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114話

 いったいどれくらいこうしていただろうか。

 ふと、七海は顔を上げ、玄関の方に視線を向けた。

「ん、なにあれ?」

 そのとき、七海は玄関に何かが落ちていたのを見つけた。

 正体を確かめるべく、ゆっくりと玄関に近づく。

「これは……手紙と箱?」

 それは、十五センチ四方の木箱だった。そして、木箱の上に手紙が一枚、丁寧に置かれていた。

 昂輝と一緒に家に上がったときはこんなものなかった。

 じゃあなんであるんだろ、とか疑問に思いながら、七海は手紙を開ける。


『妹は預かった。返してほしくば、今夜零時に奈須神社まで来られたし。

         ――追伸:私がいじったお母さんはどうだったかえ』


「っっ⁈」

 七海は手紙の文面を呼んで、瞠目する。

 この手紙は、残酷な犯人からの脅迫と犯行声明だった。

 手紙を持つ手が震える。

 それは怒りか、哀しみか、それとも憎悪か。自分でもよくわからない。

「って、もしかして――っ」

 そこではたと気が付く。

 七海は手紙から目を離し、視線を下に向ける。

 そこにあるのは、十五センチ四方の木箱。檜で作られ、表面がやすりで丁寧に削られた高級な趣のそれ。

 七海はおそるおそる、木箱の蓋に手を伸ばす。


 この手紙が今回の犯人からのものであれば、この中に何が入っているのか見当がついた。それでも己の心臓ははち切れそうなほど、激しく脈打っていた。


「……」


 蓋に手を置き、ゆっくりと、取り去る。


「うっ」


 思わず目を背けた。

 今、自分の胸の中で大きく脈打っているものと同じものが木箱の中に収められていた。

 それが誰のものなのかすぐに分かった。

 屍鬼は生者か死者を素体にして生成する。しかし、心臓だけは屍鬼の生成に不要となる。

「……」

 七海は眉根を寄せながら木箱の蓋をもとに戻す。

 胃からこみあげてきたものを無理やり押し戻し、ゆっくりと立ち上がった。

 その顔は今までのように失意に沈んだものではない。覚悟を決め、使命感に燃えるものだった。

 七海はぎゅっと手紙を握りしめる。

「助けないと――」

 そう誰にともなく呟き、ずんずんとリビングの方へ向かう。


「母さん……、母さん……」

 リビングのドアを開けようとした瞬間、彼の声がまた聞こえた。

「……」

 七海の手が止まる。しかし、それは一瞬だった。

「昂輝っ」

 恋人の名前を呼びながら、七海がリビングに入る。


「どうして……、なんで……」

 相変わらず彼は身を縮こまらせて、魂の抜けた声を発している。

 その光景は再び七海を苦しめたが、彼女は構わず彼の下に近づき、腰を下ろした。

「昂輝っ」

 彼の顔を真剣な眼差しで射貫くように見つめながら、彼の肩を揺さぶる。

「大変なのっ。ゆめちゃんが捕まった」

 肩を揺さぶりながら、七海は言葉を続ける。

「このままじゃ、ゆめちゃんが殺されちゃうっ。だから戻ってきてっ、昂輝っ」

 彼の閉ざされた心に届くように、彼女は必死に訴える。

 彼女の声が雨音をかき消し、リビングに響いた。

「母さん……、母さん……」

 しかし、彼には届かなかった。依然として彼は母を呼び続けていた。

「くっ」

 七海は奥歯を噛みしめる。

 そして、右手を大きく振り上げて――、


 ――パチンっと、恋人の頬を力いっぱい叩いた。


「……えっ?」

 片方の頬を真っ赤にして、呆ける彼の顔。彼は何をされたのか理解できない様子で、おそるおそる七海の方へ振り返る。

 彼の瞳に七海の顔が映っていた。

 彼が振り返ると、七海は彼の目の前にあの手紙を突き付ける。

「これを見てっ。ゆめちゃんが大変なのっ」

 手紙を見た瞬間、彼の顔から血の気が引いた。

「辛いけど、今は落ち込んでいる暇はないっ。早く助けに行かないと取り返しのつかないことになる。だから、戻ってきてっ」

 七海は彼に顔を近づけ、必死に訴える。彼の瞳に映る七海の顔がさらに大きくなる。


「もう、やめてくれ……。放っておいてくれ……」


 しかし、彼の口から出た言葉は拒絶だった。

「なんで俺ばっかりこんな目に遭うんだよ……。俺が何したっていうんだよ……」

 心を閉ざし、自分の殻に閉じこもる。現実から目を背けようする。

 膝で己の顔を隠し、見たくないものを視界に入れないように。耳を両腕で覆い、聞きたくないものを鼓膜に入れないように。

 彼は全ての情報を遮断し、外界と距離を置こうとする。

「ぐっ」

 七海は歯噛みする。でも、ここで諦めるつもりは毛頭なかった。

「昂輝はいいのっ⁈ ゆめちゃんが殺されるんだよっ」

 交差する彼の腕を無理やり解き、彼の瞳に自分の姿を反映させる。強制的に現実を彼の中にねじ込む。


「――――いいわけないだろっっ」


 返ってきたのは怒号だった。


「ゆめは家族なんだ。母さんと同じ、俺の家族だっ。いつも一緒にいて、にぃって俺の名前を呼んで、よく俺に甘えてきて。そんな可愛いくて、大切な家族が殺されていいわけないだろっ」


 彼は怒鳴った。彼は叫んだ。そして、彼は泣いていた。彼の頬には幾筋もの雫の通り道ができていた。

 七海にだって分かっていた。彼が妹を大切に思っていることくらい。彼が妹を見捨てられるわけがないことくらい。


「――でも、駄目なんだっ。現実を受け入れられないんだっ。母さんが屍鬼になって、いなくなって。ゆめが捕まって、殺されそうになって。こんなのどうやって受け入れられればいいんだよっ」


 彼の心の叫びが実際に口から溢れ出してくる。感情を多分に含んだ声が空気を震えさせる。


「でも、そんな塞ぎ込んでいる時間なんて――」


 七海が彼に手を伸ばす。

 しかし、彼はそんな七海の手を強く打ち払った。

 彼は瞼にたくさんの涙を湛えながら、七海を睨みつける。


「ちょっとくらい時間をくれよっ。一人にしてくれよっ。目の前で親が屍鬼になって、殺されたんだぞっ。今の俺の気持ちを七海が分かるわけないだろっっ」


 その言葉が七海の胸の深い部分に突き刺さった。

 その言葉を彼の口から聞きたくなかった。その言葉を彼にだけは言われたくなかった。

 でも、そんな彼を怒ることも、憎むこともできなかった。

 だって、痛いほど彼の気持ちが分かるから。肉親を殺され、現実を受け入れたくなくて、だれかれ構わず当たってしまう感情を理解できるから。

 だから七海は――、


「――――分かるに決まってるでしょ……」


 悲しく、儚げに。涙を湛え、痛みにこらえながら目を細めた。


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