エピローグ:聖者の食卓、そして隣の家のレクイエム
あの日、僕の世界が一度崩壊してから、季節は二度巡った。
僕は大学四年生になり、卒業を間近に控えている。就職先は、父さんが役員を務める総合商社に決まった。コネだと言われればそれまでだが、誰も何も言わなかったし、僕自身も、家族が敷いてくれたレールの上を歩くことに何の疑問も抱かなかった。それが、僕を絶望の淵から救い出してくれた家族への、僕なりの誠意だと思っていたからだ。
僕の日常は、驚くほど平穏だ。
大学の友人たちとの関係は良好で、ゼミの教授からの評価も高い。サークル活動も順調で、たまに後輩の女の子から告白されることもあるけれど、すべて丁重にお断りしている。まだ、誰かと深く関わる気にはなれなかった。
傷が完全に癒えたわけではない。時々、ふとした瞬間に、雨の匂いやホテルのネオンが脳裏をよぎることがある。そのたびに、胸の奥が鈍く痛む。でも、その痛みはもう、僕の日常を脅かすほどのものではなかった。それは、治りかけの傷跡が時々疼くのに似ていた。
そして、僕の隣には、いつも家族がいた。
父さんは、僕が就職する会社のことを楽しそうに話してくれる。
母さんは、社会人になる僕のためにと、新しいスーツを何着も仕立ててくれた。
兄さんは、「何か理不尽なことがあったら、すぐに俺に言え」と、相変わらず過保護だ。
姉さんは、「会社のセキュリティ、ザルだから気をつけてね。まあ、奏太のPCは私が守るから大丈夫だけど」と、頼もしいことを言ってくれる。
この温かい食卓、穏やかな会話。
これが、僕の守るべき世界。僕が還るべき場所。
僕は、この上なく幸せだった。
ある晴れた土曜日の昼下がり。
僕は自室の窓から、何気なく外を眺めていた。僕の部屋の窓からは、隣の白鐘家の庭がよく見える。かつては、その庭で栞と二人、日が暮れるまで遊んだものだ。
視線の先に、一つの人影があった。
車椅子に座り、ぼんやりと空を見上げている女性。付き添いのヘルパーさんらしき人が、その肩に優しくブランケットをかけている。
――白鐘栞。
それが、かつて僕が愛した幼馴染の、現在の姿だった。
あの日、僕の言葉で完全に心を閉ざしてしまった彼女は、今もあの時のまま、時が止まっているのだという。両親のことも認識できず、ただ時々、虚空に向かって「ごめんなさい」と呟くだけ。
彼女の両親は、今も僕たち家族に会うたびに、申し訳なさそうに頭を下げる。娘が壊れてしまった明確な理由が分からないまま、ただ、僕に捨てられたショックのせいだろうと思い込んでいるようだった。
その姿を見ても、僕の心は不思議なほど凪いでいた。
可哀想だとは思う。悲しい結末だとも思う。
でも、それだけだった。かつて感じた愛情も、裏切られた憎しみも、今はもう、どこにもない。まるで、遠い国の悲しい物語を読んでいるかのような、他人事の感慨。
ふと、庭で車椅子を押していたヘルパーさんと目が合った。彼女は僕に向かって、小さく会釈をした。僕も、無意識に会釈を返していた。
その瞬間、車椅子に座る栞の瞳が、ほんの少しだけ動いた気がした。僕の姿を、認識したかのように。
彼女の唇が、微かに動く。声にはなっていない。でも、僕にはその唇の形が、はっきりと読み取れた。
『……ゆるさないで』
その言葉を最後に、彼女はまた、虚ろな瞳で空を見上げた。
僕は、静かに窓のカーテンを引いた。
もう、見る必要はない。僕と彼女の世界は、もう二度と交わることはないのだから。
リビングに下りていくと、母さんが僕の好きなお菓子を用意して待ってくれていた。
「奏太、お疲れ様。少し休憩しましょうか」
「うん、ありがとう、母さん」
温かい紅茶の湯気が、優しく立ち上る。ソファには、新聞を読んでいた父さん、スマホをいじっていた兄さん、タブレットで絵を描いていた姉さんが、僕に気づいて顔を上げた。
いつもの、僕の愛する家族の顔。
「そういえば、奏太」
父さんが、新聞から顔を上げて言った。
「君を騙した、あの大学教授。久遠寺とか言ったか。数ヶ月前に、多額の負債を苦に、自ら命を絶ったそうだ」
そのニュースを、まるで今日の天気の話でもするかのように、父さんは淡々と告げた。
「まあ、自業自得ですわね」
母さんが、紅茶を淹れながら静かに言う。
「奏太を傷つけたんだ。それくらいの報いは当然だろう」
兄さんが、吐き捨てるように言った。
「地獄で後悔すればいいんだよ、永遠にね」
姉さんが、楽しそうに笑った。
家族の言葉を聞きながら、僕は黙ってお菓子を口に運んだ。
久遠寺という男の死。
それを聞いても、僕の心には何の感情も浮かばなかった。栞の姿を見た時と同じ。それはもう、僕の人生とは何の関係もない出来事だった。
そうか。
僕の知らないところで、僕の家族は、僕のために「掃除」をしてくれていたのだ。
僕の心の平穏を脅かす、すべてのゴミを。
論文盗用、脱税、女性問題。あの男が社会的に抹殺された原因のすべては、おそらく、この食卓にいる僕の愛する家族が仕組んだことなのだろう。彼らなら、それができる。
そして、栞への罰。
僕が彼女に告げた「無関心」という名のナイフは、家族が完璧に整えてくれた舞台の上で、僕が振り下ろしたものだったのだ。彼らが栞を決して責めず、「良き隣人」であり続けたからこそ、僕の「無関心」は、彼女の心を破壊するほどの威力を持った。
僕は、すべてを知っていた。
見て見ぬふりをして、気づかないふりをしていただけだ。
この甘美で穏やかな日常が、家族の歪んだ愛情と、冷酷な復讐の上に成り立っていることを。
僕は、聖人君子なんかじゃない。
ただ、家族という名の悪魔たちに愛された、一人の男なのだ。
そして、その悪魔たちの庇護が、心の底から心地よいと感じてしまっている、共犯者なのだ。
「奏太?どうしたの、ぼーっとして」
母さんの声に、はっと我に返る。
「ううん、何でもない。このお菓子、すごく美味しいね」
僕がそう言って笑うと、父さんも、母さんも、兄さんも、姉さんも、みんな幸せそうに笑ってくれた。
これが僕の幸せ。僕の世界。
隣の家からは、今日も静かな鎮魂歌が聞こえてくるような気がした。
でも、僕はもう、二度とカーテンを開けることはないだろう。




