33
エリーゼから夕焼け色の小鳥を受け取ったアイルは、すぐにその鳥を信頼できる人に預け、再びエリーゼを捜しに学園内を走り回った。
(今日は、やけに暑いな……)
走っているからそう感じるだけだろうか?
グラウンドから洗礼堂まで捜してみたが、エリーゼの姿は見つからなかった。となればあとは校舎か学生寮のどちらかだ。ここから近い校舎の方から捜してみよう。
「アイル!!」
校舎に入ったアイルは、そこでクララと遭遇する。
クララは何故か焦燥している様子だった。
「クララ? どうしてそんな焦って――」
「――燃えてる!!」
クララは叫んだ。
「学園が燃えてる!!」
風が吹き抜け、何かの焼け焦げる臭いがアイルの鼻孔に届いた。
窓から身体を乗り出し、熱を感じた方を見る。
学園の校舎が燃えていた。丁度、神学科の教室がある三階の辺りから火が漏れている。
「なんで……っ」
今日はいつもより日の入りが遅いなとは思っていた。しかし違った。既に日は沈んでいるが、校舎が燃えているから明るいままだと錯覚していたのだ。
一瞬、アイルは混乱する。
思考が真っ白になる中、大切なものを失って悲しんでいる少女の横顔が頭を過ぎった。
「エリーゼを見なかった!?」
「馬鹿! 今は他人の心配をしてる場合じゃないでしょ!!」
「――違う!!」
はっきり否定するアイルに、クララは目を見開いた。
「今だけは、エリーゼを見ていなくちゃ駄目なんだ!!」
燃え盛る校舎を目の当たりにして、アイルはそう断言した。
アイルの揺るぎない瞳を見て、クララはしばらく黙り込む。普段はどちらかと言えば頼りなさそうなアイルだが、クララだけは知っていた。この少年はやる時はやるのだと。それも、周囲の予想を大きく上回るほどの結果を出すと。
「なら、私も捜すわ」
アイルの決意を信じて、クララは協力を申し出た。
「僕はこのまま上に行く!! クララは学生寮を捜してほしい!!」
「分かった! 避難場所はグラウンドだから、見つけたらすぐに向かって!!」
クララからの強い信頼を受け取り、アイルは廊下を走った。
グラウンドへ向かう生徒たちの流れに逆らいながら、一つ一つ教室を見てエリーゼを捜す。元々、日も暮れているため校舎に残っていた生徒は少なかったのだろう。一階を全て捜した頃、校舎からはすっかり人気がなくなっていた。
二階に上がったアイルは、同じように教室を見て回る。
しかしエリーゼの姿が見当たらないため、更に三階へ上がった。
直後、強い熱を感じてアイルは後退る。
(明らかに火が強い……やっぱり、この辺りから発火したのかな)
廊下を走り、神学科の教室へと向かう。
教室に人の姿はなかった。しかしその光景は変わり果てていた。壁は焦げ、机と椅子が燃えている。目の前で居場所が焼失していく感覚に、アイルは胸を抉られた。それでも逃げ遅れた人がいるよりはずっとマシなはずだ。
教室から出ようとした時、何か固いものを踏みつける。
透明なガラスの欠片が落ちていた。
(ガラス? 窓は割れてないし…………もしかして、ランタンかな?)
