裏切った幼馴染の独白~あなたの隣で、私は静かに壊れていく~
私の名前は白鐘栞。天羽奏太の、元・幼馴染で、元・恋人。
奏太の優しさは、私にとって空気のようなものだった。生まれた時から隣にあって、吸うのが当たり前。その存在に感謝することなんて、一度もなかった。彼が私に向けてくれる絶対的な信頼と愛情を、私は自分の魅力の証明か何かのように勘違いしていたのだと思う。傲慢で、愚かで、どうしようもない子供だった。
大学に入り、私の世界は広がった。新しい友人、新しい知識、新しい価値観。すべてが新鮮で、きらきらと輝いて見えた。そんな中で出会ったのが、ゼミを担当する久遠寺雅臣教授だった。
彼は、奏太とは正反対の人間だった。落ち着いた物腰、知的な会話、時折見せる大人の色気。奏太の、どこかおっとりとした優しさとは違う、私の知らない世界をたくさん知っている人。
「白鐘さんのレポートは、いつも視点がユニークで素晴らしい。君のような聡明な女性と話していると、時間を忘れてしまうよ」
二人きりの研究室で、彼は私の手を取り、うっとりとした目で見つめながらそう言った。彼の言葉は、まるで魔法のようだった。奏太はいつも「栞はすごいなあ」と褒めてくれるけれど、それはまるで妹を褒めるような、温かいけれど平凡な言葉。でも、久遠寺教授の言葉は違った。私を「一人の成熟した女性」として特別扱いしてくれる、甘く痺れるような毒だった。
私は、その毒に喜んで身を委ねた。奏太への罪悪感がなかったわけではない。でも、「これは恋愛じゃない。ただの知的な交流。憧れの気持ち」と、私は必死に自分に言い聞かせた。奏太の優しさを退屈だと感じ始めていた私は、刺激的な非日常に飢えていたのだ。
そして、ある雨の日。ゼミの仲間たちとの飲み会の後、私は久遠寺教授と二人になった。
「もう少し、君と話がしたい」
そう囁かれ、彼の大きな傘の中に招き入れられた時、私はもう、後戻りできないことを悟っていた。彼の腕に身を委ね、ホテル街へと歩きながら、私は高揚感と罪悪感の狭間で溺れそうになっていた。これが、大人の恋なのだと錯覚していた。
あの時、道の向こう側で、ずぶ濡れのまま立ち尽くす奏太の姿があったことなど、私は知る由もなかった。
奏太にすべてがバレたのは、それから数日後のことだった。
「栞、少し話がある」
彼の部屋に呼ばれた瞬間、空気が違うことに気づいた。いつもは温かい日だまりのような彼の部屋が、ひどく冷え切って感じられた。彼は、あの雨の日に見た光景を、静かな声で語った。
私の頭は真っ白になった。言い訳も、嘘も、何も出てこない。ただ、涙だけが溢れてきて、私は子供のように泣きじゃくりながら、すべてを認めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、奏太……!」
何度も、何度も、同じ言葉を繰り返すしかできなかった。
怒鳴られると思った。罵られると思った。軽蔑した目で見られると、覚悟していた。
けれど、奏太はただ、静かに私を見つめていた。彼の瞳から、いつもの優しい光が完全に消え失せている。そこにあるのは、底なしの諦観と、私にはもう届かないどこか遠くを見ているような、虚無の色だけだった。
「そっか」
たった一言。その言葉が、私たちの二十一年間のすべてに終わりを告げた。
「別れよう」。そう言われた時、私はようやく、自分が何を手放してしまったのかを理解した。空気だと思っていたものは、私が生きていくために不可欠な酸素だった。当たり前だと思っていた日常は、彼のかけがえのない愛情によって支えられていた奇跡だった。
後悔が、津波のように私に押し寄せた。でも、もう遅い。私は、自分の手で、世界で一番大切な宝物を捨ててしまったのだ。
その夜から、私の地獄は始まった。
それは、私が想像していたような、炎に焼かれるような地獄ではなかった。もっと静かで、冷たくて、終わりの見えない地獄。
天羽家からの報復を、私は覚悟していた。龍聖おじ様は見た目こそ紳士的だが、奏太のこととなると人が変わることを知っていたし、玲花おば様の静かな怒りは何よりも怖い。凱斗さんや詩月さんも、可愛い弟を傷つけた私を許すはずがない。
