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世界で唯一のフィロソファー  作者: 新月 望


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第百十一話『裏切り』

 あちらの世界で意識を奪われた僕は、わけもわからぬまま、こちらの世界で目を覚ました。


 すぐさまイデアに戻る為、古びたアパートの一室の使い古された布団の上で、ただひたすらに目をつむっていたが、どうにも寝れず、結局は普段通りの行動をなぞるようにして、僕は大学にまで足を運んでいた。


 講義の内容などは当然頭に入らず、焦燥感と得体の知れない不安感だけが頭の中を埋め尽くす。


 そして僕は考える。


 裏切りとは何だろう? 


 想像や期待とは違った行為をすることか?


 ならば一体、僕は何を期待していたのだろうか?


 裏切りとは何だろう?


 約束や同盟を無視して敵に寝返ることか?


 ならば一体、敵とは誰のことを指す?


 裏切りとは何だろう?


 不信、不実、不義、背信、謀反、謀叛、逆心、乱逆、反逆、叛逆、返忠、内応、異心。


 世の中には数え切れない程の裏切りが溢れている。裏切りに纏わる単語を思い浮かべるだけで、僕の頭の中は飽和状態になる。


 彼は一体、何を考え、何の為に、あんな行為に手を染めたのか?


 考えられる最悪なケースは、ノイラート王国の意向によるルサリィ王女の殺害だ……。その場合は、バールさんが国を裏切ったのではなく、ノイラートがヴェルメリオとの同盟を裏切ったことになる。国と国とが対立し、間違いなく戦争が始まる。そうなれば、アンス王女とリザの関係はもう……。


 自らの思考の沼に引きずり込まれ、周りの音が遠ざかっていく。すると突然、僕の意識へと横入りする声が。

 

「……先輩、ねぇ、先輩? 聞いてます?」


「ん、あぁ、うん」


「どうしたんですか? まるで、旧知の友に裏切られたような顔をして」


 心の底を覗くような注意深い視線を放ち、一つ歳下の後輩である、逢沢凛が問いかけてくる。


「いや、どんな顔だよ……」


 不自然なまでに核心を突き過ぎた例えに、少なくない動揺を受けながらも、僕はなんとか軽口を叩く。


 二コマ分の講義を聞き流した僕は現在、食堂を訪れていた。そこで、凛と鉢合わせたのだ。


「先輩の顔があまりにも悲愴的だったもので、さながら、ブルータスに裏切られた、カエサルのようですよ?」


 サラダの中央にあるミニトマトをフォークで突き刺しながら、ニコニコ笑顔で凛が言った。


「まるで、見てきたような言い分だね?」


 紀元前を生きた彼の死を確認する術などないと言うのに。


「私が見てきたのは、カエサルではないですよ?」


 トマトの酸味に顔をしかめながら、試すように、茶化すように言葉を選ぶ凛。


「まぁ、カエサルでも、キリストでも、劉備でも良いわけだからね」


 誰であろうと同じなのだ。裏切りは常に傷を残す。


「そうですよ、信頼していた人物に裏切られた時の顔なんて、みんな一色だけです。一緒くたにしちゃいましょう!」


 無邪気な邪気とでも言えば良いのか、凛の笑顔にはそれが伴っていた。


 ブルータスに裏切られたカエサルも、ユダに裏切られたキリストも、呂布に裏切られた劉備も、皆一様に絶望の色を見せたのだろうか……。


 歴史に名を刻む者達でさえ傷を負うのだ。僕が打ちひしがれるのは当然の帰結と言える。


「そう言う凛は、いや、何でもない……」


 歳下の女の子に、人に裏切られた経験があるかどうかを問うなど、明らかに間違っている。


「私はないですよ、信頼出来る人なんて、いませんでしたし。だから、ひょっとすると、私のはじめては先輩が貰ってくれるかも知れないですね?」


 相変わらずの笑顔で語る凛。


「なるほど、光栄だね。信頼の証として受け取っておくよ」


 底の見えない笑顔を直視出来ず、軽口で逃げ出す僕。


「あっ、理沙さんだ!」


 凛のその声につられ、後ろを振り返るとそこには、プラスチックのお盆に日替わりランチを載せた理沙の姿が。


「あら、二人でランチ? 私もいいかしら?」


 凛に笑顔を向け、僕を睨め付けた理沙が問いかけてくる。


「はい、もちろんです! ちょうどいま、先輩が私のはじめてを貰ってくれるかも知れないって話をしていたんです!」


「ふーん、楽しそうな話ね?」


「理沙、フォークを置いてくれ。それは目の前のパスタを巻くもので、振りかざすものじゃない。凛、誤解を招く発言は辞めてくれ」


「先輩、光栄だって言ってくれたじゃないですか、あれは嘘だったんですか……」


 急に深刻なトーンで語り始めた凛。

 周りの席に座っている他人からの視線が痛い……。


 僕は、今まさに裏切りにあっていた……。



 * * *


 あれからなんとか誤解を解いた僕は、講義を一つ受け、珍しく寄り道もせずに、一人暮らしのアパートの前まで帰ってきていた。目的場所が同じ凛も、当然とばかりに一緒に帰ってきていた。


「では先輩、お気をつけて」


 そう言って、103号室の扉を開け部屋の中へと消えていく凛。


「ここまで来て、何に気をつけろって言うんだよ……」


 呟くような僕の言葉は、誰に宛てたものでもなく、曇り空の下へと消えていく。


 アパートの軋む階段を上って、自室の扉を開く。そのまま真っ直ぐに浴室へと入り、シャワーを浴びる。シャワーヘッドから流れるお湯は、僕の不安までは流してくれないようだ。事務的に髪と身体を洗い、水気と不安を残したまま、布団へと横たわる。


 普通の人ならば、睡眠と言う行為を逃避に使えたのかも知れない。けれど僕にはそれが出来ない。目を閉じれば、もう一つの現実が始まるだけだ。


 そんな逃げ場のない状況を理解しながらも、僕はそっと目蓋を閉じる。


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