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満月日和  作者: 海月 星
第2章 直立不動の真実
36/38

いつかの日常

更新遅くて申し訳ないです…安定した更新を目指します…

 水中、というのは音が響きにくい。

 空気もないわけだから何かを食べても味はしない。目を開けてもぼやけるばかりで光の強弱を判別するのでやっとだ。

 ふわりふわりと宙に浮く感覚。空気宙では味わえないゆったりとした空間。

 沈み続ける深さと、どれだけ下へ進もうとも光を通す透明度がそこには存在した。


 するとどうだろう。

 徐々に陸地にいるような重力を感じる。先ほどまで感じなかった地面の感覚が足の裏に伝わった。

 鼻腔を掠める草木の匂いに、ルイはゆっくり瞼を開ける。

 眩しいくらいに照り返す太陽。暑さを拭うように風が背中を駆け抜けた。背の高い木々が太陽の日差しを隠す。

 先ほどまでの水中にいるような感覚がまるで嘘かのような森の中。ルイはこの不可思議な現象に疑問を持ち、一歩前へ踏み出した。

 否、踏み出したかった。

 けれども体は反応せず、試しに声を出してみてもそれは同様だった。

 本来なら焦るなり怖がるなりの反応をするものだが不思議とその気は起こらなかった。どこか映画じみた、それでいて鮮明な感覚を追体験しているようだった。

 いつもとは高さの違う視線の先──生い茂る草木が微かに揺れると、


「はぁぁあああぁぁぁ!!」

「──」


 見知らぬ巨体の誰かが酷く憎しみの篭った瞳を向けて吶喊して来たのだ。

 普段なら叫ぶか逃げるかの二択であるが、どうしてか自分は動かない。焦り出す反面、どこか呆れのようなものまで感じていた。

 男の持つ斧が自身に振り下ろされる。

 しかし、一瞬のうちに斧は砕け散ると男の胸にポッカリと風穴が空いていた。

 自分がやった。否、自分の体が勝手に動き振り下げられた斧を砕いて男すらも貫いた。

 目にも留まらぬ速さの出来事は、驚く事に自らの視界に収めることが出来たのだった。

 男は瞳孔の開いた瞳をより一層見開くと、そのままゆっくりと前のめりに倒れていく。心臓部分を一突きされたのだ。人間であれば生きていられない。

 着々と広がり続ける鮮血。自身の右手には同じ色の液体がこびり付いて生暖かい。充満する血潮の匂いはどこか甘美だった。

 帰る体を失った血液が自身のつま先にくっ付く。そこで初めて自分は裸足なのだと気づいた。

 ふと、視線が血液へと下げられる。

 水面と化した血液が反射して映り込む自分の姿に、驚きと、そして失望の念が浮かび上がる。

 ──あぁ、自分はどうして「この体」なのか、と。

 ふわふわの長い髪。薄い色の布を体に巻きつけただけのような服装には返り血がいくつも付いており、裾は火に当てられたのか黒くなっている。誰もを魅了するような真紅の瞳。

 色は血液の所為でしっかりと判別できないが、派手な配色ではなく落ち着いたものであることはわかった。

 どこか見知った顔の自分を、少女を見ながらだんだんと頭が状況を理解していく。

 これは誰かの記憶、誰かの体験談。昔起こった事実であり、体の持ち主が感じたことを同じように感じられる。

 故に驚きの中に失望が感じられ、焦りの中に呆れが存在したのだ。自分と、そして誰かの感情がどちらも感じられるように。

 これが誰かの記憶であれば、目覚めはいつになるのだろうか。

 明日? 明後日? 一年後? 十年後? 百年後?

 考えている暇などない。自分は戦わなければならないのだ。──誰と?

 戦って、前に進まなければならないのだ。──どうやって?

 振り返ってはいけない、過去に囚われてはいけない。──どうして?

 置き去りにして来たもの、犠牲になったものに目を向けてはいけない。──なぜ?

 そうでないと苦しいから。辛いから。怖いから。見捨てたと、認めたくないから。──誰が?


 自分が。そう自分がそうしなきゃならない。やり遂げなければならない。絶対に。必ず。そう、決めた。──何を決めた? どう決めた? 誰が決めた? 何を決めた? 本当にそれは自分で? 自分の意思で? 自分の考えで? 自分は、自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は自分は──


 ──自分は一体何者だ?


