88話
「……えっ?」
櫻木さんは言葉を失っていた。
その反応を見て初めて、自分の気持ちが言葉に出ていたと気がついた。
「あ、櫻木さん、これは……」
しかし、今度は俺が驚愕する番だった。
「な、なんで……」
「……え?」
櫻木さんの目元から大粒の滴が流れ落ちる。
彼女自身も自分が涙を流していることに気づいていないようだった。
「っっ! す、すみませんっ」
そのまま彼女は林の方へ駆け出していく。
「櫻木さんっ!」
俺は手を伸ばして、彼女を引き留めようとしたが、その手は彼女に届かなかった。
周りにいた人たちが何事かと注目する中、自分だけが取り残される。
……追いかけないと
自然とそう思えた。
もしかしたら、俺からの告白が迷惑だったのかもしれない。
嫌だったのかもしれない。
でも、そんなことではないと思った。
彼女は泣いていた。
迷惑だったなら、嫌だったなら、彼女は困ったように笑うはずだ。
あんな風に、悲しみで溢れた表情をつくるはずがない。
彼女に何かあったはずなのだ。
しかし、その何かについてはわからない。
それなら、彼女に直接聞くしかない。
追いかけて、掴まえて、彼女の気持ちを教えてもらうしかない。
そして、俺は櫻木さんの後を追うべく、林の方へ駆け出した。
走っている最中、林は暗いままだった。心踊るあの乾いた音も聞こえてこない。
どうやら、いつの間にか花火は終了してしまったらしい。
俺は転ばないよう足元に気をつけながら、でも全力で駆けていく。
やがて、俺は暗く冷たい林を抜けた。
そこは少し開けた場所だった。
見上げれば、もう花火はないけれど、代わりに無数の星々が迎えてくれる。
街の声も明かりも、この場所には届いてこない。
俺はじっと前を見つめる。視線の先に彼女がいた。
彼女は夜空を見上げていた。
「やっぱり、追ってきてくれたんですね……」
しかし、彼女は振り返らず、俺はその表情を窺うことはできない。
「……なんで逃げたの?」
そう問いかけながら、彼女に近づく。
今度は彼女も逃げ出そうとしなかった。
「……」
「迷惑だったという可能性もあるけど、櫻木さんのあのときの顔はそうじゃなかった。一体何があったの?」
彼女と残り二、三メートルという地点で足を止めた。
依然として、彼女はこちらに顔を見せようとしない。
「私、一年後には今の学園からいなくなってしまうんです」
「……え?」
ふと驚きの声がこぼれた。
「まだ誰にも言ってはいませんが、私は確実に、来年の今頃にはここから遠いところにいるはずです」
「……な、なら俺もその近くの大学を受験するよ。それなら、またすぐに会えるし。ほら、俺も来年は受験生だから。一年くらい……」
しかし、彼女は首を振った。
「……ダメなんです。その場所はとても遠くて、会いに行けるところではありません。それどころか、連絡をとることもできないと思います。そして、……私は二度とこちらには戻ってくることができないんです」
彼女の言葉を聞いて、体が固まった。
会いに行けない。連絡も取れない。さらには、こっちに戻ってこない。
――――つまり、彼女に二度と会うことはできない。
今の時代、飛行機があればどんなに遠いところにだって行けるし、インターネットがあれば離れていても連絡を取ることができる。
櫻木さんの言うその場所が到底あるようには思えない。
しかし、彼女は嘘を言っていないと確信してしまっている自分もいた。
「だから、逃げてしまったんです。私は桂くんとずっとはいられません。必ず、それも近いうちに別れが訪れてしまいます。もし今以上に仲良くなって、思い出を積み重ねてその日を迎えると思うと、耐えられなかったんです。辛かったんです」
言葉の端々に嗚咽が混じり、彼女はすでに涙声になっていた。
彼女の涙とともに、心のうちに押しとどめていた本音が際限なく溢れ出してくる。
そんな彼女の悲痛な叫びを聞いて、ようやく我に返った。
二度と会えなくなるから彼女を諦める――――
いや、いまさらそんなこと、できるはずがない。そんなことができるのなら、彼女をここまで追いかけてはいない。
彼女のことが好きという気持ちが強すぎたからこそ、自然と彼女を追いかける気持ちになったのだ。
だから俺は――――、
「花火の時のは思いがけず出た言葉だったから、きちんと気持ちを込めて言わせてもらうね」
悲しみに、絶望に押しつぶれてしまいそうな、そのか弱い背中に想いをぶつけることにした。
「……櫻木さんのことが好きだよ。だから、俺の恋人になって欲しい」
「……」
彼女からの言葉はない。
拳に力が入るのを感じながら、俺は言葉を続ける。
「櫻木さんは別れるのが辛いって言っていたけど、それなら俺がその辛さを上回るぐらい櫻木さんを楽しませるよ。別れないといけないことを忘れてしまうぐらい、一緒に遊んで、一緒に話して、一緒に笑う」
この場所では俺の声だけが響いていた。
「俺だって櫻木さんといずれ別れないといけなくなるのは辛いし、耐えられない。その日がきたら、まず間違いなく泣いてしまうと思う。でもだからといって、この時間、この気持ちをなくそうとは思えない。櫻木さんのことを諦めるなんてできない」
「……」
さあ、これが最後の言葉だ。
俺は一度瞼を下ろして、心を落ち着かせる。
そして、覚悟を決め、最愛の人をまっすぐと捉えると、
「だからもう一度、言います。……好きです、付き合ってください」
彼女に自分の気持ちが伝わるように、決して誤解をまねかないように、はっきりと口にする。
「……」
「……」
沈黙がその場を支配する。
唯一自分の耳に聞こえてくるのは、いつもと比べて早く、大きく脈打つ心臓の音だけ。
一秒が何倍にも引き延ばされ、この時間が永遠のように感じられる。
しばらくして、ようやく櫻木さんはこちらに振り返った。その顔からは笑みをこぼしており、目元にたまった涙をぬぐい取る。
「……桂くんはずるいですね。そんなこと言われたら嬉しくなっちゃうじゃないですか」
「ずるくてもいいよ、櫻木さんがそばにいてくれるなら」
櫻木さんは数歩こちらに歩いてきた。
手を伸ばせば届きそうなところで立ち止まる。
「またそういうことを言って……。桂くんは本当にずるいです」
「あはは……、で、返事は?」
じっと櫻木さんを見つめる。
彼女は「分かっていますよね?」といじらしく頬を膨らました。
しかし、どうしても彼女の口から聞きたかった。
俺は彼女に目で催促する。
すると、彼女はふっと息をついた後、
「……もちろん、私も大好きですよ、昂輝くん」
俺が最も聞きたかった言葉を口にしたのだった。




