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桜さん、顔を上げて。  作者: 虹色
第二章 抜刀!
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ずっとメッセージのやり取りばかりだった翡翠から電話がかかってきたのは六月半ば。用件はなんと、桜さんとの食事会への招待。まるで俺の願いが届いたかのようなタイミングだ。


金曜日の夜に、葉空駅の近くのイタリアンレストラン。桜さんの同期の男性も来るけれど、俺が参加してもまったく問題ないと言われ、ほぼ迷わずにオーケーした。返事が早すぎたかと少し不安になったりしたが、翡翠が何も言わなかったので気にしないことにした。


葉空駅はJRや市営地下鉄のほかにいくつかの私鉄も乗り入れている大きな駅だ。連絡通路は朝から晩まで大勢の人が行き来している。


緊急の仕事が入ることもなく無事に退社できたから、遅れずに参加できそうだ。梅雨も一休みで晴れた一日だったけれど、外に出ると蒸し暑さが半端ない。桜さんに会う前に、どこかで顔を洗いたい気分。


「クロ!」


JRの改札から出たところで翡翠が追い付いてきた。隣に並ぶと背の高さが俺とさほど変わらない。紺のワンピースに細いネックレスがフォーマルな雰囲気。


「え? もしかしてちゃんとした店? 俺、仕事のままだけど」


半袖ワイシャツにグレーのパンツ。一応、革靴は履いているけれど、ノーネクタイだ。


「ああ、大丈夫大丈夫。わたしはこういう服が好きだから着てるだけ」


笑って言う翡翠は、やっぱりどこから見ても女性でしかない。


そう確認したら安心した。中途半端に気を遣う必要はない。翡翠は女性だ。そして友達。


「声かけてくれてありがとう」

「こちらこそ、来てくれてありがとう。お店、知ってる?」

「いや、初めてだな」

「こっちが近道なの」


駅の東西を結ぶ中央通路から、地下街へと抜ける細道に入る。


古くから東京と県内を結ぶ存在だった葉空駅は、俺が知っている限り、常にどこかを改修している。地元に住んでいても初めて知る出口があったり、いつの間にか抜け道ができたり消えたりするのだ。どこまでできたら完成形なのかまったく分からない。


「もう一人来る桜の同期はね、わたしたちより五つ年上。見た目がちょっと個性的だけど、いい人だし、クロとも気が合うと思う」

「五つ上? じゃあ、桜さんとは六つ違いか」

「そうね。桜は高卒で、イッチーは大卒の転職だから。あ、名前が一柳(いちやなぎ)(めぐる)さんっていうの。だからイッチー」


なるほど。


見た目が個性的というのは想像しにくい。服装なのか、体型なのか、雰囲気なのか。いったいどういう方向の? 女性からニックネームで呼ばれているのなら、フレンドリーな性格か。


年齢が五つ上ということは三十四歳。……いや、それよりも高卒すぐの桜さん、つまり十八歳だった桜さんを知っているっていうところがなんだか羨ましい。俺はべつに十代の女の子が好きというわけではないけれど――。


「あ、いたいた。桜! イッチー!」


翡翠が駆け寄る先に桜さん。淡い色のふわりとしたブラウスを着て、今日は髪を下ろしている。そして隣には。


――え? あのひと?


長身で逞しい男性。近付いてみて、思わず凝視してしまった。


白いポロシャツに包まれた胸の厚み。半袖から伸びる腕は筋肉に包まれている。ボディービルダーほどではないけれど、肩からウエストへの引き締まり具合にオーラを感じる。そこに人の良さそうな笑顔と角張った黒縁メガネが加わって、まるで正体を隠しているスーパーマンみたいだ。


「風音さん、こんにちは。来てくださってありがとうございます」


桜さんの声。稽古で聞くよりも元気で可愛らしく聞こえる。


「あ……、こんにちは。今日はお邪魔します」

「全然お邪魔じゃないです! こちらは一柳さんです。わたしの同期。十年だから、長い付き合いだよね?」

「一柳巡です! 葉空市消防局勤務です!」

「消防局……ですか」


ビシッと敬礼でもしそうな自己紹介に圧倒されつつ納得。そのとき。


「イッチーは消防士じゃないからね? 総務課よ。事務職の係長」


隣から翡翠の声。


事務職?


「あ……そうなんですか?」

「はっ。新採用時に坂井と同じ区役所に配属されて、隣の課で四年ほど」


区役所に……。


区役所に行って、窓口にこのひとが出て来たら、ちょっと身構えるな。……って、俺も自己紹介しないと。


「黒川風音です。翡翠とは昔なじみで」

「今はわたしの剣術の先生。すごーくお世話になってるの」


先生ではないと言おうとしたけれど、桜さんの表情を見たら言葉に詰まってしまった。


――桜さん、一柳さんにはそんな顔をするんだ……。


すかさず一柳さんが「坂井がお世話になってます」と深々と頭を下げる。


「あ、いや、そんな、こちらこそ、桜さんが入門してくれたこと、うちのみんなが喜んでいるんです」


あたふたしているうちに、宗家以外は先生と呼ばないと訂正するタイミングを逃してしまった。


桜さんと翡翠は可笑しそうに視線を交わしている。でも。


――これは……どういうことだ?


