幸福は掴めない
右腕に乗っていた重圧が音もなく消え去る。右手に掴むのは血に染まる布切れだけ。風に揺れてはためいていた。
離れるリネアと、留まる自分。
ゆっくりと傾いていくリネアの体。景色が鈍足し、色が、音が消えてなくなる。
その鮮血が、その髪が、その瞳が、その真っ赤な色だけが己の存在を主張するように色を放っていた。
鈍足した景色に、
──いつもの笑顔を浮かべるリネアがいた。
鈍足していた時間は、リネアが水飛沫を上げるのと同時に日常へと戻っていく。
──「リネア!!」
叫んでも届かない。手を伸ばしてももう遅い。
過ぎ去った時間を巻き戻すことはできず、悲しみに暮れる時間すら与えられない。
もう一度叫ぶ。しかし、それは眩い光を放つ雷にかき消された。
荒れ狂う雨が鬱陶しい。
右腕に刺さる細い枝を力一杯折り曲げる。あっさりと折れた細い枝はユヅキに自由のみを授けた。
枝を肩から抜く。ひどい痺れたような痛みが脳を駆け巡るがそれどころではなかった。
それまでの時間は3秒にも満たなかっただろう。
しかしリネアの姿はもう遠くへ流されており、ちらつく暗赤色の髪が目印となって存在を知らせている。
不幸を呼んだ暗赤色の髪が、今は唯一の生命線だった。
騒音を轟かせ、鳴り止まない雨が視界を邪魔する。ユヅキは体を起こして飛び込もうとし──
──できなかった。
下を見てしまった。荒れ行く川を認識してしまった。
ユヅキの中に恐怖が再び叫びをあげる。
そもそも落ちた瞬間、死なないなんて確証がどこにある?
ない。どこにもない。
死なないなんて確証はどこにだってありもしない。
このまま自分は。もしかしたら自分は。
死──
──君はそういう人間だ。
どこからか、誰からか、声がする。
しかし驚く事はない。心は妙にその声に反応する事なく、ただ目の前に迫る死を認知していた。
──薄情で、利己主義で。それでいて何もできないただの伽藍。君の中には何一つないのさ。
時間が止まったかのようだ。否。止まっているのだ。
声だけが時間という概念を持っていて、自分と世界から時間を剥奪されたかのように。
景色は止まり、声だけが聞こえる。
男性にしては高く、女性にしては低い。透き通るような、中性的な声だった。
──「無謀、無力、無価値。君はいつだって誰かのために生きていけない」
うるさい、と叫びたい。お前には関係ないと喚きたい。
わかったような口を聞く“声”が憎たらしい。
思考の邪魔をする“声”が恨めしい。
その“声”の正体を暴いて殴り飛ばして縛り付けて、自らに降りかかる理不尽をその身にも与えてやりたい。苦しめてやりたい。
けれどそれは叶わなかった。この空間がそれを許さなかった。
否。空間の所為だけではない。
心のどこかで、その“声”の言う事は正解だと、体が、心臓が、四肢が、脳が、全てが肯定しているからだ。
弱かった。自分は何よりも弱かった。力がなかったのが理由じゃない。勇気がなかったのが問題じゃない。
自分は弱い、自分は臆病だ。だから、何もできない。何もできなくて当然だ。
弱いのだから守ってもらうのは当然。臆病だから逃げるのは当然。
そう決めつけて、そうやって周りに目を向けなくて、そうしてできた溝。自分の弱さを棚に上げ、言い訳しかしてこなかったツケがきた。
──「あぁ、君はどうしてそんなに愚かなんだろう。いつだって自分のために生きてきたのに、自分以外見ていなかったのに。他人を助けたいだなんて。なんて傲慢な!!」
嘲笑うかのように歌われた言葉は、何かが切れる音と共に消え去った。
流れる景色は変わらずの雨と雷。
