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聖人君子の僕を裏切った幼馴染へ。家族からの復讐は極上らしいけど、君への罰は「無関心」という名の永遠の地獄です  作者: ledled


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第三話 不協和音(ディソナンス)、隣人関係という名の牢獄

私、白鐘栞の世界は、天羽奏太を裏切ったあの日から、音を立てて歪み始めた。

奏太にすべてを告白し、別れを告げられた夜。私は自分の部屋でただ、泣き続けた。幼い頃から当たり前のように隣にいた彼の存在が、どれだけ大きかったのかを、失って初めて思い知った。彼の無限だと思っていた優しさに、私はどれだけ甘えきっていたのだろう。


知的で紳士的な久遠寺教授に惹かれたのは事実だった。子供っぽいところがない、大人の余裕。奏太にはないその魅力に、私は舞い上がってしまった。一度だけの過ち。そう自分に言い聞かせていたけれど、その一度が、取り返しのつかない罪だということから目を背けていたのだ。奏太の、あの何もかも諦めたような静かな瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。


翌日から、私は終わりの見えない恐怖に苛まれることになった。

奏太の家族――天羽家からの報復を、ただひたすらに待ち続けた。


奏太を深く傷つけたのだ。彼の両親である龍聖おじ様や玲花おば様、兄の凱斗さん、姉の詩月さん。皆、奏太のことを目に入れても痛くないほど可愛がっていることを、私は誰よりも知っている。その宝物である奏太の心を、私は粉々に砕いたのだ。

何をされても文句は言えない。罵声を浴びせられ、軽蔑され、二度と家の敷居を跨ぐなと絶縁を言い渡されるだろう。もしかしたら、私の両親も呼び出されて、私の犯した罪をすべて暴露されるかもしれない。当然の報いだ。私は、そのための覚悟を、必死に作り上げていた。


けれど、私の覚悟は、まったく意味をなさなかった。予想していた非難の嵐は、いつまで経ってもやってこない。それどころか、天羽家の態度は、以前と何一つ変わらなかったのだ。


数日後、大学へ向かう道で、奏太とすれ違った。心臓が凍りつくかと思った。痩せて、少し顔色が悪かったけれど、彼の足取りはしっかりしていた。私に気づいた彼は、一瞬だけ足を止め、そして、いつも大学で会った時と同じように、小さく会釈をして通り過ぎていった。

その瞳には、私が恐れていた憎しみも、期待していた悲しみも、何も映っていなかった。まるで道端の石ころでも見るような、完璧な無関心。その眼差しが、どんな罵声よりも鋭く私の胸を抉った。


そして何より恐ろしかったのは、彼の家族の態度だった。


「あら、栞ちゃん、こんにちは。大学、頑張っている?」


ある日の午後、自宅の庭で花の手入れをしていた玲花おば様が、私を見つけて聖母のような微笑みを向けた。私は身を固くし、どんな言葉を投げつけられるのかと身構えた。


「は、はい……おば様、あの、私は……」

「これ、アップルパイを焼いたのだけど、少し焼きすぎちゃったみたいなの。よかったら、お母様と一緒に召し上がって。奏太も好きなんだけど、最近は甘いものより和食の気分みたいで」


そう言って、玲花おば様は温かいパイの包みを、何の躊躇もなく私の手に持たせた。「奏太」の名前を、あまりにも自然に口にしながら。その笑顔には、以前と変わらない、隣人の娘に向ける親愛の色しか浮かんでいなかった。謝罪の言葉を切り出すタイミングを、私は完全に失ってしまった。


週末には、私の父が上機嫌でゴルフバッグを担いで家を出ていった。龍聖おじ様に誘われたのだという。帰宅した父は「いやあ、龍聖さんは本当に豪快で面白い人だな!」と満足げに笑っていた。

家の前で偶然会った凱斗さんは、「よっ、栞。最近元気ないんじゃないか?ちゃんと飯食えよ」と私の頭を軽く撫でていった。詩月さんも、買い物帰りに「あ、栞じゃん。今度うち遊びに来なよ。新作のゲーム、面白いよ」と屈託なく笑いかけてきた。


