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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第二章 抜刀!
13/46


桜さんと約束した土曜日は本格的な夏日になった。


昼過ぎに待ち合わせたエジプト展は適度な混み具合だった。ふたりで一緒に展示をまわるのは予想以上に楽しくて、いつもよりはしゃぎ気味で話し、視線を交わし、微笑み合った。次第に桜さんが隣にいることが当たり前のような気がしてきて、手を伸ばしてははっとする瞬間が何度かあった。


「想像の何倍も面白かったです」


会場を出てから入ったカフェで、桜さんが満足気にため息をついた。楽しかったのが自分だけではなかったことに、嬉しい予感が胸をよぎる。


高いビルにある展望カフェは、座席が窓に向かって並んでいる。大きな窓の大部分を占める空は黒味がかって見えるほど濃い青。桜さんのこげ茶色のロングワンピースと緩く編んだ髪が夏のリゾート地を思い起こさせる。次は海に行くのもいいかも知れない――。


「実物を見るって、テレビで見るのとは全然違いますね」


微笑みを向けられ、あわて気味で微笑みを返す。見惚れていたことに気付かれなかっただろうか……。


思い返す視界の先で、日を浴びた飛行機がきらりと光る。ずっと先のビルの間には東京タワーの赤いとんがり。


「目の前にあると迫力というか、力を感じます。あの玄室はもちろん複製だけど、それでもすごかったです」


彼女が熱心に言う。俺の態度には何も疑いを持っていないらしい。これなら大丈夫。


「あれは見応えがありましたね」


今回の展示はある研究グループの調査の成果報告を兼ねたもので、実際の発掘現場が分かるような工夫がされていた。その一つが玄室、つまりミイラの棺が置いてあった部屋の再現だ。


小さな入り口をくぐると薄暗い小部屋で、崩れかけた壁画が四方の壁から天井まで覆っていた。入ったとき、まるで自分が発見したような気持ちが湧いてきて、不思議でわくわくする体験だった。


展示をまわりながら、ふたりであれこれ話し、感心し、笑った。驚きや感動を共有できることが楽しかった。彼女が目を輝かせて展示物に見入る様子に胸があたたかくなった。誘ってよかった、と。


「死者の書も惹かれます。魂があの世に行くためのガイドを棺に入れたっていうのがいいなって」

「ああ、あれ、けっこう長い道のりですもんね」


途中のいくつかの関門を無事に通過できるようにという願いが込められているそうだ。


「ヒエログリフが自分で読めたらって、ときどき思うんですよ」


俺が言うと、桜さんが瞳を輝かせた。


「わたしもです! 図書館でヒエログリフの入門書を借りたことがあるんです。でも、かなり根気が必要な気がして、そのときはそのまま返しました」

「入門書なんてあるんですか? じゃあ、本気を出せば、僕たちでも可能ってことですよね?」

「ええ。本気を出せば」


それは面白そうだ。いつか挑戦してみたい。……まあ、“いつか”こそが難しいのかも知れないな。


「夏は遊びに行く予定はあるんですか?」


七月上旬の今なら一般的な話題だ。話の流れで一緒に……という可能性もあるだろうか?


「翡翠と計画中なんです。候補がありすぎてなかなか決まらなくて。でも、考えるだけでもすごく楽しいです」


そうか。今まで自由に出かけられなかった桜さんだから、余計に。


「妹がお盆に泊まりに来ることだけ決まっています」

「そうか。お母さんの新盆ですね」

「ええ……」


桜さんが静かに目を伏せた。


お母さんのことを口にしたのは失敗だった。まだ気持ちの整理がついていないようだ。


「妹さんとはいくつ離れているんですか?」


話題を妹さんに向けると、桜さんの表情が明るさを取り戻す。


「五つです。自動車メーカーで企画の仕事をしているんです。希望の仕事に就けたので、すごく楽しそうです」

「それはほっとしますね」


妹の雪香がどうしても植木屋になりたいと言って、最初の仕事――銀行だった――を辞めたときのことを思い出す。雪香は、誰もが好きな仕事に就いているわけではないと分かっているけれど、自分の気持ちに折り合いをつけらない仕事は苦しいと言っていた。


「専門の大学に入って、そのときに寮に入るために家を出て、会社も県外なのでそのまま……もう五年ですね」

「そうなんですか。桜さんの五つ下ということは、雪香と二つ違いか」


――五つ下、か……。


五つ下なら、桜さんが中学校に入ったときには小学校の二年生。ということは、やっぱり桜さんは家の切り盛りをしながら妹さんの世話もしていたとみて間違いないだろう。就職した時点でも妹さんは中学生だったわけだから、心配なことはいろいろあったに違いない。


桜さんからお父さんの話は聞いたことがない。翡翠の話にも出てこなかった。ということは、お母さんが体調を崩したときには、すでにお父さんがいなかったのかも知れない。理由は分からないけれど。


「妹さんには桜さんがお母さんみたいな存在なんでしょうね」

「どうでしょう?」


桜さんがくすくす笑う。


「妹はしっかり者で、自分のことは自分でできる子でしたから。自分がどうしたいのか、そのために何をすればいいのかちゃんと分かっていて……。わたしは迷ってばかりいて、いつも妹に呆れられていたんです」

