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エリーゼは逃げるように路地裏に入っていった。しかし王都の入り組んだ道を網羅しているわけでも、行先を決めているわけでもないのだろう。しばらく追い続けると、行き止まりに直面したエリーゼが足を止めていた。
「……なんで追ってきたの」
振り返ったエリーゼがアイルを睨む。
誰でもいいから殴りたい。そんなことを考えていそうな顔だった。注がれる怒りが、彼女にとって制御不能な八つ当たりであることを察するアイルは、鼻白むことなく答える。
「今のエリーゼを放っておけるわけないよ」
「……それは、貴方がイシリス教徒だから?」
「ううん、僕自身の考えとして。洗礼を受けたのはつい最近だから」
誇ることではないが、まだ自身の基軸とイシリス教は重なっていない。
正直に答えると、エリーゼの目に宿る憎悪が掠れた気がした。意図したわけではないが、今の言葉は彼女にとって好ましいものだったらしい。イシリス教徒であることを否定して、それで好まれるのも妙な話だが。
「ねえ、アイル」
エリーゼはアイルを見つめる。
「貴方はイシリス神の存在を信じてる?」
その問いは、エリーゼにとってきっと大切なものなのだと感じた。
だからアイルは再び本音で答える。
「実は、まだそんなに信じてない」
「は?」
エリーゼは目を見開いた。
「じゃ、じゃあどうして、神学科にいるのよ?」
「うーん……上手く言えないんだけど、イシリス様を信じているからというより、イシリス様を信じたい人たちのことを知りたくて」
アイルが自分なりに考えを言語化すると、しばらくの沈黙が生まれた。
「ふっ」
エリーゼが笑う。
なんだか、全部が馬鹿馬鹿しくなったとでも言いたげに。
「……クララって子の首輪、貴方が握っているのよね?」
「首輪っていうほどじゃないけど、一緒にはいてくれるかな」
「だったら彼女に教えてちょうだい。私は好きで聖女の家来をやってるわけじゃないって。……あんな恐ろしい子に毎回睨まれてちゃ、正直心が落ち着かないのよ」
この一週間で、アイルは真面目であることを周囲に示した。
一方、クララは破壊の化身であることを周囲に示した。
クララが編入してきてから、魔法学の授業では毎回悲鳴が上がるようになった。教師は何度も「加減しろ!」と怒鳴っているが、加減してもクララの魔法は派手で、破壊力に長けていた。
そんなクララに睨まれるのは恐ろしいだろう。エリーゼの気持ちには共感できるが、何より気になったのは好きで家来をやっていないという部分だった。
「じゃあ、なんで家来を?」
「……聖女様の傍にいたら、イシリス神を信じられそうだから」
そう告げるということは――。
エリーゼは、イシリス神を信じていないということだ。
信じがたい事実だった。アイルは偶然見たエリーゼの祈りを思い出す。長い積み重ねを感じさせるあの自然で美しい祈りの所作が、まさか実態のない空虚なものだったとは、説明されてもなお信じられない。
「両親が、獄炎の日に死んだの」
エリーゼは語り出す。
「逃げ遅れた人たちを救うために、焼けた修道院に水も被らず突っ込んでいったわ。そしてそのまま帰らない人となった」
勇敢な両親だったらしい。
だがその勇敢さが仇となって、エリーゼは孤独となってしまった。
「パパもママも、イシリス神が見ているから大丈夫だと言ってた。でも帰って来なくて……その時から私の中で疑問が生まれたの。私たちは本当に神様に守られているのかなって」
だから先程は激昂したのだ。
女子生徒たちが相談してきた人に告げた言葉を思い出す。祈れば救われる――なんて都合のいい発言だろうか。祈っても救われなかった身内がいるエリーゼにとって、その言葉は酷く軽薄に感じただろう。