 ーーーー


 目覚める以前の記憶が不可思議にも抜け落ちた状態でも、物語というものは進んでいく。

 驚くには驚いたが、なにぶん自分は今体の主人と感覚を共有している。自分が驚いたところで“彼女”が驚いていなければ感情は半減される。

 とは言え驚いたとしてもこの体に影響は及ぼさないのだろうが。

 水面に映った見知ったはずの“彼女”を思い出せぬまま、体の主人はどこかへ歩き出した。

 特に代わり映えのしない木々の中を確信しているかのようにずんずんと進む。嗅覚、聴覚、視覚全てが良好で、様々な情報が一気に脳へと伝達する。思うに五感全てが自分の感覚とはかけ離れているのかもしれない。

 軽い体を動かせば数分と経たずに開けた場所に出る。そこには一人の男が立っていた。

 銀色の長髪を下の方で結び、黒く東洋の民族衣装のようなものに身を包む細身の男性。背中には長い洋刀が携えており、太陽の光に照らされていた。

 草原に優しい風が吹き、男の髪が静かに揺れた。

 その男を見た瞬間、体の主人が急に体勢を低くして飛びかかる。

 気配を察知したのか振り向く男。真紅の瞳と視線が絡まり、驚いたように目を見開いた。

 瞬時に柄を掴むが、努力虚しく男は横腹に蹴りを入れられ吹き飛んだ。

 回し蹴りを入れた自分はというと、


「で、だ。弁解があるなら聞いてもいいが?」


 ほんの少し苛立ちを見せながら男に言い放った。しかし男は吹き飛ばされた状態から動けずにいる。

 自分は一つため息を吐くと、寝そべる男のそばまで歩み寄った。端正な顔立ちは、今や苦痛に歪められている。


「僕は言ったはずだ。人間には近づくなって」

「言われたけんど、守るとは言っとらん!」

「なら守ると言わせるまでだね」


 反発していた男の顔が一気に青ざめる。

 自分は楽しそうに口角を上げているようで、その笑みが悪魔のようなのだろう。そうそうに約束を守ると言った方が身の為だ。


「まっ、ちょ、だ、だってぇ!」


 体を起き上がらせてジリジリと後ろに下がる男の声は情けない。冷や汗を流しながら無理やり口角を上げている。

 自分は肩にかかった髪を後ろにどかした。


「だっても何もないだろう。君の弁解を聞くつもりはない」

「さっきと言ってる事ちゃうねん!」


 弁解を聞くと言っていた始めとは違い、聞く気はないと言う自分。男の反省のなさを見た結果だった。


「まぁいい」

「いやよくないんやけど」

「僕がいいと言ったらそれでいい」

「傲慢やな」

「今日は一段と首と体がおさらばしたいようだね」


 男の煽りに自分は足を一歩進める。

 その一歩に反応し重心を低くして警戒を高める男だが、その体は小刻みに震えている。殺意も敵意も表していないのにこの態度だ。体の主人はさぞかし悪魔のような性格なのだろう。

 一歩、そしてまた一歩と歩みを進める自分に男は遂に動きを見た。

 疾風と化した男が横を通り過ぎるのが見え、自分は──

 ──男の襟首つかんで地面に叩きつけた。


「い゛っっっっ!?」

「遅い上に単純だね。全くもってつまらない」


 うつ伏せに叩きつけた男の腰に「よいしょ」と腰を下ろす。自分自身が軽いのか、乗ることに対してさほど男は痛がっていない。叩きつけられた衝撃で肺が圧迫され、息ができていないようだった。

