86話
あれから二、三店舗の屋台を通り過ぎた地点で足を止める。
「ごめん櫻木さん、急に手を引くような真似をして」
言いながら、ゆっくりと手を離す。
「い、いえ、大丈夫です。それにしても、あそこのお兄さんはどうしてあんなことを言ってたんですか?」
「あ、えーっと、最初、櫻木さんの恋人だと勘違いされたときにうまく否定できなくて……」
目線を泳がせながら、気まずそうに頬をかく。
そんな俺の反応を見て、櫻木さんはくすっと口元に手をおいて笑う。
「なんだか、桂くんらしいです」
「うっ、ごめん……」
思わず顔を手で隠して、うなだれてしまう。
すると、櫻木さんは焦ったように両手をパタパタとさせた。
「えっと、謝る必要はないですよ」
俺は指の隙間から櫻木さんの顔をのぞく。
「あれ、怒っているとか呆れているとかじゃないの? ほら、恋人に間違われてしまったわけだし……」
「はい、怒っても呆れてもいません。年頃の男女が一緒にお祭りを回っているのですから、勘違いをしてしまうのは仕方のないことだと思いますし、それに、お相手が桂くんなら何も問題ありません」
そうして、櫻木さんははにかんだ表情を見せた。
ただ、俺は彼女の最後の言葉が頭から離れなかった。
「えーっと、相手が俺だったらいいの?」
「……あ」
どうやら彼女はついさっき自分が口にした発言内容を理解したようだ。
今度はぼふんっと音を立てるがごとく、一気にその表情を赤らめる。
「はわわわ、ち、ちち、違うんですよっ! た、ただ、私は桂くんなら嫌じゃないというか……、桂くんは赤の他人というわけではないですし、私のこともよく知ってくれていますし。べ、別に、特別な意味があるとかではなくて……」
「さ、櫻木さん、ひとまず落ち着いて……」
今までかつてないほどにあくせくしている櫻木さんをなだめようとする。
そのとき―――――、
ドクンッ
突然、強烈な胸の痛みを覚えた。
心臓を直接、力任せに握りしめられたような感覚。
それは収まることなく、加速度的に強くなっていく。
呼吸が止まり、周りの音が急に小さくなっていく。
目は見開いているのに、視覚からの情報を全くキャッチすることができない。
なんだこれ? とか、どうして急に? とかそんなことを考える余裕すらない。
意識が一気に遠のいていく。
……あ、倒れる
そうして、俺が完全に気を失いかけた瞬間、
「桂くんっっ!」
櫻木さんの声がした。
彼女は倒れそうになった俺の体を支える。
自分よりもはるかに重い体重が加わったことにより、彼女自身がバランスを崩しそうになるも、なんとか踏ん張っているようだった。
「桂くん、早くこれを飲んでください」
彼女が取り出したのは、紫色の液体が入った小瓶。
そして、彼女はその小さな瓶を俺の口まで運び、中の液体をそのまま流し込んだ。
「ッッ⁈」
ゴクリ、という音とともに、少しとろみがかった液体が喉を伝うのがわかる。
しかし、その液体が体内に入ると、不思議と先ほどまでの胸の痛みが、まるで波が引くように収まっていく。それに伴って、視界には色が戻り、周囲の喧騒も耳に入ってくるようになる。
「……大丈夫ですか?」
櫻木さんが不安げに俺の顔を覗いてくる。
「さ、櫻木さん……?」
自分の身に何が起こったのか分からず、その彼女の心配そうな表情を見つめてしまう。
「おい坊主、大丈夫か?」
「意識ある? 救急車を呼ぼうか?」
「一回横になるか?」
俺が呆けていると、俺たちの異変に気が付いた周囲の大人たちが声をかけてきた。
たちまち、人が集まってくる。
このままでは通行の妨げになってしまいそうだ。
まだ状況を掴めていなかったが、足に力を入れて、もたれていた櫻木さんから自身の体を離した。
「あ、えっと、少し気分が悪くなっただけで、もう大丈夫です。お騒がせしてしまいすみません」
自分を心配してくれた人たちに頭を下げる。
すると、周囲の大人はまだ不安そうな表情を浮かべていたが、俺の顔にすっかり血色が戻っていたからか、「無理はしないでね」などと言いながら、もとのように本殿へと歩き出した。
通常通り、人が行き交うようになると、俺は再び櫻木さんの方へと向き直った。
「突然ごめん。それと助けてくれてありがとう」
謝罪と感謝の言葉を口にする。
自分に一体何が起こったのかは分からなかったが、あの痛みは櫻木さんが飲ませてくれた液体によって収まった。
おそらく、自分が救われたのは彼女のおかげだ。
彼女はしばらく俺を見つめた後、
「どうやら元気になったようですね。安心しました」
そう言って、顔をほころばせる。
彼女の笑みに俺も自然と頬を緩めた。
「さっきのは、私がよく持ち歩いているお薬です。桂くん、急に体調が悪くなったようでしたので、このお薬を飲ませました」
彼女はもう一度、あの小瓶を見せてから、それをバッグにしまう。
「おそらくこれで、今後、さっきのような発作は起きないと思いますよ。このお薬、本当になんにでも効きますので」
「す、すごい薬だね……」
この薬への彼女の絶対的な信頼に苦笑する。
とはいえ、さっきの発作は尋常ではなかった。もしかしたら何かの病気かもしれない。
念のため、病院で検査をしてもらおうかな。
そんなことを考えていると、視界の端に地べたに落ちた綿菓子が見えた。
白の綿には土がまみれ、また、その周囲には蟻が群がっている。
目線を櫻木さんの手に移すと、彼女は綿菓子を持っていなかった。おそらく、俺を助けるときに落としたのだろう。
「せっかくの綿菓子がダメになっちゃったね。ごめん」
俺の謝罪に対し、彼女は静かに首を振る。
「気にしなくていいですよ。綿菓子はまた買えますから」
しかし、綿菓子は櫻木さんが楽しみにしていたものであっただけに申し訳なかった。
なにか、彼女にしてあげられないだろうか。
そんな俺の考えを彼女は察したのだろう。
「では、もう一度買ってもらってもいいですか? それでさっきの綿菓子はチャラってことで」
彼女は人差し指を口元におきながら、ウインクをする。
やっぱり彼女には敵わないらしい。俺はその彼女の仕草に肩をすくめる。
「うん、もちろん。それに他にも欲しいものがあったら言ってよ。さっき助けてくれたお礼と綿菓子のお詫びも込めて」
「はい、ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えますね」
そうして、俺たちは再びお祭りの屋台を巡りだしたのだった。




