第37話 “約束”
今の俺の言葉は相当響いたのか、興奮状態であった相澤さんの熱は、一気に冷めていた。
「……ごめんなさい。完全に私の都合だったね。源田光に……失礼なことをするところだった」
「いえ……構いません。きっと見た目は同じなのでしょうから。錯覚も無理はない」
しばしの沈黙が流れた。
あれだけ騒ぐ相澤さんを見ていただけに、あまりにも差が激しい。
先程までの「この世界に留まる」と、意地を張っていた相澤さんの姿は、もうどこにもなかった。
「相澤さん。現実世界で俺……いや、源田が亡くなって、どれくらいが経ちましたか?」
「えっと……現実では十二月だから……二ヶ月くらいかな」
「まだそれだけしか経ってない。いずれ時間が解決してくれるはずです。俺としたら、相澤さんには別の人と付き合って、幸せになって欲しい。図々しいかもしれませんが、それが俺の願いです」
俺の切実な願いも、相澤さんは小さく頷きながら、真摯に受け止めてくれている。
「……他の人と恋愛か……今は考えられないかな」
「きっと見つかりますよ。相澤さん、素敵な人だから」
「そうかな……“前の好きな人”が魅力的だから……そのハードルを越えるのは中々難しいかも」
「ははっ……なんだろ、これ……ノロケ?」
「うん、そうかも」
雨降って地固まるとは、このことを言うのだろうか。
不思議な空気感だ。いつの間にか、自然体で相澤さんとは話せるようになっている。
俺はソファーの隣に座る、相澤さんの手をそっと握った。
その俺の行動を見て、相澤さんは微笑む。
「普通に手、握れるようになったね、私達」
「えぇ……今更ですけど」
あれだけカッコつけたことを言ったばかりなのに……こうして一緒にいると、相澤さんが恋しくなってくる。
俺の心の中は揺れていた。
相澤さんには元の世界に帰ってもらいたい……もちろん、それは俺の中にある、一番の望みだ。
でも、相澤さんが俺と離れたくないように、俺だって離れたくない。気持ちは同じなんだ。
出来ることなら俺だって一緒にいたい……そう俺のエゴを貫き通せれば、どんなに楽だったことか。
「っつ……」
「どうしました? 相澤さん!?」
「今、少し頭痛がして……けど大丈夫。すぐ治まったから」
奇跡ってのは、長くは続かないものなのかもしれない。
神様は再び俺らを引き裂こうとしている。
近いんだ……タイムリミットが……
相澤さんと別れなければならないときが迫っている……
「──相澤さん」
「何? 改まって」
「ひとつ、約束して欲しいんです」
「約束って……?」
「元の世界に戻っても……絶対に、この話の続きは書かないでください」
「えっ!? どうして!?」
「いつまでも俺に縛られて欲しくないからです。相澤さんは次のステップに進んで欲しい」
「そんなの私の勝手でしょ! 何で……? いいじゃない!! 第一、この世界から私がどうやって帰るかも──」
「いえ、迫っています。相澤さんが元の世界に帰るときが」
「──!!」
「だから……もう俺とは……作田とは、ここでお別れです」
相澤さんは自分がどうやって、この世界に入ってきたのかを知らない。
外の世界の相澤さんが乗り移ったとき、彼女は頭を抱えていた。
今の相澤さんの状況と似ている……きっとこの頭痛は、そのサインなんだ。
まさか相澤さんもこんなに早く、別れのときが訪れるとは思っていなかったのだろう。
「嫌だよ……寂しいよ……そんなの悲しいよ! こんなお別れの仕方、絶対嫌だよ!!」
また相澤さんの目に、涙が溢れてきている。
もう泣かせるもんか! 最後くらい、男を見せなきゃ!