 自分は男の長い髪を弄りながら心底つまらなそうに呟いた。


「速さで僕に勝てないとわかっているならさっさと後ろ向いて逃げ出せばよかったのに」

「…後ろ向いた瞬間腑掴んできた奴が何言っとるん」

「あれは久々に気分が悪かったから仕方がない。それに元はと言えば君が全ての元凶だろう?」


 自分が何かを思い出すように晴天を見上げる。すると脳内より呼び起こされた記憶がぼやけながらも拝見することができた。

 それは男が何やら爆笑しているいるようで、自分の体はびしょ濡れだった。しかもなんだか変な匂いがする。それに体も動かし難い。

 鼻が曲がりそうな匂いとうまく動かない体に苛立ちを覚え、元凶であろう笑いながら背を向け逃げようとする男の腹を貫いたのだ。

 体の主人は『やって当然』と思っているようだが、やり過ぎだと思うのは自分だけではないと信じたい。

 男は悔しそうに草を握りしめると「ほんま嫌や…」や「ちくろう…絶対チクるんや…」と決意を固めていた。

 髪遊びに飽きた自分は男の腰から立ち上がると、未だ倒れている男を見下ろした。


「話は逸れたけど、もう一度言う」


 そこで一旦言葉を区切ると、自分は男に対して初めて敵意を見せた。


「──人間には近づくな」


 忠告、というより警告。それ以上何かをしでかすのなら容赦はしないという宣言。

 例え親しい関係だったとしても、敵であることには変わりない。

 家族、恋人、友人、親戚、隣人、近所。好きも嫌いも関係なく、その事柄に対して『敵』か『味方』か。

 身内だろうと『敵』なら容赦せず、己の正義を全うする。信じる正義に人との関係を割り切っていた。

 真っ直ぐで、純粋で。けれども冷酷で。

 体の主人はまるで一枚の白紙のように、単純で明確な不動の芯を持ち合わせる者だった。

 そんな彼女にはなれないなと、自分は密かに思った。

 男がゴロンと体制を変え仰向けになる。真っ赤な瞳は銀色の髪と相まって美しく際立っている。

 数秒か、数十秒か。男は晴れ渡る群青を見上げてると、


「駄目なんかな。ほんまに」


 それは意図して出た言葉ではなく、ぽろりと溢れてしまったような声だった。

 自分の敵意が消え、呆れに変わる。


「あの時僕が言ったこと、忘れたのかい?」


 その言葉に男は拗ねたようにそっぽを向く。

 自分はそのまま言葉を続けた。


「『一つ。人間の短命は汝の命までも引き摺り込む。一つ。人間の貪欲は魔獣の理解できぬ範疇である。一つ。人間もまた命有り。されど人に我らの命なし。例え相違なる人間に出会おうとも、それが全てと思うべからず』」

「…昔の常識を持ち込むんのは老人の悪い癖やで」

「そこまで老けてないさ」


 自分の言葉にますます不貞腐れる男。今度は体ごと横に向け自分からの視線に逃げた。

 自分は草原に腰を下ろし風に揺れる髪をそっと押さえる。草木以外に水の匂いや土の匂いまで運ばれてきた。

 群青に目を向けてそっと口を開く。


「人間が全て悪いと言っているわけじゃない。魔獣にもそれぞれ個性があるように、人間だって個性はある」


 語りかけるのではなく独り言のように。あくまで自分に対して言い聞かせるように。

 男は反応する事なく、この言葉も聞いているのかわからない。

 それでも、体の主は言葉を続けた。


「依存がいけないと言っているだけだ。人間の短命に嘆くのも、人間の欲に憤慨するのも、人間の個性を決めつけるのも、それらは全て停滞だ。逃げているのにそれすら自覚していない。実に馬鹿馬鹿しい」


 停滞は発展の反対。目の前の障害を理解し打ち破らなければ前に進めない。前に進まなければ何かを成す事は不可能。生きる理由がなくなったも同然だ。

 魔獣は寿命が長い。人間より遥かに長い。

 故に瞬きのように消えていく人間に自らの心も付いていくとその後長い年月を渡るには非常に生きづらい。

 茫然自失しながら生きるか、過去を割り切って前に進むか。魔獣の生き方など、二つに一つなのである。

 風が二人の間を通り抜けた。


「君のそれは停滞だ。それはとても迷惑極まりない」

「…結局あんたは自分の為なんやね」


 男が少し悲しそうに言葉を紡ぐ。

 自分は当たり前だというように肩をくすませる。


「なんのために僕が君にお節介を焼いていると思ってる。僕は最初から最後まで、“あの人”の目的の為に生きなければならない」


 言葉を紡ぐ自分に感情はない。

 寂しくも悲しくもなければ反対に嬉しくも楽しくもない。そこにあるのはただの無だった。

 しかし、次の言葉を紡ぐのに、体の中がずしりと重くなった気がした。

 腑が下に下がるように。軽かった体に重力がのしかかるように。失望や絶望とは違う、諦めや憂いとも違う。ただ、重い。

 しかしそれは一瞬で、瞬き一つで体の重さは感じられなくなった。

 そして自分はゆっくり口を開く。


「僕はそろそろ死ぬ。だから君が僕の代わりになれ。出会った時から言っているだろう?」

「……」


 不貞腐れるのか悲しく思っているのか、男は一向に反応を見せない。表情が見えないので、今男が何を思っているのか読み取ることができなかった。

 何も言わない男に、自分は言葉を続ける。

 言い聞かせるように。洗脳するように。

 背中を押すように、それでいて自分から逃さないように。

 自分は男の方へ視線を向け、静かに口を開くと──


「──前に進め、セツ」


 “セツ”

 その名前で全てを思い出す。

 思い出した瞬間、体が下へ引っ張られるような感覚に目眩がした。

 自我と自我が引き剥がされる感覚。しがみ付いて離さまいとしても不可視の力は容赦なく自我を盗もうとする。

 視界にノイズが走り、息苦しさに苛まれた。

 知りたい。もっと知りたい。二人の関係を。二人の目的を。二人の秘密を。

 何やら二人が話しているようだったが声すらも遠くなって聞こえない。

 ノイズの中、セツがこちらを向き頬を膨らませている。あざ笑うかのように口角を上げるセツナ。その後ろから白髪でガタイのいい和風の服を着た男が現れた。


「珍しいな。二人が喧嘩してないなんて」


 そんなニュアンスで言葉を発した男に反発する二人。セツとセツナは何やら言い争いを始めたようだった。

 黒く染められていくのは視界だけじゃない。

 音も、感覚も、思考すらも闇に塗り潰されて。


 ──黒い波に飲み込まれて、ルイの思考は停止した。

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