第73話:アンモニアにいに
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菜那にとっても拓実にとっても、意義のある触れ合い。鈍亀のような歩みだが、確かに前には進んでいる。
菜那は繋いだ手から伝わる兄の体温に胸のトキメキと、罪悪感と申し訳なさと……そして安らぎを得ていた。まるで17歳、13歳、4歳の意識が混在しているかのように。とはいえ、時間異常が起きているワケではない。全て地続きで、今の彼女を形成している、その時々の想いだ。
2人の手が唐突に離れた。双方とも寝落ちしたから。そして、菜那の時間異常が始まったからである。彼女の掌はモミジの葉っぱのようなサイズに縮み、体も60センチ以上小さくなっていた。
直前まで最愛の兄と手を繋げていたおかげで、菜那は安らかなまま変化を迎えられたのだ。己の体に起こる不可思議現象<数年ぶりに兄の方からマトモに手を繋いでくれたという事実、なのだ。彼女の想いの強さは相当なものである。
(……いずれにせよ、正しい枝に進んでくれている。良い調子だ)
兄妹の交流を覗いている者がいた。2人には気配すら感じさせない、そんな場所から。それがどこなのか、それすらも余人には説明がつかない。強いて名を付けるのなら……時空の狭間とでも呼ぶべき、そんな場所から。
(あと数歩。その日は……着々と近づいてる)
銀時計の仮面の下、神は小さく笑った。
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カーテンの隙間から差し込む光に、俺の意識はゆっくりと覚醒した。枕元のスマホを見ると、午前7時02分。光は弱々しく、晩秋の日の出ならこんなもんかと、寝起きの頭で考えた。
「ぬくい」
お腹の辺りに何か温かなものが。湯たんぽは使ってないので……
「恐らく」
そっと布団をはいでみる。天使がいた。小さな体を丸めて俺の横腹にくっついて眠っている。辛うじておパンツとシャツは着ているみたい(寝る前に枕元に準備しておいた)で、安心。日に日に寒くなってきてるからな。
「菜那ちゃん」
「ん~」
一段と丸くなって俺のシャツにしがみつく。目をキュッとして、眩しいぞとアピールしてくるが。
頬を指の背で撫でる。モチモチのプニプチだ。正直、1時間くらい触っていたいが、無論そんなワケにはいかない。明日また潜るために、色々と準備に奔走しなくてはいけないから。
「起きて、菜那ちゃん」
「ん~。にいに」
「そうだよ、にいにだよ。早く起きないと朝ごはん、なくなっちゃうかも」
そう脅すと、菜那ちゃんはパチッと目を開けた。人間の本能は凄いな。まあ食欲が睡眠欲に勝っている時点で、もう十分に休息は取れているということだけど。
「ごはん! ごはん!」
すっかり覚醒して、おパンツのまま歩き出す。
と。その内腿の辺りに何かが垂れた跡のようなものが見えた。ん? なんだ、アレ。それに……変なニオイが。
「ん~?」
つい菜那ちゃんのおパンツを凝視してしまって。お股の所が黄色くなっているのを見つけた。
「あ」
そうか。このくらいの子供だと「おねしょ」とかいう突発イベントがあるのか。
「な、菜那ちゃん!」
呼び止めると、キョトンとした顔で振り返った。おしっこが垂れてるなら歩き回られると非常に困る。俺はすぐさま彼女が寝ていた辺りに視線をやり……あれ? 色が着いてないな。気のせい……なワケないよな。
菜那ちゃんが元寝ていたベッドを見やる。
立ち上がり、そちらを検めると……ぐっしょりだった。黄色い染みが広範囲に広がり、アンモニア臭もすごい。
菜那ちゃんの方を見る。気まずそうに視線を逸らされた。
「菜那ちゃん、おねしょしたの?」
「……」
「菜那ちゃん?」
「ななちゃん、しらない」
なっ!? 平然と嘘をつかれた。
これだけ状況証拠が揃っていれば、普通は認めざるを得ないハズだが……そうか、それは大人の理論か。子供は、ここからでも誤魔化せると思うらしい。
「菜那ちゃん?」
「しらない。にいに」
「ええ!?」
あまつさえ、俺に濡れ衣を着せてきた。
「菜那ちゃん、俺はずっと下で寝てたんだよ? ベッドには入ってない」
「……」
「菜那ちゃん?」
「だれか、しらないひとが……」
「知らない人が入ってきて、菜那ちゃんのベッドでおねしょしたの?」
「…………うん」
長い間をおいて肯定した。嘘をつく後ろめたさは一応あるみたいだが。
「……」
どうしたものか。認めなさいと強く言うのもな。さりとて、その場しのぎの嘘で成功体験を積ませてしまうのも絶対よろしくはないだろう。4歳なのは今日だけなのだから、教育とか考える必要もないのかも知れないけど。でもなあ。
「にいに。ごはん」
話を変えたがってるな。
と、不意に。妙案が浮かんだ。
「そうか。知らない人が入ったのか。じゃあ警察、お巡りさんに言わないとな」
「……え?」
「それに周りのお家にも、変な人が近くに居るって教えに行かないと。大変なことになってしまうな」
「え? え?」
「菜那ちゃんしか、その知らない人は見てないからね。お巡りさんに説明できるかな? 1人で」
「……」
菜那ちゃんが、その小さな顔に絶望の色を浮かべた。青ざめるとはこの事か。あまりの分かりやすさに、思わず噴き出しそうになったが、なんとか堪えた。
「じゃあちょっと、にいに電話してくるね。お巡りさんに来てもらおうね」
そう言って、菜那ちゃんを追い抜いて、部屋を出ようとした時。俺のズボンの裾がクンと引っ張られる。振り返ると、小さな手が生地を掴んでいた。
「菜那ちゃん?」
「や。や」
「なにが嫌なの?」
「おまわりさん、や」
「……どうして?」
しゃがみこんで、菜那ちゃんの目を覗き込む。するとそこには、みるみると雫が溜まっていく。
「な、ななちゃんが……おねしょ」
「おねしょは、知らない人じゃなかったの?」
「ななちゃん! ななちゃんなの! う、ぐす……う、うわあああああああああん」
泣きだしてしまった。俺は彼女の小さな体をキュッと抱き締め、
「本当のことよく言えたね。えらいね」
髪を優しく撫でる。小さな手は俺のシャツの胸元をギュッと掴んだまま。
結局、菜那ちゃんが泣き止むまで、約3分ほどそうしていた。




