ショウユとコメと賢者
「……むっ。これは……!」
上空を飛ぶピヨの背中で、私は鼻をひくつかせた。 風に乗って漂ってくる匂い。それは先ほどの焼き菓子のような甘い香りではない。もっと複雑で、香ばしくて、そして私の奥底にある「記憶」を猛烈に刺激する香り。
「エリスさん、進路変更です! あっちの市場に向かってください!」
「はぁ!? あんた、まだ食べる気なの!?」
「これは……運命の出会いの予感です!」
私はピヨの首をポンポンと叩いて合図を送る。 ピヨは「キェッ!」と短く鳴くと、器用に翼を傾け、ランパードの東区画へ向けて急降下を開始した。
「ちょ、ちょっと! 急すぎるわよぉぉぉ――ッ!」
エリスさんの悲鳴を置き去りにして、私たちは風になった。
◇
東区画の広場に降り立つと、そこは異国情緒あふれる市場だった。
様々な国から集まった行商人たちがテントを張り、見たことのない香辛料や織物を並べている。
ピヨの巨体に周りの人たちがざわついているけれど、今の私にはそれどころじゃなかった。
「……こっちです。間違いない」
私はふらふらと、何かに吸い寄せられるように歩き出す。
そして、一軒の古びた露店の前で足を止めた。
店主は東方の出身らしい、浅黒い肌の老人だ。
彼の店の棚の隅っこに、それはひっそりと置かれていた。
小さな陶器の壺に入った、黒い液体。そして、麻袋に入った白い穀物。
「……見つけました」
私は震える手で、その壺の蓋をそっと開けた。
ふわっ、と立ち上る独特の香り。
「うっ……なにこれ? なんか変な匂いがするんだけど……」
隣でエリスさんが鼻をつまんで顔をしかめる。
私はそんな彼女に向かって、真剣な顔で力説した。
「何をおっしゃいますか、エリスさん! これは腐っているんじゃありません。『発酵』という奇跡です!」
「はっこう……?」
「ええ。時間をかけて旨味を凝縮させた、いわば『黒い黄金』ですよ!」
私の前世の記憶が告げている。
これは『醤油』だ。
そして隣にあるのは『米』。
エルフの里では主食ではなかったけれど、私はこの味を知っている。
「おじさん、これ、売り物ですか?」
「あいよ。遠い東の島国から仕入れた調味料だが……こっちの人間には人気がなくてねぇ。独特の臭いがあるだろう?」
「全部ください」
「へ?」
「ここにある在庫、全部です。あと、その白い穀物も」
私が革袋から金貨を取り出すと、店主の目が点になった。
エリスさんが慌てて私の肩を揺さぶる。
「ちょっとリィア! 正気!? こんな得体の知れない黒い汁と草の実を買い占めてどうすんのよ!」
「どうするもこうも……今日の夕飯にするんですよ」
私は壺を愛おしそうに抱きしめ、うっとりと呟く。
「炊きたての白い穀物に、新鮮な卵を落として、この黒い雫を垂らすんです……。想像しただけで、魔力が回復しそうです」
「……卵を生で? 穀物にぶっかけて?」
エリスさんが、信じられないものを見る目で私を見た。
まるで、私がゲテモノ食いの野蛮人だと言いたげな顔だ。
「ふふん。食べてみれば分かりますよ。この組み合わせが、間違いないってことが」
私は上機嫌で代金を支払い、大量の壺と麻袋をピヨの背袋に詰め込んだ。
「――おや。随分と、マニアックな買い物をされるんですね」
背後から、凛とした、それでいてどこか冷ややかな声がかけられた。
振り返ると、雑踏の中に一人の少女が立っていた。
勇者パーティの“賢者”――
彼女は私の抱える壺をじっと見つめ、探るように目を細めた。
「その調味料……こちらの世界では、ただの臭い汁として捨てられることも多い代物です。まさか、その使い道をご存じなのですか?」
「……使い道、ですか?」
私は壺を見て、小首を傾げた。
