天羽家・家族の肖像~我が愛しき奏太へ~
これは、天羽奏太がまだその身に降りかかる悲劇を知る由もなかった、ある平穏な日の出来事の断片。そして、彼を「世界で一番幸せな人間」にするためならば、悪魔にさえなることを厭わない家族の、歪で純粋な愛情の記録である。
父:天羽 龍聖の場合
大手総合商社の専務取締役室。重厚なマホガニーのデスクに座る天羽龍聖は、部下から上がってきた数十億円規模のプロジェクトの最終決裁書に目を通していた。彼のサイン一つで、莫大な金と人が動く。その重圧をものともしない冷徹な表情は、社内で「氷の帝王」と畏怖される彼の異名そのものだった。
「――以上です、専務」
部下が緊張した面持ちで説明を終える。龍聖はしばらく黙って書類を眺めていたが、やがて内線電話の受話器を取った。
「秘書室か。すまないが、今日の午後の予定をすべてキャンセルしてくれ。ああ、最重要案件だ」
「専務!?よろしいのですか、午後は中東の石油王との会談が……」
慌てる部下を、龍聖は冷たい一瞥で黙らせた。
「それよりも重要な案件が発生した。君は、このプロジェクトの担当から外れてもらう。後任は追って連絡する」
「そ、そんな……!私が何か、不手際を……!?」
青ざめる部下に、龍聖は静かに告げた。
「君が先日提出した報告書、奏太に少し見せてみたのだよ」
「そ、奏太様……でございますか?」
奏太。龍聖の最愛の息子であり、この会社の誰もがその名を知る、天羽家の絶対的な聖域。部下の背中に、嫌な汗が伝った。
「ああ。うちの奏太は本当に優しくてな。『この人の報告書、なんだかとても疲れているみたい。きっと、すごく頑張っているんだね』と言っていたよ」
龍聖は、そこで言葉を切った。そして、氷の帝王の名にふさわしい、絶対零度の笑みを浮かべる。
「――私の可愛い奏太に、心配をかけるとはな。万死に値するとは思わんかね?」
その瞬間、部下は己のキャリアが完全に終わったことを悟った。龍聖にとって、会社の利益や国家間の取引など、息子の心の平穏の前では塵芥にも等しい。彼の世界の中心は、常に天羽奏太、ただ一人なのだから。
母:天羽 玲花の場合
都内でも有数の高級住宅街。その一角に佇む瀟洒な邸宅で、天羽玲花は上品な茶会を主催していた。集まっているのは、いずれも名家の夫人たち。玲花は、その社交界の中心に君臨する、誰もが憧れる存在だった。
「玲花様のお庭は、いつ拝見しても素晴らしいですわね」
「この紅茶、どちらのものですの?香りがとても豊かで……」
夫人たちの賞賛の言葉を、玲花は聖母のような微笑みで受け流していた。彼女の関心は、そんな世辞にはない。
「そういえば、先日、うちの奏太が大学のレポートで少し困っておりまして」
玲花が何気なく切り出した話題に、その場にいた全員が聞き耳を立てる。
「経済学のレポートだそうなのですが、参考文献にしたい本が、国会図書館にしかない貴重なものだとか。あの子、本当に真面目ですのよ。どうしたものかしら、と悩んでおりましたの」
その夜。
玲花の言葉を聞いていた財務大臣の妻は、夫に「玲花様がお困りのようなの。何とかならないかしら」と囁いた。
翌日、国会図書館の館長のもとに、大臣秘書官から一本の電話が入る。「天羽奏太という学生が来館したら、最大限の便宜を図るように」と。
さらにその翌日には、玲花の元へ、その貴重な文献の初版本そのものが、「とある収集家」からの寄贈という形で届けられた。
玲花は届けられた本を優しく撫でながら、満足げに微笑んだ。
「これで、奏太が少しでも楽にレポートを書けるわね」
彼女にとって、社交界とは、愛する息子の進む道を平坦にするための道具に過ぎない。噂という名の糸を操り、権力者たちを人形のように動かす。すべては、奏太がほんの僅かも「不便」を感じることなく、快適に生きていくため。そのための布石を打つことに、彼女は一切の労力を惜しまなかった。
