第四話 贖罪の鎮魂歌(レクイエム)、君が望んだ新しい関係
私の精神を繋ぎとめていた最後の糸は、ある豪雨の夜、唐突に、そしてあっけなく切れた。
罪悪感と後悔、そして逃れられない日常という名の地獄。その中で、私の心はもう限界だった。玲花おば様の優しい笑顔も、龍聖おじ様の豪快な笑い声も、凱斗さんの不器用な気遣いも、詩月さんの屈託のない誘いも、すべてが私を裁くための道具にしか見えなくなっていた。
降りしきる雨音に導かれるように、私は傘も差さずに家を飛び出した。冷たい雨粒が全身を叩き、思考を鈍らせていく。気づけば私は、隣の家――天羽家の玄関の前に、亡霊のように立ち尽くしていた。インターホンを鳴らす勇気も、ドアを叩く力もなかった。ただ、この家の明かりを見つめていることしかできなかった。
「……あら?」
玄関のドアが静かに開き、中から漏れる温かい光とともに、玲花おば様が顔を覗かせた。びしょ濡れで立ち尽くす私を見て、彼女は驚いたように目を丸くした。
「栞ちゃん!?どうしたの、そんなに濡れて……!」
その声には、心からの心配の色が滲んでいた。その純粋な気遣いが、私の最後の理性を粉々に打ち砕いた。
私は、足元の水たまりも構わず、その場に崩れ落ちるように土下座をした。額を冷たいコンクリートに擦り付け、喉の奥から絞り出すように叫んでいた。
「お願いです、おば様……! 私を、私を許さないでください!」
雨音に負けないよう、必死に声を張り上げる。
「奏太にしたことを、怒ってください! 私を罵ってください! 軽蔑して、殴ってください! お願いします! どうか、私に罰を与えてください!」
懇願。それは、私の魂からの叫びだった。罰せられることでしか、私はこの終わらない苦しみから解放されない。そう、確信していた。
しかし、玲花おば様から返ってきたのは、予想していた怒りや軽蔑ではなかった。ただ、心底困ったような、優しい声だった。
「まあ、栞ちゃん、何を言っているの。そんなことより、ひどい雨だわ。風邪をひいてしまうわよ。さあ、中に入って。温かいココアでも淹れてあげるから」
そう言って、彼女は私を立たせようと、そっと腕に手を添えた。
そのどこまでも変わらない、底なしの優しさ。それが、私への最終宣告のように響いた。ああ、駄目だ。この人たちは、決して私を裁いてはくれない。私の罪を、認めてはくれない。絶望が、冷たい水のように心の底から湧き上がってくる。
その時だった。
リビングのドアが開き、パジャマ姿の奏太が静かに出てきた。玄関でのやり取りが聞こえていたのだろう。彼は、私と玲花おば様を交互に見て、少しだけ眉を寄せた。
彼だ。彼しかいない。最後の望みをかけて、私は玲花おば様の手を振り払い、奏太の足元にすがりついた。濡れた髪が彼のスリッパを汚すのも構わなかった。
「奏太……! お願い、私を嫌って……! 憎んでよ! あの頃みたいに、怒った顔でも、悲しい顔でもいいから……お願いだから、私を見て……!」
昔みたいに。
私だけを見てくれていた、あの頃みたいに。
彼の感情を、私に向けてほしかった。それがたとえ、憎しみという負の感情であったとしても。無関心よりは、千倍も、一万倍もマシだった。
奏太は、しばらくの間、何も言わずに私を見下ろしていた。その瞳は、やはり静かで、何の感情も揺らめいていない。まるで、道端で鳴いている野良猫でも見るような、そんな瞳だった。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。その声は、静かだったけれど、残酷なほどにはっきりと、私の鼓膜を震わせた。
「ごめん、栞」
