第116話 いい男は女の過去に拘らない
ユーリの漏らした溜息に、クロエは初めてユーリを認識したのだろう。
「誰がポンコt――き、貴様は……ユーリ・ナルカミ!」
ユーリの顔を見たクロエは、先程エレナに向けた以上の驚きで「何故ここにいる!」と声を大にしていた。
目を白黒させ、それでもユーリから僅かに距離を取るクロエに、「お前さっきからそればっかじゃねぇか」とユーリが溜息をついて「壊れたレコードかよ」と眉を寄せている。
「う、うるさい! まさかこんな所でお前に会うとは思ってなかったから仕方ないだろう」
クロエが顔を赤らめ口を尖らせた。恐らくユーリの言う通り先程から「何故ここにいる」しか言っていない自分の語彙力の少なさを恥じているのだろう。今もゴニョゴニョと「だ、誰だって不意をつかれたら、そう言うだろう」と呟いているのだ。
「こんな所で会うも何も……そりゃこっちの台詞がすぎんだろ。お前こそこんな所でなにやってんだよ?」
眉を寄せて腕を組むユーリの前で、「何故貴様に言わねばならん」と少しだけ平静を取り戻したクロエが「フン」と鼻を鳴らして笑ってみせた。
尊大な態度のクロエに「ケッ」とユーリが面白く無さそうに笑ったのは一瞬――その顔を悪い笑顔に変えたユーリが
「ああ。あれか。ポンコツすぎて放逐されたのか」
ウンウン頷き「まあ無理もねぇな」とケラケラ笑えばクロエの顔面が再び紅潮。
「馬鹿か! 貴様は馬鹿か! 任務だ任務! お前らハンターの――」
そこまで言いかけて慌てて口を閉じたクロエだがもう遅い。
「ハンターの……何だ?」
ユーリの見せる人を小馬鹿にするような笑顔には「そういう所がポンコツだぞ」と書いてあるかのようだ。
顔を赤くして口を噤むクロエを前に、「さっさと吐けよ。吐いて楽になっちまえって」と悪い顔のユーリがクロエの肩をポンポンと叩く。
「だ、誰が貴様などに……」
「おやおやぁ? じゃあ【軍】に問い合わせてみるかなー。『お宅の少佐が、秘密任務だ何だと言って絡んできます。助けて下さい』って」
顔を赤らめ口を噤むクロエに、「ケケケケ」と悪い声で笑うユーリ。完全にユーリのペースに防戦一方のクロエだが……
「ユーリ、その辺にしておいてやれ」
それに助け舟を出したのは、ユーリの背後で呆れ顔を浮かべているエレナだった。
「クロエはポンコツではなく、君のような失礼な男に耐性がないだけだ」
笑ったエレナがユーリの肩に手を置いて「私も始めはそうだったからな」と出会った当初を思い出すように苦笑いを浮かべている。
実際エレナの言う事は一理ある。クロエがポンコツ……と言うより、ユーリのような人間に耐性がなさ過ぎる部分は非常に大きい。上層ではユーリのように人の揚げ足を取ったり、しょうもない煽りを入れる人間が極端に少ない……と言うか殆ど居ない。
そんな環境かつ、クロエは【軍】における少佐という立場だ。
年齢は分からないが、見た目から判断するとユーリやエレナと変わらないだろう。その年齢で少佐という事は、確実にエリート中のエリートだ。人におちょくられた事など皆無に等しい事は想像に難くない。
そんなお上品な生活しかしらない女性では、人間の駄目な部分を集めたようなユーリの煽りに耐えられる訳がないのだ。
煽られ慣れていない。ある意味純真無垢な女性がクロエ・ヴァンタールという軍人の正体なのかもしれない。
とは言えそんなクロエの生態など知ったことはないユーリ。失礼な男、と称されたのが不満なのだろう顔を顰めエレナを睨むが、彼女はそんな視線を無視してユーリを押しのけるようにクロエの前に立った。
系統は違うが向かい会う美人というのは絵になる。
エレナはクロエに小さく笑いかけ、目の前で羞恥に顔を赤らめる彼女へ右の拳を向けた。
「……久しいな。息災だったか?」
少しだけ寂しそうに、だが懐かしむような笑顔のエレナを前に、先程までユーリに一方的にやられていたクロエの表情がスンと冷めたものに――差し出された拳を払い除け、エレナをキツく睨みつけた。
「……裏切り者が……いつまでも友人だと思わないことだ」
小さく、だが気持ちの籠もったその声に、エレナは寂しそうな顔で払われた右拳をゆっくりと擦るだけだ。
「おい、アイツのほうが十分失礼――」
「いいんだ。クロエの…彼女の言い分は尤もだから」
ユーリの声に首を振ったエレナが、寂しそうな笑顔でクロエを見た。
「今更いい子ちゃんぶる気か? 貴様のせいで隊長は死んだんだぞ」