「イシリス神の存在を信じられなくなって、道に迷っていたある日、私は聖女と出会った」
エリーゼは恐らく、幼い頃からイシリス教の信者だ。
イシリス神を信じられなくなるというのは、半身を捥がれるような思いだろう。これまでの人生の大部分を否定しかねない不安を抱いていたはずだ。
そんな彼女が、聖女と出会った。
「聖女は、イシリス神の寵愛を受けた特別な人間よ。彼女の傍にいたら、もう一度イシリス神を信じられるようになるかもしれない。そう思って家来になったの」
そうだったのか……。
衝撃的な事情だが、不自然ではなかった。むしろ自然だった。まだ出会って日も浅いが、エリーゼが権力者に媚びる性分にはとても見えない。彼女が率先して聖女の家来になった理由が、今ようやく理解できた。
「否定は、しなかったんだね」
アイルはエリーゼのあったかもしれない人生について口にした。
「エリーゼには、神様がいないことを証明する生き方もあったはずだ」
「……そうね」
エリーゼは短く頷き、考える。
どうして、苦しい思いをしてまで、否定ではなく肯定の道を選んだのか。
「……貴方、私の祈り方を褒めてくれたでしょ。あれは両親に教えてもらったの」
エリーゼの表情が微かに綻ぶ。
それだけで、両親の記憶は彼女にとって温かいものなのだと理解できた。
「昔から、祈りを捧げている両親を見るのが好きだった。綺麗で、美しくて、何よりその時の二人は誇らしげに見えた。……だから私は両親の信仰が正しかったと思いたいの。あの二人は間違ってないって、信じたい」
エリーゼは空を仰ぎ見た。
「神様はいつも皆を見ている。ただちょっとだけ、私の両親からは目を逸らしちゃった。……そんなふうに思いたいのよ」
路地裏から見える狭い空。
そこにも神の目はあるのだろうか。
過去を語り尽くしたエリーゼは、溜息を吐く。
「でも、最近は心が折れそう」
「え? ど、どうして?」
「神学科に入学して三ヶ月。ずっと聖女の傍にいるけど、あんまり気持ちが変わらないの。聖女もいつも粛々としてるというか、大人しいというか……」
エリーゼは更に深い溜息を零す。
「正直、あの女、聖女じゃなかったらただの陰気な子供よ」
「そ、そうなの?」
「あの子、凄くジメジメしてるわよ? 卑屈な性格だと思うわ」
分かるような、分からないような……取り合えず否定も肯定もしないでおいた。
「あ~あ……もう辞めよっかな、神学科。普通の学科に行って、真面目に勉強した方がいい気がしてきた」
エリーゼがそんなことを呟く。
実際、彼女の頭脳なら他の分野でも活躍できるだろう。学園には学科を変える生徒も存在する。不可能な方向転換ではない。
沈黙するアイルを、エリーゼは横目に見た。
「止めないのね」
「止めたいよ」
アイルははっきり言う。
「折角、こうして出会えたばかりなんだ。僕はもっとエリーゼと一緒に色んなことをしてみたい。でも僕に、エリーゼを止める権利はないから……」
言いながら、アイルは瞳を潤ませた。
「……なんで貴方が落ち込むのよ」
「だって……」
今の自分にはエリーゼを繋ぎ留めるための力がない。言葉の重みも、神学科生としての能力も、彼女には遠く及ばないからだ。その無力がアイルを苦しめた。
「あ……」
その時、パタパタと音が聞こえた。
夕焼け色の小鳥が、エリーゼの肩に止まる。
「……こんなところまで、ついて来たのね」
エリーゼは小鳥の頭をそっと撫でる。
小鳥は嬉しそうに身体を震わせた。
「そ、その鳥は、エリーゼと離れ離れになりたくないんじゃないかな……!!」
「へたくそな説得ね」
エリーゼは小さく吹き出す。
「……辞めないわよ」
小鳥を撫でながら、エリーゼは告げた。
「辞めるわけにはいかない。これで私までイシリス教から抜け出せば、パパとママはいよいよ道化になっちゃうから。……私は、パパとママは最後まで正しく生きたんだって、証明しなくちゃいけない」