目の前に立つ高坂静流の視線は鋭い。
(なるほど。この黒い液体と白い穀物の正体を知っているエルフ……確かに、不自然に映るかもしれませんね)
彼女の瞳には、明確な疑念がある。「あなた、向こう(日本)の人間でしょう?」という問いかけが、言葉の裏に見え隠れしている。
「ええ、なんとなくですが。私の鼻がそう告げているんです。この香ばしい香りと塩気……これは、肉や魚の脂と合わせれば、爆発的な旨味を生むはずだと」
「……勘、だと言うのですか?」
「『直感』と言ってください。美食への探求心は、時に知識を凌駕するのですよ」
私が堂々と言い放つと、静流は呆気にとられたように瞬きをした。
隣のエリスさんが「また始まったわよ、この子の変な理屈……」と頭を抱えているのが、いい具合に信憑性を高めてくれる。
静流は、ふぅ、と小さく息を吐き、壺に視線を落とした。
「……それは『醤油』、そしてそちらは『米』と呼ばれるものです。東の果ての島国では、主食として親しまれています」
「へぇ、ショウユにコメ、ですか。素敵な響きですね」
私は初めて聞いた単語のように装って頷く。 彼女は私から視線を外さず、畳み掛けるように言った。
「その食べ方――生卵を落として食べるという発想。こちらの世界ではまず見かけません。……まるで、どこか別の世界の風習を知っているかのようですね」
どうやら先程の会話を聞かれていたらしい。
「別の世界? ふふ、大袈裟ですね」
私は肩をすくめ、壺をのぞき込んだ。
「エルフの里には、木の実を発酵させた似たような調味料があるんです。だから、懐かしくなってしまいまして。……もっとも、あちらはもっと野性味あふれる味で、あれはあれで美味しかったですが」
「……」
嘘は言っていない。エルフの里には実際に木の実のソースがあった。
私の淀みない返答に、静流は探るような目を細め――やがて、ふっと口元を緩めた。
「……なるほど。あくまで『エルフの勘』と言い張るわけですね」
彼女の中で、私が「転生者」であるかどうかの確信は持てなかったようだ。 あるいは、「正体が何であれ、話ができる相手なら構わない」と判断したのかもしれない。 彼女の纏う空気が、尋問のそれから、密談のそれへと切り替わる。
静流は一歩、私に近づいた。 周囲の雑踏にかき消されるほどの小声で、囁く。
「……リィアさん。あなたに一つ、忠告しておきます」
「忠告、ですか?」
「ええ。クラウスには気をつけて。……いえ、王都の連中全てに、と言った方がいいかしら」
その瞳から、先ほどまでの探究心が消え、冷徹な光が宿る。
「彼らは私たち勇者を、『魔王討伐』のために呼んだと言っています。でも……調べていくうちに、妙なズレが見つかるのよ」
「ズレ?」
「ええ。歴史書、地理、物流の記録……どれを照らし合わせても、魔族が人間に侵攻しようとした形跡が見当たらない。
彼らが私たちに求めているのは、『世界を救う剣』じゃない。……もっと別の、薄汚い目的のための『駒』よ」
静流はそこで言葉を切り、私の目をまっすぐに見つめた。
「あなたは、第20階層の番人を倒したことで、彼らの『計画』の邪魔をした可能性があるわ。……あるいは、逆に利用価値を見出されたか」
「……怖い話ですね。私はただ、美味しいご飯を食べて、世界を眺めて旅をしたいだけなのですが」
「平和ボケしたふりをするのは勝手だけれど……巻き込まれるわよ。あなたのその力が、本物である限りね」
静流はそれだけ告げると、踵を返した。 黒髪をなびかせ、雑踏の中へと歩き出す。
「……また会いましょう、不思議なエルフさん。その『ショウユ』の味、感想を聞かせてちょうだい」
最後に一度だけ振り返り、彼女は薄く笑って去っていった。




