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85話

「えっ?」

「――ッッ⁈」


 独り言のようにぽつりと落ちたその名前を呼ぶ声がその場にいた皆の時間を止める。

 七海は小太刀を構えながら地面に縫い留められ、吸血鬼は小瓶を振り上げた状態で固まる。

 まるで魔女の呪いのように、その呟きが全員の思考、行動を静止させる。

 自分でもなぜその名前を口にしたのかは分からない。

 でも、先ほど嗅いだ香りがクラス担任の顔と名前を記憶の中から掘り起こした。


 初めてミイラ化した被害者を見つけたとき、その者からは石鹸の香りがした。

 七海が復讐に狂ったあの日、吸血鬼から助けた女性からは石鹸の香りがした。

 今、己の腕の中にいる女性からは石鹸の香りがした。


 どれも同じ香りだ。そして、この香りを自分は何度か嗅いだことがある。

 いつかの現場で学生証が落ちていた高坂先輩からか?

 いや、違う。

 星華祭で彼とぶつかったとき、彼はそんな香水なんてつけていなかった。


 それでは、この香りを嗅いだのはいつか?

 あれは――、体育祭の二人三脚の後、転倒しかけた自分を支えてもらったとき。

 あれは――、秘密の天体観測で学園へ忍び込む前に、ある人物に見つかったとき。

 

 彼の腕、首元から、同じ香りが漂っていた。


 だからといって、その彼が吸血鬼であるとは断定できるわけではない。

 それでも、そのとき嗅いだ香りの記憶がその彼の名前を零れさせた。


 一体どれくらい、俺たちはその場に立ち尽くしていただろう。

 雲に隠れていた月が顔を出し、壊れた窓から鈍色の光が差し込む。その淡く切ない光は、まるでスポットライトのように俺と七海の視線の先にいる人物を照らし出した。


「――なんで気が付いてしまうんだよ」


 初めて吸血鬼が言葉を発した。そして彼はもう意味がないとでも言うかのように、目深にかぶっていたフードを取り去る。鈍色の月光がフードの奥を露わにする。


「「っっ⁈」」


 その素顔を見た瞬間、俺たちは目を見張った。

 いつも教室で見かける爽やかなイケメンの――自分たちのクラス担任の顔がそこにはあった。

 しかし、全く同じというわけでもなかった。

 俺たちは顔をしかめながら、彼の口元を見つめる。

 そこには、白銀に輝く鋭い二本の牙があった。その牙の存在が、自分たちのクラス担任が今回の犯人で、また彼が人間でなく怪異であることを雄弁に物語ってくれる。


 なんで先生が――、どうしてこんなことを――


 そんな糾弾の声が頭の中に響いてきた。

 でも、それを口にすることはできなかった。

 驚きのあまり己の思考と身体とが乖離を起こしていた。

 俺たちはさっきからずっと立ち尽くすしかない。

 川島先生はバツが悪そうに頭をかいた。


「――そうだ、俺が今回の犯人だ」


 彼は自身に鈍色の光を降り注ぐ月を遠目に見つめながら語り始める。


「半年くらい前かな、そのとき俺はまだ人間だった。でも、夜中に交通事故に巻き込まれた。遠くに吹き飛ばされて、地面に強く体を打ち付けた。助けを呼ぼうにも声も出ないし、指一本動かなかった。本当にダメだと思ったよ。だが、ふと目を覚ますと、俺は近くの公園のベンチで横たわっていた。傷はすっかり治っていて、体はいつも通りに動く。まるで交通事故なんてなかったかのようだった。俺は夢を見ていたのかと思った」


 俺たちは川島先生の言葉に耳を傾ける。それ以外にできることがなかった。


「でもな、そのときから俺は強く血を欲するようになった。喉が渇くんだ。頭が軋むように痛いんだ。俺じゃない俺がひたすらに血を求めるんだ。抗うのがつらかった。苦しかった。だから俺は、公園のそばを歩いていた女を襲った」


 彼は自白する。彼は独白する。

 己の罪を、己の葛藤を。


「美味かった。今までも美味しいものを何度も食べたはずなのに、それをはるかに凌駕する美味しさだった。そして、血を飲んだことであれほど強かった喉の渇きが満たされた。一度、その味をしめれば後は転げ落ちるしかなかった。あるときは、仕事帰りのOLの血を吸った。あるときは、小学生とその母親の血をまとめて吸った。そしてあるときは、お前たちと同じ高校生の血を吸った」


 彼の目は儚げだった。その目からは彼の後悔が見え隠れしていた。


「俺はいつの間にか化け物になり果てていた。おとぎ話に出てくるような吸血鬼。――それが今の俺だ」


 彼は言い終えると、少しだけ口元を緩める。その笑みにはどんな感情が宿っているのだろうか。おそらくそれは極めて複雑で絡み合ったものだろう。

「……」

 依然として立ち尽くしていた。何もできなかった。


 しかし、彼女は一歩だけ前に出た。彼と彼女の距離がさらに縮まる。

 彼女、――七海は、ゆっくりと小太刀を上げ、その切り先を彼に突きつける。


「川島先生、私は怪異を討伐する魔導師です。だから私は、――あなたを狩ります」


 決別の言葉を口にする。じっと彼を見つめて。

 おそらく彼女だって、こんな結末を納得していない。今までの怪異は自我もなく、ただひたすらに人を襲うだけの存在だった。だから、俺たちも嫌悪感や敵意をもって奴らを討伐することができた。


 それなのに、今目の前にいる怪異は違う。

 自我をもち、葛藤し、もとは人間だった。そして、何より自分たちの先生だ。

 そんな敵をどうして、今までの怪異と同じように討伐することができよう。


 しかし、彼女はそんな迷いを断ち切った。彼女は彼女の方法で恩師と向き合うことにした。

 川島先生も七海の眼差しを臆せず受け止める。そして、静かに目を閉じた。


「笹瀬ならそう言うと思ったよ。でもよかった。これで俺も迷いを断ち切れそうだ」


 その瞬間、辺りの空気が一変したように感じた。

 敵意を感じ取った七海が小太刀を中段に構える。


「桂に気づかれ、こうやって顔を晒したんだ。もうお前たちを生きて返すことはできない。それでも、俺にこうやって敵意を見せてくれた方が俺も割り切ることができる」


 張り詰めた空気が漂う。密度が凝縮し、喉元を締め上げてくるかのようで、息苦しく感じた。

 一瞬、一秒が無限に引き延ばされたように、時間の流れが遅くなる。そして、月が再び雲に隠れたそのとき――、


 先に動いたのは、七海だった。


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