クロエから発せられる憎悪と憤怒の感情。通りを歩く人々は、肌に感じる異様な気配に、三人から少し距離を取るように通り過ぎていく。
「……それは……今でもすまないと思っている」
下唇を噛むエレナに、「すまない? どの口が――」とクロエが声を荒げてエレナに掴みかかった。
ユーリはクロエという女性についてあまり情報がない。あるのは上層でのトラブルと、つい今しがたのやり取りしか経験くらいで良く知っているわけではない。それでも今も目の前で激昂するクロエの姿は、本来の彼女とはかけ離れていると感じずにはいられない。
そのくらい苛烈なのだ。それこそ今すぐにでもエレナを叩き斬ってしまいそうなほど。
対照的にエレナの方は、怒りをぶつけられるままに寂しそうな笑顔を浮かべるだけ。それがクロエの感情を逆撫でしているのだろう、今も「何とか言え」とクロエの語気が強まるだけなのだ。
今は夜……と言っても、まだ宵の口。未だ人通りが賑わう大通りで繰り広げられる、見た目だけは美人同士の掴み合い。いや正確には片方が掴みかかっているだけだが。兎に角ただでさえエレナもクロエも耳目を集める存在であるのに、それがこの状況だ。
今や通りの一角は、特設リングのような様相を呈し、全く関係ないのにユーリはその渦中のど真ん中でポツンと立っていた。
放って帰るにはギャラリーが多すぎるし、そもそもこの状況で「あとはお前らで頑張れ」などと淡白な事を言って帰れる程、ユーリという男は非情ではない。いや、正確には、今のユーリにはエレナに対して少なからず仲間という意識がある。
仲間を置いて一人逃げる……と言うのは道理に反する。
とはいえ、正直二人の問題に口を挟むのはどうかと思う。口を出すのは憚られるのであれば――
「お前ら、天下の大通りで喧嘩すんなよ」
ユーリが発した声に、「外野は黙ってろ」とクロエが即座に反応を見せた。そしてその分かりやすい反応は、ユーリの望んでいた通りのもの。
「おい、警告はしたぞ。これ以上治安を乱すなら……強制連行も辞さないが?」
悪い顔をしたユーリが、門から取り出したのは衛士隊の時に使用していた身分証明書だ。本来ならばきちんと返却して、相応の手続きを経て破棄されるべきそれを、ユーリはゲオルグ退任のドサクサに紛れて返却していなかったのだ。……何かに使えると思って。
完全に犯罪者の心理であるが、まさかこんな所で出番が来るとは、ユーリもそして身分証明書も予想すらしなかっただろう。
ユーリが見せた衛士隊の身分証に、「君というやつは……」とエレナが呆れ顔を浮かべ、クロエは「貴様、ハンターじゃないのか?」と一瞬だけたじろいだものの、顔を顰めてユーリを睨みつけた。
「衛士が何だと言うのだ? たかが衛士風情が私を逮捕出来ると?」
「バカか。街の治安を乱すなら、それ即ち確保対象だ。例えそれが王様だとしてもな」
指をポキポキ鳴らすユーリが、「秘密任務の途中に衛士にとっ捕まる……ポンコツ騎士らしくなってきたじゃねぇか」と悪い笑顔でクロエを見ている。
苦虫を噛み潰したようなクロエと勝ち誇ったようなユーリの顔。そして申し訳無さそうな顔でクロエとユーリを見比べるエレナ。
「どうすんだ? こんだけ野次馬がいる中で、衛士相手に暴れてみるか?」
ユーリのダメ押しで、「クッ」と声を漏らしたクロエがエレナから手を放して大きく深呼吸――怒りに赤く染まっていた顔を再び冷静なものへと引き戻して口を開いた。
「今日のところは勘弁してやる」
エレナに向けられる殺気の籠もった瞳。
「それ、やられるやつの台詞だからな」
そんな瞳など我関せずのユーリ。
「き、貴様は黙ってろ!」
顔を赤くするクロエ。
「……」
無言でユーリの腹へ肘を入れるエレナ。
「おま、肘は駄目だろ……」
崩れ落ちるユーリ。
「貴様は何がしたいんだ! 本当に馬鹿なのか?!」
場を乱すユーリにクロエの顔が更に赤くなっていく――
完全に空気が変わってしまった現場に、野次馬たちも一人、また一人とその場をさり始める。
今もユーリに向けて「貴様というやつは」と口を尖らせるクロエに、エレナが一歩近づいた。
「クロエ……」
「寄るな!」
即座に反応して距離を取るクロエに「さっきは掴みかかってたのに『寄るな』とか情緒不安定かよ」とユーリが脇腹を抑えながらニヤリと笑うと、その頭部にエレナの拳骨が突き刺さった。
頭を擦って蹲るユーリを他所に、エレナはクロエにもう一歩近づく――
「……また、話せるだろうか?」
