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「アイル、大丈夫?」
一時間目、聖典概論の授業が終わったところで、隣に座るクララがアイルを心配した。机に額をつけていたアイルは身体を起こし、情けない顔で嘆く。
「……全然分からなかった」
「初日はそれでいいんじゃない? ここの授業、私にとっても結構厳しかったし。詰め込みが半端ないわね」
「というか、そもそも読めなかった……」
「そりゃそうよ。聖典って今は使われていない昔の言葉で書かれているし」
聖典概論は聖典の理解を深めるための授業だったが、最終的には聖典の原文を自力で読み解かねばならないようだった。つまり現代では使われていない未知の言語を新たに学ばなくてはならないようだ。
「クララは聖典を全部読めるの?」
「流石にそれはまだ無理ね。でもニュアンスくらいなら分かるわよ」
それを学ぶために神学科があるのだから完璧でないのは当然である。しかし教室の生徒を見た限り、ほとんどの人ある程度は読解できるようだった。授業で教わるまでもなく独学で身に付けようとする熱意ある生徒だけがこの教室に集まっているのだろう。
「おい」
アイルが落ち込んでいると、焦げ茶色の髪を逆立てた少年に声をかけられた。背はアイルと比べて一回りどころか二回りは小さい。三歳くらい年下だろうか。
「えっと……」
「レクスだ。こっちに来い」
短く名乗った少年に呼ばれ、アイルは「何の用だろう?」と不思議に思いながらついて行く。
廊下に出た直後、レクスはアイルを壁際まで追い詰めた。
「お前、舐めてるだろ」
唐突に怒りをぶつけられ、アイルは困惑した。
「祈れ」
「……?」
「イシリス様に祈れ」
怒りを剥き出しにしたレクスの双眸は、今にもアイルを喰い殺さんとする肉食獣のようだった。何故こうも激昂しているかは分からないが、身の危険を感じたアイルは一先ず言われた通りイシリス神へ祈ろうとする。
……どうやって?
アイルは気づいた。
祈り方が分からない。
そのまま硬直していると、レクスがアイルの肩を突き飛ばす。
「ぐっ!?」
「臍の前で!! 逆さにした右拳を左掌で包む!!」
その説明を聞き、アイルの脳裏に洗礼の時の光景が過ぎった。
エメステリア枢機卿が洗礼の際にしていた姿勢だ。あれが、イシリス教における祈りの姿勢だったらしい。
「祈り方も知らねぇ野郎が何しに来やがった!!」
レクスの叫びが廊下に響く。
あまりにも大きな声だったので、神学科の教室から他の生徒たちもやって来た。
「お、おい、レクス。ちょっとやり過ぎじゃ……」
「黙れ! 今まで何度もあっただろ!! 神学科の人手不足を利用して、信心もないくせにキャリアだけを掠め取ろうとする奴が!!」
レクスは級友の言葉に耳を貸さない。
「こいつの無知蒙昧っぷりを見りゃあ分かる!! こいつもそいつらと同類だ! 今すぐに出て行け――ッ!!」
怒りに身を任せたレクスが、拳を振り上げた。
しかしその拳はアイルに向けて放たれるよりも前に、背後の少女に掴まれる。
「ふ~~ん、早速アイルについてきた甲斐があったわね」
いつの間にかレクスに近づいていたクララが、その拳を力強く掴みながら言った。
相当な握力で握られるのか、レクスは苦悶の表情で振り返る。
「殴り合いなら私が相手になるわよ」
「お、お前には関係ないだろ……!!」
「あるわよ。だって私はアイルの騎士を目指しているんだもの」
「き、騎士ぃ……?」
レクスが心底理解できなさそうな顔をする。
クララはまだレクスの手を離さない。
空気が、張り詰めていく。
「巡礼騎士を目指しているってこと?」
小さな足音と共に、一人の少女がこの騒動に割って入ってきた。
声をかけてきたのは、紺色の髪の少女だった。
「誰よ、アンタ」
「エリーゼ」
紺色の髪の少女は端的に名を伝えた後、淡々とした面持ちでクララを見つめる。
「巡礼騎士を目指す人が、そんな簡単に喧嘩していいの?」
「は? 何の関係があるのよ?」
「巡礼騎士は品行方正な人しかなれないわよ。護衛とはいえ、巡礼に同伴している人間が武装しているんだもの。手が出やすい人に務まるわけないでしょ」
クララが押し黙った。
司教が粒揃いと評価するだけあって、神学科の生徒たちの中にはクララが相手でも物怖じしない人がいる。しかも、ぐうの音が出ない正論だ。確かに、見るからに野蛮そうな人間が傍で武装していては、巡礼もままならない。