「──大丈夫。悲しい別れには俺がさせない」
「えっ? どうやって……」
「覚えてますか? 映画デートのときのこと。言いましたよね? 俺、バッドエンドは嫌いだって」
「うん……物語の最後は、ハッピーエンドで終わるべき……そう言ってた」
「だから、この物語も笑顔で終わらせようと思うんです。なので……俺の最後のわがまままを、今から言ってもいいですか?」
「は、はい……」
俺は一度立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。二回ほど深呼吸をし、相澤さんの目を見つめた。
「──俺は、作田明は、相澤美幸が大好きです。だから、俺と付き合ってください!」
俺は目を瞑りながらお辞儀をし、右手を差し出した。
「何それ……お別れなのに……今から付き合うの?」
「はい! 正確には、今の相澤美幸さんというより、この世界の相澤美幸さんに対してです! 紛らわしくて、ごめんなさい」
俺の耳には、相澤さんがソファーから立ち上がる音が聞こえた。
「小説の世界の私にね……そういうことなら──」
微かに相澤さんが笑う声まで聞こえた気がする。そして……
「喜んで。私からも、お願いします」
相澤さんは俺の手を取って、握手を交わした。
「やったーー!! ありがとう! おかげで人生初の告白、成功しました!」
「変なの! こんな告白、どのカップルにもない……うっ……」
満面の笑みを見せていた相澤さんは、突如バランスを崩した。
俺は相澤さんが倒れぬよう、自らの体を使って支え、そのまま抱き締めた。
「大丈夫ですか!?」
「うん……平気。でも、本当にお別れのときが近いんだね……戻るんだ、私は元の世界に……」
「──俺は幸せ者です! 二度も素敵な体験を味わうことができたんだから!」
「そうかもね! 現実と小説の世界……二回も私とデートしたのだから。ずるいよ! 作田さんだけ」
「はい、これは俺だけの特権ですから」
「じゃあ……一回しか味わえないこと……しよっか」
「──えっ?」
完全に俺は不意をつかれていた。
目を開けたまま、相澤さんの顔を間近で見ながら……
俺は人生で初のキスをした。
「えっ……えーーっ!!?? 目瞑るの忘れちゃった!?」
「いいんじゃない? きっと一生忘れない思い出になるよ」
「だ、だめですよ! そこまでしろなんて言ってないのに! 相澤さんには、この世界の相澤さんのフリをしてもらえれば……それだけでよかったのに……」
「いいの! 私が許可します! だって、きっと私なら、こうすると思ったから」
「そう……ですか、それなら……はい」
そう言われたら、俺も言い返せない。
相澤さんから貰った、最高のプレゼントだ。素直に受け取っておこう。
「ねぇ、それより作田さん。何か口に付けてた? 唇に触れたとき、何か付いてた気が……」
「えぇ、これです」
そう言って、俺はズボンのポケットからリップクリームを取り出した。
「リップ? しかも、結構甘い匂いする」
「なにせ、俺のファーストキスですからね。“ファーストキスはイチゴ味”って言うじゃないですか! だから、リップはイチゴの香りです!」
「なにそれー。用意周到すぎー!」
「ほら、元々は家デートも兼ねてましたから。もし相澤さんが犯人じゃなかったら、純粋にデートを楽しんでやろうと思って! こうして髭も綺麗に剃ったし、新品のリップも事前に買っておいたんですよ!」
「それにしてもさー、いくらなんでも……うっ……」
「──相澤さん!!」
どんどんタイムリミットは迫ってきている。
ついには相澤さんは立てなくなり、その場にしゃがみ込んだ。
眉間にシワを寄せ、とても辛そうな顔をしている。
「はぁ……はぁ……さすがに苦しくなってきちゃった……」
「あまり無理をしないでください」
「ううん……少しでも、一緒の時間を過ごしたいから……カップルの時間を少しでも長く」
「相澤さん……」
俺らは床に座り込み、抱き合った。
俺の耳に、相澤さんの息づかいが聞こえる。相澤さんの呼吸は激しく乱れている。
「俺は本当に本当に幸せ者だ! ここで消えることで……俺の想いは、永遠になる!!」
「これがなくても……きっと、永遠だったよね……?」
「もちろん!! 俺は相澤美幸を愛していますから!!」
「私も……あなたを……いえ、作田明を愛してる……」
相澤さんの目から涙が流れているのが見えた。それを見た俺は、更に強く抱き締めた。
「だめです……今、泣いたら! ラストはハッピーエンドって、決めたんですから!」
「そう……ね……でも、作田さんも……泣いてるよ?」
「いいんです。これは。だって、この涙は……嬉し涙ですから」
ーーー
気が付くと、私は自分の部屋の床で寝ていた。
部屋の壁にかけてある、カレンダーに目をやる。日付は十二月を指している。
「……戻ったの? 現実に……」
私は部屋の周りを見渡した。いるはずもない、“彼”を探していた。
パソコンの画面が明るくなっている。画面には、私が書いた小説が開かれていた。
最後の行には『いいんです。これは。だって、この涙は……嬉し涙ですから』
こう書かれている。これは、彼が最後に残した言葉だ。
「もしかして……全部、夢? 私の妄想?」
本当に私は、小説の中の世界に入っていたのだろうか……?
改めて考えてみると、そんなことありえるはずがない。
私はいつものように小説を書いたあとに、その場で寝てしまった……
もしかして、たったそれだけの話だったのでは……?
段々私は、自信が持てなくなっていた。
「やだ……泣きそう……」
私は悲しかった。彼と会えなくなったことではなく……
あれも、あの思い出も、全部が妄想だったと思うと、それが悲しくて、切なくて。
涙を拭おうと、私は顔に手を当てた。そのとき、私の手の指が、唇に触れる。
「──これって……」
何かに触れた感触がある。
私は自分の指の匂いを嗅いだ。
「甘い……イチゴの匂いだ」
本当だったんだ。全部、本当の出来事だったんだ。
・・・
私は小説の中にいた。
短い時間ではあったが、彼との幸せなときを過ごすことができた。
私は彼の想いを、願いを尊重したいと思う。
だから私は彼の言う通り、これ以降、あの小説の続きを書くのはやめようと思う。
彼と交わした、最後の約束……絶対守らなきゃ!
そして、私は守った。どんなに辛くても、どんなに寂しくなっても。
私は二度と──小説を書くことはなかった。
※次回、最終話です。