謝罪の言葉。けれど、その響きには何の温度もなかった。
「もう君を見ても、何も感じないんだ。嬉しいとか、悲しいとか、腹が立つとか、そういうのが、全部ない。君が誰かと腕を組んでいようと、泣いていようと、僕の心はもう、何一つ動かない」
彼の言葉一つ一つが、見えない氷の刃となって私に突き刺さる。
「君は僕にとって、もうただの『隣の家に住んでいる、白鐘さん家の栞ちゃん』だよ。それ以上でも、それ以下でもない」
『隣の家に住んでいる、白鐘さん家の栞ちゃん』。
それは、私が奏太の恋人になるずっと前の、私たちの関係性。でも、彼の口から発せられたその言葉は、昔の温かい響きを一切持っていなかった。それは、赤の他人に対する説明と、何ら変わりない響きだった。
愛されることも、憎まれることもない。
彼の世界の中で、私の存在が完全に「無」になったことを、私は悟った。
私が望んだ罰は、決して与えられない。代わりに与えられたのは、永遠に続く「無関心」という名の地獄。その事実が、私の心を完全にへし折った。
「あ……あ……」
言葉にならない声が、喉から漏れる。奏太の足にすがりついていた指先から、力が抜けていく。視界が急速に白んでいき、意識が遠のいていくのが分かった。糸が切れた操り人形のように、私はその場に泣き崩れ、そのまま心を閉ざした。
奏太が私を見ることは、もう二度となかった。彼は私に背を向けると、心配そうにこちらを見ていた母さんの肩を抱き、「母さん、あとは僕に任せて。白鐘さんちに連絡するから」と静かに告げ、リビングへと戻っていった。その背中は、もう二度と私の方を振り返ることはなかった。
◇
それから、僕は白鐘家に連絡を入れた。すぐに駆けつけてきた栞の両親は、玄関先で泣き崩れて虚空を見つめる娘の姿を見て、言葉を失っていた。
母さんが差し出したタオルで娘の体を拭いながら、栞のお母さんは何度も僕たちに頭を下げていた。
「申し訳ありません、奏太くん、玲花さん……。娘が、こんなご迷惑を……」
「いいえ、お気になさらないでください。栞ちゃん、きっと疲れているのですよ」
母さんの声は、最後まで優しかった。
白鐘さん夫婦に抱えられるようにして、栞は自分の家に帰っていった。その目は、最後まで焦点が合っていなかった。
彼女の心は、あの夜、完全に壊れてしまったのだという。専門の病院に通っているが、回復の兆しは見えないらしい。ただ、時々、「ごめんなさい、許さないで」と、虚空に向かって呟き続けるのだと、後日、母さんから聞いた。
栞の両親は、娘が壊れてしまった明確な理由が分からないまま、ただ戸惑い、悲しみ、そして変わらず優しく接してくれる僕たち天羽家に対して、申し訳なさそうに笑うだけだった。
僕は、大学に通い、友人たちと笑い、家族と食卓を囲む日常を送っている。
久遠寺という男が社会的に抹殺され、廃人同様になったという噂を耳にしても、もはや何も感じなかった。それは僕の知らない、遠い世界の出来事だった。
僕の平穏は、僕を溺愛する家族という、最強の城壁によって守られている。彼らが僕の知らないところで何をしたのか、薄々気づいてはいた。けれど、僕は何も聞かなかった。彼らが僕のためにしてくれたことを、僕は静かに受け入れるだけだ。
時々、窓から隣の家が見える。
二階の窓辺に、ぼんやりと外を眺める栞の姿が見えることがある。
かつて愛した幼馴染。僕の世界のすべてだった女の子。
でも、今の僕にとって、彼女はもう、風景の一部でしかない。
僕はカーテンを閉め、新しい未来へと歩き出す。
隣の家からは、理由も分からぬまま壊れてしまった娘を抱きしめる家族の、静かで、そして悲しい嗚咽が、今日も微かに聞こえてきていた。