詰まっていた息が、ようやく吐き出される。
止まっていた心臓が、お前は弱いと主張するように動き出す。止まっている事に恐怖を覚えていたのに、今はもう、その鼓動が鬱陶しかった。
うるさい。全てがうるさい。
伝わる拍動も、雨のさざめく音も。
邪魔だ。何もかも邪魔だ。
自分を制止する恐怖心も、考えるだけ考えて一向に動こうとしない自分も。
邪魔だ。こんなものいらない。欲しくない。
狂気に落ちる事が出来たのなら。自分のやりたい事をやりたいだけやりたい風に行えただろう。
たとえ人からは哀れだと思われようとも、自分の“やりたい事”を優先できるのなら、狂気に満ちるのも悪くないと思えた。
けれども自分の思考は狂気に落ちる以前に、狂気に恐怖を抱き、また、狂気に落ちる自分自身をも嫌悪した。
わがままな自分を、強欲な己を、何よりも恨めしかった。
力ある限り歯を食いしばれば、口内に鉄の味が広がった。
そしてもう一度その景色を見据える。
──視界が、悪い。
雨で、視界が悪い。雷で、周りが聞こえない。
ユヅキはただ、リネアだけを見た。
心の曇りは雨のせいにして。無力に意識がいかないのは鳴り響く雷のせいにして。
全てなにかのせいにして、
──ユヅキは偽物の狂気に身を沈めた。
「はぁあぁぁぁ──!」
雄叫びにも近い声を発しながらユヅキはリネアに向かって川へと飛び込む。
頭を守るように抱え、息を止めた。
数秒もかからない内に全身が冷たさに覆われ、ここが水の中だと理解するのに時間がかかった。
寒さと痛みが駆け巡る。
十数メートルある高さから飛び降りるのはこれが初めてだ。
痛みと苦しみ。それが同時に叩きつけられた。
腕が痛い。
息ができない。
前がわからない。
体が冷たい。
一つ一つの思いが込み上げ脳内で暴れまわる。何を優先すべきかわからず、何を行うべきか理解できず、ユヅキは荒れ狂う波に飲み込まれた。
「プハッ──ハッ──!」
やっとのことで酸素にたどり着こうとも、前も後ろも、右も左もわからない状態でなす術などない。
手足をばたつかせ、死にかけの魚のようにただ必死に空気を求めた。
何度も水を飲み込む。何度も底へ沈められる。
何度も。
何度も何度も。
波に身をまかせるしかできない。けれども目的だけは忘れない。
何度沈められようとも、何度崖に身をぶつけようとも、ユヅキはあの暗赤色へと手を伸ばす。
波の力とユヅキの足掻きにより、リネアはもう目と鼻の先だ。
生きているのか死んでいるのかわからない真っ青な肌が見え隠れする。何度も沈められたその体を抱き寄せて今度こそ離れないように掴もうと、ユヅキはその手を伸ばす。
あと少し。あと少しで届くのだ。
求めた明日を。望んだ未来を。
あと少しで───
───触れた。
何かに触れた。
水じゃない、石じゃない薄い何かに、しっかりと触れた。
それはチェーンのようなものにぶら下がっているようで、ユヅキは必死にそれを掴んだ。
握りしめた手を二度と離さぬように、ユヅキは腕を引き寄せようとした。
しかし──
弄ぶかのように唸る水流は、ユヅキの体を包み込む。
掴んでいたそれもユヅキに連れられ底へと沈む。
川底へ引っ張られていくような感覚は、ユヅキの歓喜を全て飲み込んでいった。
肺の限界はとうに超え、酸素の足りない脳は機能を停止する。
徐々に暗くなる視界。水底から見上げる空は美しくない。
苦しい、痛いが追いやられる。苦痛が、痛覚が、体のどこにもないみたいだ。
真っ暗闇に呑まれた思考。力なく緩んだ体。
消えゆく意識の中、最後の最後その手が触れた──