ガラスの色と厚みに見覚えがあり、アイルは予想した。
日没後の学園は暗くて視界が悪いところも多いため、ランタンが貸出されている。このランタンが出火の原因かもしれない。
教室を出たアイルは違和感に気づいた。
よく見れば、ここから火が続いている。二階の教室はまだ燃えていなかったが、三階の神学科の教室から、階段方面までの全ての教室が燃えていた。
燃えている範囲に作為を感じる。恐らく誰かが火を放ったのだ。神学科の教室でランタンのガラスを割り、火を露出させ、階段方面へ向かいながら一つ一つ教室を回って火を点けた。
下の階に火はなかった。
なら、その誰かは屋上へ向かったに違いない。
肌を焼く熱さに耐えながら、アイルは屋上へ向かった。
敢えて屋上に向かった理由は何だろうか? 少しでも犯行の発覚を遅らせるためか。或いは――自分自身の逃げ場をなくしたかったのか。
犯人が誰だろうと、今ならまだ避難は間に合う。
アイルは階段を駆け上がり、屋上のドアを開いた。
「――――エリーゼ!!」
屋上に佇む少女を見て、アイルは叫んだ。
空を眺めていたエリーゼは、ゆらりと振り返る。生気を感じない瞳に射貫かれたアイルは、一瞬鼻白んだ。
エリーゼの手には割れたランタンが握られている。
肩で息をするアイルは、悲しそうな顔でエリーゼに声をかけた。
「エリーゼ……君が、火を……?」
「ええ」
悪びれる様子もなく、エリーゼは淡々と肯定した。
どうして? そんな疑問が過ぎるが、今は避難が先決だ。
「早くここから逃げよう。今ならまだ廊下を抜けられる」
「逃げなくても大丈夫よ」
エリーゼは笑う。
「だって、イシリス様が見ているもの」
安らかに微笑みながら、エリーゼは言った。
炎に囲まれているというのに、アイルは寒さを感じる。エリーゼの唇から紡がれた言葉には、凝縮された絶望が込められていた。
「そうでしょ、アイル? イシリス様はいるんでしょ? それなら私たちのことはイシリス様が助けてくれるわよ」
「エリーゼ…………」
アイルはエリーゼの目的を理解した。
エリーゼは、イシリス神の存在を証明しようとしたのだ。
今になって気づく。
これは――獄炎の日の再現だ。
陽が沈んで夜が訪れた頃、無慈悲な炎が学び舎を包む。逃げ惑う人々を横目に見ながら、敢えて炎の渦中に残る人がいる。
少女の両親は、偶々イシリス神が目を逸らした隙に死んでしまったけれど、そんな偶然は何度も起きない。だから次こそは――今回こそは、イシリス神が助けてくれるはずだとエリーゼは思っていた。
――だって貴方たちは言ったじゃない。
エリーゼの心の声が聞こえたような気がした。
――私には見えないけど、イシリス神はいるんでしょ?
エリーゼの泣き叫ぶ声が聞こえたような気がした。
「あは……あははっ! あはははははははははっ!!」
空を見上げながら、エリーゼは笑う。
エリーゼは虚ろな目で何かを見ていた。見えないはずなのに、そこにいる何かを確かに見つめていた。
「イシリス様!! ――――ああ、イシリス様!! どうか貴女の力でこの炎を消してください!!」
エリーゼは跪き、拳を掌で覆って祈った。
だがイシリス神からの返答はない。
風に吹かれ、炎がうねる。
階下の炎が屋上まで迫っているのが分かった。もう階段のところまで炎が来ているかもしれない。
それでもエリーゼは動かない。
イシリス神がいると信じているから。
「イシリス様ならこのくらい何とかしてくれますよね!? では、雨を降らしてください!! ああ、イシリス様!! 貴女が本当に私たちを見ているなら、そのくらいできますよね? 簡単ですよねッ!?」
エリーゼは祈った。
だがイシリス神からの返答はない。
アイルは思う。今、誰よりもイシリス神のことを信じているのは、エリーゼではないだろうか? この世界で誰よりもイシリス神を信仰しているのは、目の前にいる少女ではないだろうか?