エリーゼはアイルを見る。
「イシリス教は信じる価値がある。そうでなければ、パパとママは報われない」
そう言ってエリーゼは路地の外へ歩き出した。
小鳥が羽ばたき、アイルの頭上を超えてどこかへ飛び立つ。
狭い路地裏を出ると、沈みゆく橙色の陽が見えた。もう夕方だ。忘れていたが、今は課外授業の最中である。
「アンタら! その制服、神学科の生徒かい!?」
あてもなく歩こうとするアイルたちに、声をかける男がいた。
露店で串焼きを売っている男が、こちらに視線を注いでいる。
「一本ただでやるからよ、ちょっと相談に乗ってくれねぇか?」
「はぁ」
エリーゼは興味のなさそうな反応と共に、店主のもとへ歩く。
アイルたちはそれぞれ一本ずつ串焼きを貰った。何の肉かは分からなかったが、美味しそうな香りに惹かれてすぐに頬張る。
「美味しい!!」
「ははっ、ありがとよ」
感動するアイルに、店主も上機嫌そうに笑った。
スパイスが効いた味だった。焼き加減も丁度いい。エリーゼも悪くなさそうな様子で食べている。
「でも実は売上が悪くてよ。これもイシリス様に祈ればなんとかなるのかね?」
この味でも売上が悪いらしい。
祈るだけで売上が上がるわけないだろ――レクスがこの場にいれば、一瞬でそう吐き捨てそうだが、
「なりますよ」
エリーゼは店主の無茶な相談を、無碍にはしなかった。
「ただし、貴方の目標は少し難しいですから、祈るだけでは足りません。イシリス神の教えを忠実に守るのです。たとえば、『他人の瞳に自己は宿る』」
「あ、あぁ……なんか聞いたことはあるな」
「他人から見た自分を意識しろ、という教えです。失礼ですが少々お店が汚いようですね。味は問題ないと思いますので、まずは掃除してみればどうでしょう?」
「確かに、最近そっちの方は気が抜けてたな。……久々にがっつり掃除してみるか! ありがとよ、嬢ちゃん!」
蓋を開けば地味な結論に辿り着いたが、店主は自力でこの結論には至れなかったのだろう。店主は今、エリーゼの瞳に映る自分を見て、ようやくやるべきことに気づいたのだ。
アイルは少し離れた位置にいる修道士を見る。
適切な距離を保ち、ずっとついて来ていたその修道士は無言で首を縦に振った。これでエリーゼも合格だ。
「合格おめでとう」
「どうも」
「イシリス様の教え、あんなにすぐ出てくるんだね」
「アイルもこのくらいは言えるでしょ?」
「まだ僕は授業で習った範囲しか言えないよ」
だから、アイルはエリーゼに尊敬の眼差しを注いだ。
しかりエリーゼは自嘲するように笑う。
「どれだけ諳んじることができても、イシリス神の存在証明にはならないわ」
それは、そうかもしれない。
結局、イシリス神の存在を感じられるとしたら、それは物理的なものではなく己の胸中で完結するものだ。イシリス神の教えを学んだ先にその存在を感じることはきっとある。だが今のエリーゼはそのような不確かなものを認めたがっていない。
それは信仰の否定ではないだろうか。
イシリス教を信じたい。イシリス神の教えは正しいと信じたい。
エリーゼはそう念じているようだが、既にその理屈が破綻しているとしたら…………。
――その時。
遠くの空が強く輝いた。
太陽ではない。もっと神秘的で美しい、白い光が空に昇る。
突然の光景に、アイルだけでなく街の人々も驚いて空を見上げた。
光の発信源はそう遠くない。王都のどこかだ。
「……結局、勉強なんかより、こういう景色を見るだけで信じたくなるのよね」
遠くで煌めく光の粒子を見て、エリーゼは言った。
「エリーゼ、あれは……?」
「聖女様の魔法よ」
エリーゼは小さく嘆息する。
「あれを見たら、誰だってイシリス神の存在を信じちゃうわよ」




