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世界で唯一のフィロソファー  作者: 新月 望


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第百二十八話『黒い蝶』

 エルヴィラさんの古書店の屋根を突き破ってから二ヶ月ちょっとが過ぎ去った。


 身体魔法を習得した僕は日夜その修行に明け暮れている。これは、過去の僕が持たなかった、僕だけの力だ。今はそのことが無性に嬉しい。


 僕は生まれて初めて、自分だけのものを手に入れたのだ。


 そして今日もまた、木剣を片手にアンスと模擬戦を行っている。


 日の出とともに開始したはずが、いつのまにやら空は朱色に染まり始めていた。宮殿の敷地内にある庭の青々とした草花達も今は、燃えるような赤一色だ。


「フィロス、今日はもう、あと一戦ね」


 木剣を構えたアンスが言う。


「そうだね」


 そう言って、僕は静かに頷く。


 二人の間に一陣の風が吹く。


 それを合図に僕は、力強く地を蹴り出す。


 僅かに抉れた土の感触を足裏に感じながらも、猛然とアンスとの間合いを詰める。


 強化された腕の力で激しく得物を振るう。


 木と木がぶつかり合う音が、戦いにリズムを生む。


 今この瞬間のアンスは、間違いなく僕だけを見ている。以前の僕ではない、目の前の僕を。


 その視線は、僕の強さに比例するかのように濃度を増しているように感じる。


 もっとだ、もっと速く、もっと強く。


 もっと僕を見てくれ!!


 一心不乱に剣を振り、少しでも長く、彼女と踊るのだ。


 しかし、その願いは、脳天への一撃により呆気なく消え去る。


 視界が揺れる。


「あぁ、今日も届かなかった」


 頭の痛みを堪えながら、僕は呟く。


「そんな簡単に負かされては、私の立場がないからね」


 木剣を地面に挿し、腕を組んで得意げな顔をするアンス。


「もうそろそろ、一本くらい取りたい所なんだけれど」


「私は五歳の頃から身体魔法を扱っているのよ? フィロスはまだ二ヶ月ちょっとなんだから、それを考えると凄い成長速度よ」


 運動により上気した頬で誇らしげに笑うアンス。その瞳の中には確かに、今の僕が映っている。


「僕はもう少しだけ鍛錬してから帰るよ」


 より濃く、明瞭に映るために。


「じゃあ、私も付き合うわよ?」


「それじゃあ差が埋まらないじゃないか」


「なるほど、そう言うことね。じゃあ、頑張って」


 何か微笑ましいものでも見ているかのように、柔らかい笑みを浮かべたアンスが、金糸の髪に夕陽を纏わせながら言った。


 宮殿へと帰っていく彼女の背を横目に、僕は一人、木剣を振るう。


 今日一日のアンスとの戦いを脳内で再生する。彼女の一挙手一投足を鮮明に思い出し、その動きをなぞるようにして、足を動かし、手を振るう。無駄のない鮮やかな動きだ。


 彼女と同じ舞台に立つには、あの動きについて行く必要がある。


 虚空に線を引くように、再生される記憶をなぞる。


 動きを模倣した次は、その動きを相手取る訓練だ。


 ゆっくりと目蓋を閉じて、想像する。


 僕のイメージによって作り上げられたアンスが動き出す。初動は右斜め上からの斬撃、ついで左横からの水平切り。アンスの太刀筋に合わせて守りの態勢を取る。


 俊敏な彼女に、イメージの中ですら翻弄されている。


 自らが作り出したはずの幻影に勝てないのは何故だろう。正確に実力差を再現出来ているからか? それとも、心のどこかで僕は、彼女に勝ちたいと思っていないからなのか?


