112話
「あれ、母さん、家にいたんだ」
母さんは椅子に座り、顔を俯けていた。
「もう、いたなら返事してくれたらよかったのに……。誰もいないかと思ったよ」
どうやらさっきまで不安を感じていたらしい。母さんの姿を認めると、堰を切ったように言葉が出てくる。
「それに何で電気を付けてないんだよ……って、まあいいか。それよりも母さんに言われた通り、七海を連れてきたよ。こちらが今、付き合っている――」
「昂輝ッッ」
そのとき、背後から強く服を引っ張られた。
「うわっ」
とっさのことで、踏ん張ることもできず、後ろに転ぶ。床にお尻を強く打ち付けた。
しかし、それにもかかわらず、お尻の痛みは全く感じなかった。それどころではなかった。
「――えっ?」
言葉を失った。
俺が後ろに転ぶ瞬間、母さんが自分に襲い掛かってきた。顔面を右手で掴み取ろうとしてきた。
こちらに伸びる母さんの手は目前まで迫っていた。
服が引っ張られていなかったら、あの手の餌食になっていたに違いない。
母さんが椅子から立ち上がる。
尻もちをついている俺から母さんを見上げる形となり、俯いていて分からなかった母さんの表情をはっきりと見て取ることができた。
「な、なんで……」
動揺を隠すことができなかった。
年齢の割にシミ一つない綺麗な肌は血が通っていないかの如く青白く、程よい肉付きだった頬も今はこけている。両の目は血走り、瞬き一つしない。そして、本来は口元に並んでいる真っ白な歯が、目の前の母さんには一本もない。
七海と一緒に怪異の討伐をする中で見たことある動く死体――屍鬼との特徴と一致する。
そこにあったのは見慣れた母さんの顔ではなく、まるで別人のように変わり果てた母さんの顔だった。
「昂輝っ、昂輝っ」
七海が強く肩をゆすってくる。しかし、俺は目の前の現実を受け入れることができない。
なんで母さんが。いや、あれは本当に母さんなんだろうか。
母さんであるはずがない。だって、母さんは今朝、いつもと同じように自分を送り出してくれた。
あれは母さんの偽物だ。あれは母さんに化けた何かだ。
動揺は拒絶に変わる。自分の心を守るように、不都合な情報を頭の中から締め出す。
「昂輝っ」
いきなり視界が真っ暗になった。七海が覆いかぶさってきたのだ。
直後、壁が砕ける音がした。
七海が起き上がり、俺も音のした方角に目を向ける。
目を向けると、足刀で壁を粉砕したそいつがいた。
壁を蹴り一つで砕く脚力。もはや通常の人間でないのは明らかだ。
「昂輝っ、立ってっ」
七海が強制的に俺を立ち上がらせる。俺は彼女のなすがままだった。
立ち上がった俺たちをそいつが睨みつける。その様子はまるで獲物を見定める肉食獣のようだった。
そいつが俺たちに飛び掛かる。
七海は俺に覆いかぶさり、身を低くすることでそれを回避する。
七海のすぐ上をそいつが通過した。
「あぶな……」
すぐさま七海が立ち上がり、俺も上体を起こす。
空を切ったそいつの手は壁に突き刺さっていた。
壁に手を突き刺したまま、そいつの顔がぐるりとこちらを向く。血走った二つの瞳がこちらを見据えている。
「ひっ」
怯えて、情けない声を出した。
「立ってっ」
七海が再び、俺を立ち上がらせる。
彼女の力を借りながら立ち上がると、彼女は俺の手を引っ張って廊下に続くドアへと向かおうとした。俺は抵抗できないまま、彼女に引っ張られる。
しかし――、
――「こうくん……」
聞きなれた声で、そいつが俺の名前を呼んだ。その呼び方は母さんしかしない呼び方だった。
「っっ⁈」
急に全身の力が抜ける。足は動かなくなり、立っていることすらできなくなった。
「えっ、ちょっ」
いきなりへたり込む俺に七海が足を止める。
「こうくん……、こうくん……」
そいつは母さんの声で俺を何度も呼んできた。
「やめてくれっ、やめてくれっ」
俺は耳を押さえ、頭を強く振った。
その声が耳に入るたび、頭の中でそいつと母さんとが一つになっていく。そいつが母さんに、母さんがそいつになっていく。
「嫌だっ、やめろっ」
認めたくなかった。受け入れたくなかった。
「こうくん……、こうくん……」
そうやって、現実逃避している間にも母さんは俺たちに近づいてくる。
しかし、足に力が入らない俺はその場から動くことはできない。まるで、スーパーでお菓子を買ってもらえなかった子どもが駄々をこねるように、座り込み、現状を拒絶する。
「昂輝っ、早く立ってっ」
七海が肩をゆすりながら、急かしてくるが、そんな声も遠い。
「こうくん……、こうくん……」
さらに足音が、自分を呼ぶ声が大きくなる。
このままではいけないのに、ただ叫ぶことしかできなかった。
「お前は母さんじゃないっ。お前は……」
すると、今まで自分を揺さぶっていた手が肩から離れた。
「えっ?」
振り向くと、七海はゆっくりと立ち上がるのが見えた。
彼女は悲しそうに、でも、何か意を決したように、母さんを真っすぐ見据えていた。
そして――、
「――【接続】」
腰に携えた小太刀を鞘から抜き、その詞を口にする。
漆黒の粒子が彼女を中心に取り囲む。
「――《異なる者よ、我が世界から消え失せよ》」
短文の詠唱が完成する。小太刀に黒粒が収束し、刀を妖刀へと変える。
「おい七海っ、いったい何をっ」
彼女の行動が理解できなかった。いや、今からする彼女の行動を考えたくなかった。
七海は俺に振り向く。そして、とても胸が張り裂けそうな表情を浮かべながら、
「……ごめん」
その一言だけ呟き、母さんに襲い掛かった。
「こうくん……」
七海と同時に母さんも彼女に襲い掛かる。
「七海、待ってく――」
俺は七海に手を伸ばした。しかし、その手は空を切った。
七海と母さんとの距離が瞬く間に縮まる。
そして――、
――肉を割く音とともに、母さんの背中からべっとりと血の付いた刃が生えた。
「こうくん……、こうくん……」
母さんは身動きせず、壊れたオルゴールのように俺の名前を繰り返す。
七海が小太刀を引き抜くと、母さんは床に倒れこんだ。
直後、七海の【虚無】によって、母さんの身体がどんどん朽ち始める。
「か、母さん……」
俺はボロボロと崩れている母さんに這いつくばりながら、ゆっくりと近づく。
七海は小太刀を鞘にしまい、見ていられないとばかりに、俺たちから目を背けた。
「母さん……、母さん……」
いくら呼び掛けても、母さんの消滅は止まらない。崩れ落ち、ひたすら消滅の一途をたどる。
「母さん……、母さん……」
母さんの頬に手を伸ばす。その頬にも既に無数の罅が入っていた。
母さんの頬に触れると、ぽろっと一部が崩れる。
「なんで……、どうして……」
母さんの頬に雫が落ちる。どんどん母さんの頬を濡らしていく。
すると、閉じていた母さんの目がゆっくりと開いた。
その目は血走ってなんかおらず、いつもの優しい瞳だった。
「母さんっ」
母さんはうまく笑えないのかぎこちない笑みを返した。それでも、その笑みはとてもやさしかった。
母さんは、うまく開かない口を必死に動かそうとする。
そして――、
「こうくん、ご……めん……ね」
その謝罪の言葉を発した後、完全に虚空へと消滅したのだった。




