなんですか?」

『教育委員会なので……。わたしは経理課なので直接の関わりはないんですけど、電話は教育委員会全体に来ていて……。電話がつながらないとファックスやメールで送ってくる人もいて。市役所のサイトに連絡先載ってますから』

「それは……大変な一週間でしたね」

『お気遣いありがとうございます』


桜さんの声が少しだけ軽くなった。


『以前は窓口のある職場だったので、怒鳴る人や嫌味を言う人にはある程度は覚悟ができていたんです。でも、経理課に来てから一般のお客様と話すことはほとんどなくて慣れていなかったというか……。今回は電話を取った途端に怒鳴り声、というのが毎日続いたのでちょっと』

「怒鳴り声が毎日ですか。メンタルやられますね」

『まあ……、でも、被害に遭ったお子さんが一番傷付いているわけですから』


それはそうだ。それはそうだけど。


「電話をかけてくるのは関係者ではないんですよね?」

『ええ。正義の……一般の方です。義憤にかられて、という気持ちは分かります。それに、どんな仕事でもこういうことってあると思うので』


そうかも知れないけれど、それを桜さんが受けていると思うと理不尽だと感じてしまう。日ごろから公務員はやり玉に挙げられやすいように見えるし、中には他人を攻撃すること自体が目的の誰かだっているかも知れない。


『やっと金曜日なのでほっとしています。土日出勤にならないように残業で頑張った甲斐がありました。でも、ネットではまだ収まりそうにないし、テレビのワイドショーもたぶん……。だから来週も頑張らないと、ですね』


なんということだ!


いつも丁寧でにこにこしている桜さんが。


辛いことを微笑んでさらりと話せる桜さんが。


こんなふうに疲れた口調で!


「桜さん」

『はい?』

「何か美味しいものを食べに行きましょう」

『美味しいもの、ですか?』

「ええ。明日」

『明日?』


少しの間があって、それから『空いてますけど……』と聞こえた。


「じゃあ、まずは昼。それから何か楽しいことをして、夜ご飯」


辛いことがあったとき、ひとりで閉じこもっていちゃダメだ。楽しいことで記憶を上書きしなくちゃ。


『楽しいこと、と、美味しいもの。……いいんですか?』

「何がです?」

『風音さんのお休みの日に』


何を言ってるんだ! まったく桜さんは。


「俺の方が誘ってるんですよ?」

『……そうですね』


この口調。どこか納得のいかない顔をしているに違いない。それなら。


「分かりました。じゃあ、俺が美味しいものを食べたいので、一緒にどうですか?」

『ん、風音さんが? 美味しいもの……いいですね。でも』

「桜さんと行きたいんです」


自分でいいのか、なんていう質問は受け付けないから!


『ええと……、そうですか。それなら……』


まだ迷ってる? いや、何か違う気配が。


『……はい。ありがとうございます。美味しいもの、ぜひご一緒させてください』


よし!


明るい声。やっと前向きになってくれた。


「何がいいですか? どんな店? 行きたい場所とかありますか?」

『え? 風音さんが食べたいものは……?』

「何でも食べます」

『えっ、それは……』


言葉を失くした様子の桜さん。けれどすぐにくすくす笑いが聞こえてきた。


『特殊な食べ物を想像してしまいます』

「あはは、特殊か」


桜さんが笑ってくれるとこんなに嬉しい。楽しい気分でいてくれることが、こんなに。


「じゃあ、俺は夜を考えます。桜さんは昼を考えてください。いくつか候補を考えて、明日会ってから決めましょう」

『分かりました』

「待ち合わせは……葉空駅で」

『はい』


電話をして良かった。


桜さんが疲れた気持ちだけを抱えて今日を終わらせることにならなくて、ほんとうに良かった。そして、明日のことを思うと……。


こんなにわくわくしている。






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