いつ怒鳴り込まれてもいいように、いつ両親にすべてが暴露されてもいいように、私は毎日部屋の隅で膝を抱え、ただ怯えていた。
でも、一日経っても、三日経っても、一週間経っても、何も起こらなかった。
それどころか、天羽家の態度は、あまりにも「普通」だった。
大学へ向かう途中、庭で花の手入れをしていた玲花おば様に声をかけられた。私は心臓が止まるかと思うほど驚き、身を固くした。
「あら、栞ちゃん、おはよう。顔色が優れないけれど、大丈夫?」
その声には、棘のかけらもなかった。ただ、隣の家の娘を心配する、いつもの優しい声。私はしどろもどろになりながら「だ、大丈夫です」と答えるのが精一杯だった。彼女はにっこりと微笑むと、「そう?無理しちゃだめよ」と言って、また花の手入れに戻っていった。
私の犯した罪など、まるで存在しないかのように。
週末には、私の父が龍聖おじ様とゴルフに出かけていった。玄関先で談笑する二人の姿は、数週間前と何も変わらなかった。
スーパーからの帰り道、凱斗さんとすれ違った。彼は一瞬私を見て、そして「よっ」と軽く手を挙げただけだった。
詩月さんからは、『新作のゲームが出たから、今度うちに遊びに来なよ!』と、楽しげなスタンプ付きのメッセージまで届いた。
なぜ?
どうして?
どうして誰も、私を責めないの?
どうして誰も、私を怒らないの?
どうして、みんな、そんなに優しいの……?
その変わらない優しさが、私を恐怖のどん底に突き落とした。
彼らは私を許したわけではない。そう悟った時、全身の血の気が引いた。彼らは、私を「罰する価値もない存在」だと判断したのだ。私の裏切りは、彼らの愛する奏太の人生にとって、道端の小石ほどの意味も持たないと、そう言われているようだった。
彼らの優しさは、分厚くて透明な壁になった。私はその壁の向こう側で繰り広げられる、天羽家の温かい日常を、ただ眺めることしかできない。かつては当たり前のようにその中にいたはずの私が、今はもう、完全に異物として排除されている。彼らは私に笑いかける。でも、その笑顔は決して、壁のこちら側には届かない。
そんな私の精神状態などお構いなしに、世界は動いていく。久遠寺教授が、あらゆるスキャンダルで社会的に抹殺されたというニュースが世間を騒がせた。錯乱した彼から「お前のせいだ!」と罵倒の電話がかかってきても、私の心は少しも動かなかった。そんなことは、もうどうでもよかった。私の恐怖の源は、そんな男ではない。私の地獄は、すぐ隣の、あの温かい光が灯る家にあるのだから。
私は日に日に憔悴していった。食事の味も分からなくなり、夜も眠れなくなった。両親は私の変化に戸惑い、心配してくれるが、私には何も説明できなかった。
「隣の家の人が、私に優しくしてくれるのが怖いんです」
そんな狂人の戯言を、誰が信じてくれるだろう。
気づき始めていた。
これこそが、私に与えられた罰なのだと。
誰からも責められず、誰からも憎まれず、ただただ「良き隣人」としての変わらない優しさの中に放置されること。その優しさに触れるたびに、自分の犯した罪の重さを繰り返し突き付けられ、永遠に苛まれ続けること。
それは、あまりにも残酷で、あまりにも完璧な復讐だった。
ある夜、私は自室の窓から、隣の家のリビングを眺めていた。
そこには、ソファに座って楽しそうにテレビを見ている天羽家の家族の姿があった。奏太が何か冗談を言ったのか、玲花おば様が笑いながら彼の肩を叩いている。龍聖おじ様も、凱斗さんも、詩月さんも、みんな幸せそうに笑っていた。
かつては、私もあの輪の中にいた。奏太の隣に座って、一緒に笑っていた。
あの温かい光は、もう二度と私を照らすことはない。
私は、自分の手で楽園を追放されたのだ。そして、その楽園のすぐ隣で、永遠にその光を眺め続けるという刑に処されたのだ。
静かな涙が、私の頬を伝って落ちた。
私の贖罪は、まだ始まったばかりだった。そして、この地獄に終わりが来ることは、おそらく、もう二度とないのだろう。