「そうなんですか? しっかりしているように見えるのに」

「まあ、そういう部分もあります」


彼女はパインジュースを一口飲んだ。


「仕事とか家事とか、やるべきことが決まっていれば平気なんです。だから職場ではしっかり者だと思われています。学校でも、ルールに従えばいいわけですから、先生方には優等生っぽく見えていたと思います。問題行動がなくて、そこそこ勉強もできる生徒ってことで、手がかからないから印象にも残ってないんじゃないかな」


軽く肩をすくめる彼女。優等生であることは、桜さんにとってはそれほど嬉しいことでもなかったようだ。


「でも、ほんとうは簡単な方に逃げているだけです。自分で目標を決めて頑張るっていうことができないんです。決断力も行動力もなくて、結局、何もできません。だから」


あらたまった様子で彼女がこちらを見た。


「今日、誘っていただいて、ほんとうによかったです。ひとりでは来る決心がつかなかったと思うので。ありがとうございます」

「いいえ、こちらこそ」


楽しんでもらえてよかった。だけじゃなく、一緒に楽しい時間を過ごせたことが嬉しい。


「風音さんのお陰で博物館が少し身近になりました。これからも面白そうな企画があったらひとりでも行けそうな気がします」

「え?! ひとりでですか? 俺は誘ってくれないんですか?」


俺は誘ったのに!


「え? お誘いしてもいいんですか? わたしとで?」


きょとんとした顔で訊き返された。


「もちろんです」


答えながら、すとんと胸に落ちるものがあった。翡翠が言っていたのはこれだ、と。


桜さんは自分には価値がないと思い込んでいる――。


自分は他人の邪魔、あるいは重荷になると考えている。俺の言葉に桜さんがよく驚いた顔をするのは、きっとそのせいだ。他人の好意を想定していないから。


さらに、他人に迷惑をかけることを恐れて、自分の行動に他人を巻き込まないという思考が働く。だから、誰かを誘うという選択肢は彼女には最初からない。例外は翡翠と一柳さんくらいだろう。


「また一緒に行きましょう。面白い企画があったら教えてください」

「あ……、はい」


戸惑いながらも微笑んで、うなずいてくれた。


ほっとしながら椅子の背に身体をあずける。ゆっくり周囲を見回すと、さまざまな年齢層のお客。みんなそれぞれに寛ぎ、誰かと微笑み合い、語り合って、幸せそうだ。


――逃げているだけ、なんて……。


ぼんやりと外を眺める桜さんの横顔。彼女はさっきそう言った。けれど、それは違うような気がする。


職場と家の往復だけしか許されない生活。それを続けてきたことは“簡単”なことだったのか? それこそ、逃げない覚悟が必要だったのではないのか?


でも、彼女はそうは思っていない。自分は何も頑張って来なかったと……。


「よかったら」


もっと話をしなくては。もっとたくさん。


「少しぶらぶらしませんか?」


彼女から提案することはないのなら、俺から言えばいいだけだ。


「いいんですか?」


桜さんの驚いた顔も、理由が分かれば微笑ましい。とは言え、今日、一緒に過ごした時間では親しくなるのにまだ不足なのかと思うとがっかりだけど。


「もちろん。ついでに夕飯もどうですか? どうせ帰ってもひとりなので」


ほんとうは「もう少し話がしたい」と言えたらよかったけれど、今は気楽に応じてもらえることが優先だ。変に遠慮されたら元も子もない。


思惑どおり、彼女は「ひとりはわたしも同じです」とにっこりして承諾してくれた。


「どこか、行きたいところはありますか?」

「行ってみたいところですか? 翡翠と話しているところがいくつかあって……。でも、ここから近いかどうかもよく分からなんですけど……」

「どこですか?」

「浅草とか東京駅とか銀座とか新橋とか」

「新橋?」


浅草や銀座というのは観光地として分かるけれど、新橋というのは――。


「テレビのニュースによく映ってますよね? 汽車があるところ」

「ああ、新橋駅の」


なるほど。そういう場所ということなら。


「渋谷はどうですか? ここから二十分くらいですよ」

「渋谷! スクランブル交差点」


桜さんの瞳が輝いた。


「ええ。ハチ公もいます」

「行ってみたいです」


嬉しそうな笑顔だ。こんなに好奇心旺盛なひとなのに、家族のためとは言え、それを封じ込めてずっと……。


「よかったらスクランブル交差点を何往復もしてもいいですよ」

「ふふ、じゃあ三往復くらい? ぶつからないで歩けるかちょっと緊張しますけど」

「葉空駅の朝の乗り換えを経験していればどうってことないですよ」


大丈夫です、俺がリードします――って言えたら格好良かったかな。


でも。


もっともっと、桜さんの生き生きとした反応が見たくなる。次はどんな提案をしようかと考えてしまう。桜さんと一緒に新しいことに挑戦するのも楽しそうだ。驚いたり、笑ったり、感心したりするその瞬間を共有したい。


桜さんは?


その穏やかな横顔は、何を考えているのだろう。






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