兄:天羽 凱斗の場合
警察庁の一室。天羽凱斗は、膨大な資料の山と格闘していた。彼は、史上最年少でキャリア組の要職に就いたエリート中のエリート。その頭脳は、常に国家の治安維持のために使われるはずだった。
「……警視正、こちらのサイバーテロ対策の件ですが」
部下が恐る恐る声をかける。凱斗はPCの画面から目を離さず、短く答えた。
「後だ。今はそれどころじゃない」
彼が鬼気迫る表情で睨みつけていたのは、テロ組織の活動記録ではなかった。それは、奏太が所属する大学の、全学生の名簿と個人データだった。
「よし、リストアップ完了」
凱斗は小さく呟くと、数名の学生の顔写真と名前をプリントアウトした。彼らは、大学内で素行が悪いと噂の学生たち。いわゆる「要注意人物」だ。
「こいつらが、万が一にも奏太に接触しないよう、徹底的にマークしろ。些細な接触でもいい、何かあればすぐに報告を。必要であれば、別件でしょっ引いて、物理的に隔離することも躊躇うな」
「は、はあ……承知いたしました」
部下は、上司の常軌を逸した命令に戸惑いながらも、頷くしかなかった。凱斗にとって、国家の安全保障よりも、弟・奏太の学園生活の安全の方が、遥かに優先順位が高いのだ。
彼の正義は、法の遵守ではない。弟の半径数メートル以内に、いかなる脅威も存在させないこと。それが、彼の警察官僚としての、唯一絶対の職務だった。スマホの待ち受け画面に設定された、幼い頃の奏太の笑顔を見つめながら、凱斗は誰にも聞こえない声で呟く。
「お前の平穏は、兄ちゃんが必ず守ってやるからな……」
姉:天羽 詩月の場合
イラストレーター「Shizuku」として活動する天羽詩月の部屋は、ファンが見れば卒倒するであろう夢の空間だ。壁一面に飾られた自作のイラスト、最新鋭の機材、そして中央には巨大な作業用デスク。しかし今、彼女がそのデスクで向き合っているのは、イラスト制作ソフトではなかった。
画面に映し出されているのは、無数のコードが滝のように流れる、漆黒のコンソール画面。彼女の指が、常人には捉えられない速度でキーボードを叩いていく。
「ふーん、奏太のやつ、最近このオンラインゲームにハマってるんだ。……なになに、チームのメンバーに、やたらと奏太に暴言を吐く奴がいる、っと」
詩月の目が、すっと細められる。彼女の弟は、誰かに罵倒されることなど、決してあってはならない聖域だ。
「アカウント名は『Viper』。IPアドレスは……ここか。よし、特定完了。さーて、お仕置きの時間だよ」
数分後。
オンラインゲーム内で、奏太に対して暴言を吐いていたプレイヤー『Viper』のアカウントが、突如として凍結された。それだけではない。彼のPCは凶悪なウイルスに感染し、スマホは鳴り止まない迷惑電話の嵐に見舞われ、SNSのアカウントはすべて乗っ取られて、恥ずかしいポエムを延々と投稿し始めた。
デジタル社会における、完全な「死」。
「まったく、奏太に近づく害虫は後を絶たないんだから」
詩月は楽しそうに笑うと、今度は奏太のゲームアカウントにこっそりとアクセスし、誰も手に入れたことのない超レアアイテムを数十個、彼のインベントリに送り込んだ。
「これで、明日ログインした奏太は喜ぶかな」
弟の笑顔を想像し、彼女は満足げに伸びをする。彼女の持つ世界最高峰のハッキング技術は、国家の機密を暴くためでも、富を得るためでもない。ただひたすらに、愛する弟の日常を少しだけ楽しく、そして彼を脅かす害虫を駆除するためだけに存在するのだ。
天羽家にとって、天羽奏太は信仰そのものだった。
彼の笑顔が、彼らの世界の法であり、秩序だった。
そして、その信仰を脅かす存在が現れた時、彼らは躊躇なく、その身を悪魔に変える。
まだ、誰も知らない。
この歪で、純粋で、絶対的な愛情が、やがて一人の男を社会から抹殺し、一人の少女の精神を永遠の地獄に突き落とすことになるということを。