エリーゼの祈りは美しかった。
非の打ち所がないと思えるほど、綺麗だった。
「ねえ!! イシリス様ぁ!! 降らせてよ、雨!! このままだと全部燃えちゃうわよ! ねえ!! ねえねえねえねえねえねえねえねえ――――ッ!」
エリーゼは祈った。
だがイシリス神からの返答はない。
返答は――――――ない。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
エリーゼの目から涙が零れ落ちる。
信心の崩壊。その光景を目の当たりにしたアイルは、思わず吐き気を催した。
人が心の寄る辺をなくした瞬間を見てしまった。
炎に包まれた学園なんて比ではない。これが地獄だ。これこそが本当の地獄だ。
「なにが…………イシリス教だ…………ッ!!」
エリーゼは拳を握り締める。
自らの祈りを、自らの手で破壊するかのように。
涙を流しながら、エリーゼは空を睨んだ。
「なにもできないくせにさぁ……ッ!! 見下ろしてんじゃねぇよ、クソ神がよォ――!!」
悲痛の叫びが、夜空に向かって放たれた。
だが、それでもイシリス神からの返答はない。
アイルには分かる。エリーゼは薄々こうなることを予期していたわけではない。きっと本気でイシリス神の存在を信じてみたのだ。最後に、命懸けで、イシリス神の存在に触れたいと思ったのだ。
ひょっとすると祈りが足りなかったのかもしれない。
ひょっとするとイシリス神にも人間に対する好き嫌いがあるのかもしれない。
だが、エリーゼは誰よりもイシリス神を信じていた。
信じたいと願っていた――――。
「君の」
アイルが言う。
振り返り、絶望に染まった目でこちらを見るエリーゼに、アイルは言う。
「君の願いを聞き届けるのは、神様じゃないのかもしれない」
アイルは続ける。
「仲のいい友人かもしれないし、名前も知らない赤の他人かもしれない」
「……何が言いたいの?」
震えた声で、エリーゼは訊いた。
これ以上、私を不愉快にさせないで。そんな意思を言葉の裏から感じたが、それでもアイルは発言をやめない。
「僕を信じてほしい」
絶望すエリーゼから、目を逸らすことなく告げる。
「僕は神様じゃない、ただのクラスメイトだけど……それでもエリーゼに手を差し伸べることができる」
アイルはエリーゼに近づいた。
へたり込むエリーゼに、アイルはそっと手を差し伸べた。
「だから今だけでいい。僕を信じてほしい」
深い闇に落ちてしまったエリーゼの心に、優しく語りかける。
「どうか、信じることをやめないでほしい」
きっと人という生き物は、何かを信じなければ生きていけない。
今のエリーゼには、何でもいいから信じられるものが必要だとアイルは思った。
それは誰だっていい。意思のない物でもいい。しかし今、この場にいるのはアイルだけだった。絶望に落ちたエリーゼへ手を差し伸べられるのは、世界中でアイルだけだった。
なら、僕だ。
僕がやるしかない。
「…………いいわよ」
エリーゼは頼りなく笑った。
「貴方のことは、あんまり好きじゃないけれど。それでも、貴方が人を裏切らないことだけは分かるから……」
アイルの差し出した手を、エリーゼはそっと握る。
「どうにかできるなら、やってみせてよ…………アイル」
手を引いて、エリーゼを立ち上がらせた。
既に炎は屋上の入り口に達していた。風が吹き、火の粉がアイルたちの周りでパチパチと音を鳴らす。
「任せて」
アイルは確かに告げる。
「エリーゼの祈りは――――確かに届いたよ」
その全身に、光の粒子を纏って。
◆
荒々しい風が、夜空を駆け抜ける。
唐突に、王都の街並みを照らしていた月明かりが消えた。雲に遮られたようだ。漆黒の夜空は、あっという間に雲の灰色によって染められていく。
程なくして、雨が降った。
雨はどんどん勢いを増していき、学び舎の炎を鎮める。
「これは……」
生徒たちの避難を指示していた司教ラウレは、空を仰ぎ見て驚愕した。
「雨……? 雲一つなかったのに、そんなはずが…………っ」
少し前まで、そこに雲はなかったはずだ。
燃え盛る学び舎を見て、豪雨を願わないはずがない。ラウレは何度も空を見て、雨雲がないことを確認している。
だからこそ、この光景は有り得ないものだといち早く気づいた。
「魔法……? しかし、天候を操る魔法など…………」
「奇跡です」
困惑するラウレに、声をかける者がいた。
「奇跡ですよ、ラウレ司教。貴女は知っているでしょう?」
枢機卿エメステリアは悠然と空を見つめながら尋ねる。
まるで危機は去ったのだと言わんばかりのその落ち着きに、ラウレの混乱も少しずつ収まった。
校舎の屋上には、見覚えのある少年の姿がある。
アイル=レイカー。つい先日、神学科に編入したばかりの少年だ。