 そんな邪念が混じった瞬間、目蓋の裏のアンスは目の前から消えていた……。


 * * *


 訓練を終えて宮殿内へと帰った僕は自室に向かう為、長い廊下を歩いていた。大理石の床に、一定のリズムで僕の足音が刻まれる。適度な疲労感が不思議と今は心地良い。しかし、視界の端に僅かな違和感が……。その正体を探るべく、僕は視線を違和感を覚えた端の方へと向ける。


 するとそこには、ヒラヒラと舞う一匹の黒い蝶の姿が。どこから迷い込んできたのだろう。室内に蝶とは珍しい。その黒一色の美しい姿に、不思議と僕の足はつられていた。


 浮ついた心が、足を浮かせたのか、その一歩は迂闊だったとしか言いようがない。


 僕の視線はその蝶に釘付けだ。あっちへヒラヒラ、こっちへヒラヒラ。気まぐれな黒い蝶を追いかけていくうちに、いつのまにやら僕は、大きな扉の前に立っていた。


「ここはどこだ?」


 背後を振り向けばそこには、豪奢な階段がある。目の前の蝶に夢中で無意識にこの階段を下っていたのか? そんな馬鹿みたいな話があるだろうか? 俄には信じがたいが現状を整理すると、この場所は地下ということになる……。まずいな、確か地下への出入りは禁止されていたはず。しかし、なんで今日に限って見張りがいないのだろうか? いつもはヴェルメリオの騎士が、地下へと繋がる階段を見張っていたはずだが。


 背中には、嫌な汗が流れている。


 目の前の大きな扉は、僅かに開いている。中は見えないが、先程の蝶は、その隙間から入っていった。

 

 普段は入れない、未知の領域。ちょっとした好奇心が僕を部屋の中へと誘う。


 誰もいなかったはずの部屋の中には、何故か蝋燭の火が灯されている。少し不気味ではあるが、引き返すにはもう、好奇心が肥大化し過ぎている。


 部屋の中央には装飾されていないシンプルな木箱が一つ台座の上に置かれている。かなり広い作りをした部屋にも関わらず、あるのはその木箱と台座のみだ。


 先程の黒い蝶が木箱の上に留まっている。


 僕は部屋の中央へと足を進める。台座の目の前で足を止め、木箱の上部へとゆっくり手を添える。


 心臓の音が気になる程には緊張している。


 添えた手に力を込めて、一気に箱を開く。


「なっ、なんだ、これは……」


 誰もいない空間に僕の声だけが響く。


 木箱の中身は、小さな少女の首だった……。


 しばらく脳が、活動を止めた。動揺という言葉が生温く感じる程に、僕の心は揺れていた。


 しかしそれは、恐怖を与えるには、美し過ぎた。


 恐怖よりも先に、知りたいと思った。この少女のことを。


 僕と同じ銀色の髪だ。肌は驚くほどに白い。まるでお人形のようだ。


 自然と僕の手は、彼女の頬に触れていた。


 ーー頭の中に、大量の情報が流れ込んでくる。


 これはきっと、彼女の死に際の記憶だろう。何一つ確かなことなど無いのに、不思議と僕には確信があった。それは巨大な化け物から、僕の命を守ってくれた少女の記憶だった。首は胴体から離れているというのに、彼女の心の中は驚くべき程に平穏だった。きっとこの子は僕が生きていたことに安堵したのだろう。自分の命が消えるその瞬間に。


 視界は暗転し、再び意識は部屋の中へと戻る。


 これだけの記憶を前にしても、僕は以前の僕を思い出せないのか……。


「まったく、君って人間は薄情だね?」


 何もないはずの空間から声が聞こえた。


「誰だ!?」


 この部屋には僕だけしか居ないはず……。


「これは、傑作だよ。君は自分が誰かも理解しないで、私を誰だと問うのかい?」


 部屋中を見渡すが、やはり、人影一つ見当たらない。


「ここだよ、ここ」


 黒い蝶が僕の目の前を舞う。


「一体、なんなんだ……」


 理解の範疇を超えた出来事が起きているのだけは理解出来る。


「あぁ、全ての答えは知恵の塔にある。私はそこで君を待つ。この首の少女を救いたければ来るといい。それに、君は気づいているのだろう? 本当に必要とされているのは、今の君なのか、以前の君なのかを」


 曖昧な情報が、明瞭な声音で伝わってくる。


 それでも僕が黙っていると、再び向こうが語りだす。


「次の満月の夜に、宮殿前の草原へ迎えの者を行かせるから、それまでに決めるんだ。いいね?」


 その言葉を最後に、黒い蝶は闇へと消えた。


 部屋に残されたのは、蝋燭の火に照らされた、少女の首と僕だけだった……。


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