睨むクララと、どこ吹く風の様子であるエリーゼ。
二人の対立を目の当たりにして、アイルは静かに口を開いた。元は自分が原因で起きた悶着だ。自分が解決しなくてはならない。
「……読み書きができるようになったのが、一年前なんだ」
アイルが語り出したのは、己の境遇だった。
「僕がいた村では紙を見る機会が滅多にない。外との繋がりは月に二回だけ商人を乗せた馬車が来るだけで、王都の噂なんて届きやしない。その商人に頭を下げて、少しずつ外の世界を勉強していった」
読み書きも商人たちから教わったものだ。
知らないことはたくさんある。
学びたくても、学べないものがたくさんある。
その上で、アイルは――――。
「精一杯やってるつもりだよ。それでも気を悪くしたなら……ごめん」
アイルが謝罪すると、場がしんと静まり返った。
見るからに田舎臭い格好をしているアイル。だが誰も、その苦労までは推し量れなかった。
アイルは明らかに知識が足りておらず、授業にもついて行けていない。しかし一年前に読み書きを覚えたのだとしたら――――急激な成長を遂げている。
レクスの拳が解かれる。それに気づいたクララは、彼の腕を離してやった。
「やり過ぎですよ、皆さん」
沈黙を拓いたのは、透き通る少女の声。
銀色の髪を揺らしながら、真っ白で神秘的な少女がこちらに近づいてきた。
聖女。このイシリス教で特別な立場を持つ彼女は、もう一度口を開く。
「どのような境遇であれ、機会には恵まれるべきです。エメステリア猊下がお二人の編入を許したというのであれば、私たちはその判断を信じましょう」
「……枢機卿が許した?」
レクスの小さな疑問が声になって零れ落ちる。
聖女は知っているようだ。アイルたちがエメステリアから合格を言い渡されたことを。
「アイルさん。貴方にとってイシリス教とは何ですか?」
聖女の問いに、アイルは考えたが……。
「……ごめん、まだ分からない」
聖女の目がスッと細められる。
しかしアイルは続けて言う。
「それを知るために、ここへ来たんだ」
「……そうですか」
答えを知るために神学科の門を叩いたのだから、今は答えを知らなくて当然である。
上辺だけの言葉ではない。自身が持つ最大の誠意を込めて答えたアイルに、聖女は肯定も否定も伴わない淡々とした声音で相槌を打った。
「多くの人々にとって、イシリス教は心の拠り所です」
聖女は語る。
アイルにとっては分からないかもしれない。
けれど、人々にとってはまた違うのだと。
「貴方の軽率な一挙手一投足が、人々の心の拠り所を破壊しかねないことをお忘れなく」
「……分かった」
聖女の注意喚起はもっともだ。
だからアイルは、拳を握り締めた。
「最善を尽くすよ!」
無知蒙昧な自覚はある。だからこそ、熱意だけは負けてはならない。
力強くやる気を漲らせるアイルに、聖女はしばし目を丸くして、
「……気合だけは十分みたいですね」
「へっ! 口だけに決まってらぁ!!」
聖女の傍で、レクスは気に食わなさそうにアイルを睨んだ。
場の空気が和んだところで、聖女は廊下を歩いてどこかへ向かおうとした。その背中をアイルは思わず呼び止める。
「あ、待って。聖女……さん?」
「……リリスです。呼び方はお任せします」
「じゃあリリスで!!」
アイルが躊躇いなく名を呼んだ瞬間、ざわりと周囲が騒々しくなった。
「こいつ……」
「聖女様に、なんて無礼な……っ」
え!? 駄目だったの!?
周りの反応を察し、アイルの顔が青褪める。それを傍で見ていたクララは暢気に吹き出した。完全にこの状況を楽しんでいる。
これ以上、クララに笑われないためにもアイルは冷静になり、リリスを見た。
今更、名前を言い直すのも逆に無礼な気がするし……もうリリスと呼ぶことにする。
「リリス、君はどうなの?」
首を傾げる真っ白な少女に、アイルはもう一度訊く。
「君にとって、イシリス教はどんな存在?」
アイルは「分からない」と答えた。
人々にとっては「心の拠り所である」と聖女は告げた。
なら、聖女は?
彼女自身はどう思っているのだろう? アイルはそんな疑問を抱いた。
「私にとって、イシリス教は……」
リリスは思ったよりも長く考えた。己の胸中にある様々な感情を掻き分け、奥底に沈んでいる本音を探すかのように……。
やがて、彼女は小さな声で答える。
「………………使命です」