おかしい。何かが、明らかにおかしい。

まるで、私と奏太が別れた事実など、天羽家の誰も知らないかのように。

まるで、私が彼らの愛する息子を裏切った罪など、彼らにとっては取るに足らない些細な出来事であるかのように。


この完璧すぎる「日常」と、底なしの「優しさ」が、私をじわじわと追い詰めていった。

怒ってくれれば、どれだけ楽だっただろう。

「あなたのせいで奏太は傷ついた」と、私を糾弾してくれれば、どれだけ救われただろう。

そうすれば、私は心置きなく罪人として跪き、許しを請うことができたのに。


天羽家全員が向ける穏やかな眼差しは、見えないガラスの牢獄となって、私の精神を少しずつ、しかし確実に蝕んでいった。彼らの優しさに触れるたび、私の犯した罪の重さが、何倍にもなって私の肩にのしかかってくる。彼らが私に笑いかけるたび、私は奏太のあの無感情な瞳を思い出し、呼吸が浅くなる。


そんな中、私の人生にもう一つの嵐が吹き荒れた。久遠寺教授のスキャンダルだ。

論文盗用、研究費不正流用、脱税、そして複数の女子学生との不適切な関係。ネットニュースは連日彼の話題で持ちきりで、大学は彼を懲戒免職処分にすると発表した。

ある夜、私のスマホに見知らぬ番号から着信があった。恐る恐る電話に出ると、耳をつんざくような怒声が響いた。


「お前のせいだ、白鐘さん!君と付き合ってから、何もかもうまくいかなくなった!君が誰かに話したんだろう!僕の人生をめちゃくちゃにしやがって!」


それは、すべてを失い、錯乱した久遠寺教授の声だった。以前の知的で落ち着いた面影はどこにもない、ただの醜い中年男の悲鳴だった。

けれど、その罵声を聞いても、私の心は不思議なほど何も感じなかった。同情も、罪悪感も、怒りも。私の意識は、そんなことよりもっと恐ろしいものに支配されていたからだ。


私の世界には、隣に住む「完璧な隣人」たちの、あの穏やかな笑顔しか存在しなかった。久遠寺教授がどうなろうと、私にはもう関係のないことだった。彼に惹かれたことさえ、遠い昔の出来事のように感じられた。


日に日に私が憔悴していく姿に、私の両親はひどく戸惑っていた。


「栞、どうしたんだ。最近、顔色が悪いぞ。ちゃんと食べているのか」

「奏太くんと別れたのが、そんなに辛いのかしら……。でも、天羽家の皆さんは、今でも私たちに良くしてくださるじゃないの」


そうなのだ。両親には、私の苦しみの根源が理解できない。奏太と別れたことは知っている。けれど、天羽家の態度が何も変わらない以上、彼らはそれがただの「若い二人の痴話喧嘩の延長」くらいにしか思っていないのだ。まさか娘が、その「変わらない優しさ」によって精神の崖っぷちに立たされているとは、夢にも思わないだろう。


私は誰にも、この恐怖を打ち明けられない。

「隣の家の人が、私に優しくしてくれるのが怖いんです」

そんなことを言ったところで、誰も信じてはくれないだろう。頭がおかしくなったのだと思われるだけだ。


天羽家は、私に復讐なんてしていない。

彼らはただ、何もせず、何も変えず、そこにいるだけ。


その「何もしない」という行為こそが、人間が考えうる限り最も残酷で、最も効果的な復讐なのだと、私は気づき始めていた。

私の罪は、誰からも裁かれない。だからこそ、私は永遠に許されない。

この穏やかな日常という名の地獄から、私を救い出してくれる者は、どこにもいなかった。毎晩、私は自分の罪の重さにうなされ、浅い眠りの中で、奏太の無感情な瞳と、天羽家の人々の優しい笑顔を、繰り返し見るのだった。

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