「無理だな。次に合った時が貴様の最期だ――」
それだけ言い残してクロエはエレナに背を向け歩き出した。数歩進んで振り返り、「貴様もだぞ! ユーリ・ナルカミ!」とユーリに向けて眉を吊り上げる。
そんなクロエの言葉など聞こえていない。とばかりに今も頭を擦るユーリに「フン」と大きく鼻を鳴らしたクロエが、今度こそ人混みに紛れて消えていった。
暫くクロエの消えていった背中を見つめていたエレナが力なく笑う。
「……ユーリ、すまなかった。助かったよ」
「『助かった』と思ってるならボコスカ殴るな」
ジト目で頭を擦るユーリが立ち上がり「……コブ出来てんじゃねぇかよ」と頭を擦り続ける。
「それは、まあ……君の発言は彼女には毒が過ぎるから」
とエレナが優しげに笑うと「そりゃそうですか」とユーリは面白く無さそうに鼻を鳴らした。
あれだけ恨まれていると言うのに、エレナの方はまだクロエを友人として見ている。思う所がない訳では無いが、それを口に出すほどユーリも野暮ではない。
漂う空気をユーリが大きな溜息で吹き飛ばした。
「さっさと帰るぞ。遅くなったらリリアにどやされんだよ」
歩き出すユーリの背中に「聞かないのか?」とエレナは思わず口にしてしまった。
その言葉に振り返ったユーリは呆れ顔だ。
「興味あると思うか?」
ユーリの言葉に力ない笑みを浮かべたエレナが「いや……」と自らが口走ってしまった馬鹿な発言を恥じるように俯いて首を振った。
「そういう事だ」
それだけ言ったユーリが再び歩きだ――す直前、再びエレナを振り返った。
「別にお前が昔何処で何をしてようが、俺は知らねぇし興味はねぇ。俺が仲間だと思ってんのは、今のお前だからな」
その発言にエレナが俯いていた顔を上げる。
「過去に色々あって今のお前がいる。なら、今のお前を受け入れてる俺は……いや俺達はお前の過去もひっくるめて受け入れてんだ。既に受け入れてる事になんて興味ねぇよ」
ユーリはそれだけ言うと、再びエレナに背を向けて歩き始めた。その背中に「その発言はズルいだろ」とエレナが力なく笑う。先程までユーリに「お前の過去は――」と聞いていた己の発言が恥ずかしくすら感じられるからだ。
情けなさを振り払ううように頭を振ったエレナが、ユーリの隣へと足を速めた――隣に並び歩きだすエレナをユーリはチラリと見やり、そして小さく笑って口を開いた。
「もし……」
「もし?」
言葉を区切ったユーリに、エレナが言葉を反芻して続きを促した。
「もしもお前が話したくなったら、聞くだけ聞いてやる。まあ、途中で寝るかもしんねぇけど」
ケラケラと笑うユーリに、「君というやつは」とエレナが頬を膨らませるが、堪らず吹き出した。
「だから、俺が話せる時までお前も待て」
不意に掛けられたユーリの言葉と真剣な表情に、エレナは面食らって「あ、ああ」とだけ頷いた。
それ以上は何も言わないユーリに、隣を歩くエレナが思わず「フフッ」と笑う。
「君は……存外いい男だな」
「何だ? 惚れちまったか?」
片眉を上げてドヤ顔を見せるユーリだが――
「いや、それはない」
とエレナは表情をスンと無に返した。
「なっんでだよ! 物語じゃこういう時は『そ、そんな訳ないじゃない!』って顔を赤くしてツンを発揮するんじゃねぇのかよ!」
口を尖らせるユーリに
「何だ? 君は私に惚れてほしかったのか?」
とエレナが今度はドヤ顔を向ける――が、
「いや、それは勘弁して下さい」
と今度はユーリがその顔をスンと無に返した。
「……どういう事だ? 私はこれでも中々に人気がある方だが?」
笑顔のエレナが蟀谷をヒク付かせる。
「いやだって、お前面倒そうじゃんそれに――」
「それに――?」
首を傾げるエレナに、ヒョウの事を言おうか迷ったが、それこそ野暮だとユーリは口を閉じた。
ヒョウが事ある毎にエレナの話題を口にする。
エレナはヒョウを前にすると、人が変わる。
など片方が不在の時に言うべきではないな、とユーリらしからぬ空気を読んだ行動だ。
恐らくヒョウは自分の能力が通用しない相手が気になる程度なのだろう。
エレナは別の意味で意識はしているのだろう。
今はその程度だが……その先がどう繋がるかはユーリにも分からない。
ならば、今ここでそれを口にするのは野暮だと「何でもねぇよ」とだけ言って足を速めた。
「おい、ユーリ。その切り方だと気になるだろ」
そんなユーリを追いかけるエレナ。楽しげに弾む二人の声が雑踏の中に消えていく――。