「やはり、彼は……」
ラウレの呟きに、エメステリアは頷いた。
「かつて、この世界には奇跡があった」
雨に打たれながら、エメステリアは語り出す。
「奇跡は、神に選ばれし者にしか使えなかった。しかしある日、その力は信仰を持たない大衆の手に渡り、名を魔法と改めた」
それは人々が知っている一般的な歴史だった。
かつて教会のものだった奇跡は、民衆の手に渡り、魔法と呼ばれるようになった。その結果、イシリス教の信仰離れは始まったのだと。
「というのは――――無知な者たちが勝手に作った、偽りの歴史」
ラウレは緊張の面持ちでエメステリアの語りを聞いていた。
これは、司教以上の者には開示される情報。ラウレも一度しか聞いたことのない話だ。
「奇跡と魔法は全くの別物。神に選ばれし者にしか行使できないのが奇跡であり、その奇跡によって大衆に与えられた力こそが魔法」
即ち、魔法とは奇跡の産物。
奇跡は魔法の親と言ってもいい。それが真相である。
「そして、奇跡を使える者は……」
「……デミゴッドと呼ばれる」
続きを口にしたラウレに、エメステリアは満足気に微笑む。
天候を操作する魔法なんて、この世界には存在しない。
あるとすれば――奇跡。
魔法すらも生み出してみせた、正真正銘、本物の神の神秘。
「アイル=レイカーのおかげで火の勢いは止まりましたね。ラウレ司教は校舎の消火活動に参加してください。魔導科に協力を仰ぐといいでしょう」
「……畏まりました」
ラウレは表情を硬くしたまま校舎へと向かった。
アイル=レイカーはデミゴッドである。エメステリアから語られたその事実を、胸に仕舞い込んで。
雨の勢いが増す。
他の教師の指示によって、生徒たちがグラウンドから講堂へと移動した。この豪雨なら火が広まることはもうないだろう。
「……ここからは、大司教より上の者にしか開示されない情報ですが」
激しい雨の中で、エメステリアは語る。
「厳密には、奇跡を使えるというだけではデミゴッドとは呼びません。奇跡は神様から力を借りて行使する神秘。即ち、自身の意思と神様の意思が重なっていなければ行使できない力ですが……」
エメステリアは屋上の方を見つめた。
「極稀に、神様から力を借りなくても、自力で奇跡を行使できる者がいる」
雨粒の弾幕が、屋上にいる少年の姿を隠していた。
だが、そこには間違いなく存在する。
人々にとっての、神秘の化身が。
「それこそが、デミゴッド。人であり、神でもある存在……」
エメステリアは、静かに背後を振り返った。
「そのような人物を、わざわざ護衛する必要などないと思いますけどね? 塔の騎士よ」
「……お気づきでしたか」
降り注ぐ雨の中から甲冑を纏う男が現れる。
塔の騎士ノイスは、自らの気配を勘づかれたことに若干驚いているようだった。
「学園への侵入は遠慮していただきたいですね。万一、見つかれば騒ぎになりますよ」
「申し訳ありません。しかしご容赦いただきたい。私は不安なのですよ」
ノイスは、エメステリアを真っ直ぐ見つめる。
「猊下が押し上げたいのは、アイル様ではなく聖女の方でしょう?」
「そうですね」
極めて単純な話である。
聖女は奇跡を行使できる神に選ばれし存在だが、デミゴッドではない。それはつまり、イシリス神と意思を重ねなければ奇跡を行使できないということだ。
ゆえに制御しやすい。聖女の力はイシリス教に依存している。
だが、アイルという少年はデミゴッドだ。
彼はイシリス神の教えとは関係のないところでも奇跡を行使できる。それはつまり、イシリス教にとって最大の反乱分子となりえることを示唆している。
何故だ。
エメステリアは心の中で問う。――何故、教皇はこのような危険な人間をイシリス教に招いた。
あの少年が神学科に編入した時から、イシリス教はずっと腹に爆弾を抱えているようなものである。爆弾の存在を認識している者はごく少数。その解体ができる者は更にごく一部に限られる。
「このような言い方は好みませんが」
ノイスは言う。
「少なくとも、私と王家はアイル様の後ろ盾となる覚悟があります」
「脅しのつもりですか? 窮地に立たされているとはいえ、イシリス教はこの世界の半分で支持されている宗教です。一国が相手取るには少々重たいかと」
「それほど盤石であるなら、アイル様の存在も受け入れていただけますね?」
エメステリアは口を噤んだ。
イシリス教はこの世界に広く浸透している一大宗教だ。――それでも、あのアイルという少年は、教会の総力を挙げて対策するべき脅威である。
「貴方がたは……新たな神を待ち望んでいるのですか?」
神妙に問うエメステリアに対し、ノイスは静かに微笑んだ。
「それは、アイル様の御心次第です」