一柳さんと桜さんの親密そうな雰囲気。いったいどのくらいの関係?


同期と言っているけれど、桜さんのことで俺にこんなに丁寧にお礼を言うなんて、まるで身内みたいだ。それに、桜さんが一柳さんに向ける表情がいつもと全然違う。楽し気で、気楽そうで、からかう様子は甘えているようにも見えて……。


いつの間にか翡翠は入店し、すぐに案内係が来た。疑問を抱えたまま後に続いた俺の隣に、気付いたら桜さんがいた。


「風音さんがいらっしゃる前に」


軽く笑いながら桜さんがささやく。


「一柳さん、名刺を用意していたんです。風音さんに自己紹介するときに渡すって」

「名刺ですか? 仕事用の?」

「ええ。止めましたけど……」


もしかして、極端に真面目なひとなのか? あの自己紹介と言い、桜さんのことと言い、単にそれが理由?


「もしかして、欲しいですか?」

「……え?」


何を?


「一柳さんの名刺。要ります?」

「あ、いや、職場に連絡することはないと思います。お気遣いありがとうございます」

「いえいえ」


欲しいかと無邪気に訊く桜さんも……桜さんらしいな。笑ってしまう。


――やっぱり桜さんはいいな。


一柳さんの登場に混乱していた気持ちがほぐれていく。これが桜さん効果だ。


広い店内には点々と丸テーブルが並び、グラスを集めたようなシャンデリアで明るく照らされている。店員がイタリア語で威勢よく呼び交わしながら、気取った様子でテーブルの間を歩いている。


「ここ、本格的な薪窯で焼くピザが絶品なんだって! 絶対頼もうね!」


席に着いてすぐに宣言する翡翠に桜さんがにこにことうなずく。


翡翠が中心になって手際よくメニューを選び、注文してくれた。桜さんはメニューやお酒にはあまり詳しくないようで、遠慮気味だ。


「黒川さんは」

「あ、はい」


向かい側から一柳さんに名前を呼ばれて思わず姿勢を正した。稽古のときの桜さんもこんな気分なのかも。


「どんなお仕事をされているんですか?」


桜さんと翡翠も俺に目を向けた。


「建築士です。建築会社で建物や公園の設計をしています」

「え? 植木屋さんじゃないんですか?」

「あ、そう思っていたんですか?」

「はい。雪香さんがそうだって聞いたので、てっきりご家族みなさんで……と」

「はは、そういうわけでもないんです」


目を丸くしている桜さんに翡翠が「今日はクロにいろいろ聞けるチャンスだよ」と笑って言った。俺としても、それは彼女の情報を得ることにもつながるわけで……望むところ、かな。


乾杯用に頼んだスパークリングワインが来て、店員が注ぐのを桜さんは畏まった様子で、そして興味津々の様子で見ていた。


「実は初めてなんです」


隣から身を寄せてこっそりと教えてくれた。


「こういうお店?」

「お店もですけど、スパークリングワインとか。ボトルでワインを頼むとか」


ににこにこしている桜さんは心から楽しそうだ。


「そうなんですか?」


勤めて十年なら、行く機会はありそうなのに……?


「はい。職場の宴会だと和食か中華ばっかりで」

「ああ、たしかに」

「はーい。では乾杯しましょう!」


翡翠から声がかかり、みんなでグラスを持つ。


「素敵なメンバーで集まれたことに、かんぱーい」

「かんぱーい」


グラスをあげ、桜さんは翡翠に「今日はありがとう」と言ってからそっと口をつけた。一口飲んでグラスを見つめながら味わい……にっこりした。


「美味しい!」


その笑顔を見た翡翠が「よかった!」と笑顔を返した。


「桜のために選んだお店だから、たくさん楽しんでね」

「そうだぞ。食べたいもの、飲みたいもの、どんどん頼め」

「ありがとう」


――桜さんの、ため?


三人の間では了解事項があるらしい。翡翠は何も言わなかったのに。


「お誕生日とか……ですか?」

「あ、違うんです、ごめんなさい」


桜さんが俺の戸惑いに気付いてくれた。


「ちゃんと四人で割り勘ですから心配しないでください。風音さんも遠慮しないで頼んでくださいね?」

「あ……はい」


べつに支払いのことを心配していたわけではないんだけどね……。






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