第二話 復讐の交響曲(シンフォニー)、鉄槌は静かに振り下ろされる
僕、天羽奏太の止まっていた時間は、家族という名の絶対的な庇護の下で、ゆっくりと動き始めていた。
あの日、僕がすべてを吐き出して眠りについた後、家族の溺愛は加速した。僕が引きこもっていた部屋のドアは常に開け放たれ、誰かが必ず僕の様子を見に来るようになった。
「奏太、今日の朝食はあなたの好きなフレンチトーストにしたわ。最高級のブリオッシュを取り寄せたのよ」
母の玲花は、まるで高級レストランのシェフのように、僕の好物ばかりを食卓に並べた。最初は砂を噛むようだった食事も、母さんの優しい笑顔に見守られながら口に運ぶうち、少しずつ味を感じるようになっていった。
「奏太、最新のVRゲーム機を買ってきた。少しは気が紛れるだろう」
仕事から帰宅した父の龍聖は、何でもないことのように高価なゲーム機を僕の部屋に置いた。僕が昔、欲しいと呟いたのを覚えていたらしい。無口だが、その行動一つ一つに深い愛情が込められているのが分かった。
「おい奏太、検察庁の食堂は意外と美味いんだぞ。今度、非番の日に連れて行ってやるから、それまでに少しは体力つけとけよ」
兄の凱斗は、ぶっきらぼうな口調で僕の頭をガシガシと撫でた。その不器用な優しさが、凝り固まった僕の心をじんわりと解かしていく。
「奏太ー、見て見て!次の仕事で描くキャラクターなんだけど、奏太に似てない?超イケメンに描いといたから!」
姉の詩月は、タブレットを片手に僕のベッドに潜り込んできては、他愛もない話で僕を笑わせようとしてくれた。
家族の温かさに触れるたび、僕は自分が一人ではないという当たり前の事実を、改めて噛みしめていた。僕の心を踏みにじったのは、たった二人の人間だ。でも、僕の周りには、僕のことを世界で一番大切に思ってくれる四人の家族がいる。
栞を失った悲しみや、裏切られた怒りが消えたわけではない。けれど、その黒い感情よりも、家族から注がれる愛情の方が、ずっと大きくて温かかった。
あの日から一週間が経った頃、僕は久しぶりに自室のクローゼットを開けた。
「……そろそろ、大学に行かないとな」
鏡に映った自分の顔は、少し痩せてはいたが、絶望に染まっていた数日前の顔とは違っていた。もう一度、前を向こう。家族がくれたこの平穏を、無駄にしたくなかった。
その頃、僕の知らない水面下では、世界で最も冷徹で緻密な復讐の交響曲が、静かに、しかし壮大に奏でられていた。
まず動いたのは、父・龍聖だった。
彼は都心に佇む、看板もない完全紹介制の料亭の一室にいた。彼の向かいに座るのは、日本最大の新聞社の主筆を務める旧知の男だ。
「龍聖さん、例のシンガポールの件、おかげさまで助かりました。それで、今日のお話とは?」
「ああ、礼には及ばん。それより、君のところの社会部に、面白いネタを提供しようと思ってね」
龍聖はそう言うと、懐から取り出したUSBメモリをテーブルの上に滑らせた。
「〇〇大学の久遠寺雅臣教授。彼の過去の論文に、海外の研究者の未発表論文からの明白な盗用が見つかってね。これは、その証拠データだ。裏取りは君たちの仕事だが、限りなく黒に近いと保証しよう」
主筆の男は、目の色を変えてUSBメモリを手に取った。天羽龍聖がもたらす情報は、常に正確無比で、巨大なスクープになることを経験則で知っていたからだ。
「これは……とんでもない話ですね。すぐに調査チームを立ち上げます」
「頼むよ。ついでに、彼の不透明な研究費の流れや、複数の教え子との不適切な関係についても調べてみるといい。きっと、面白い記事が書けるはずだ」
龍聖は、まるで天気の話でもするかのような気軽さで、久遠寺を社会的に抹殺するための第一の矢を放った。
同時刻、母・玲花は、都内最高級ホテルのロイヤルスイートで、優雅なティーパーティーを主催していた。集まっているのは、政財界の重鎮たちの夫人たち。この国の上流階級を裏で動かす、華やかな権力者たちだ。
「皆様、聞いてくださる?最近、とても胸を痛める噂を耳にしまして……」
玲花は、心底悲しそうな表情を浮かべ、細心の注意を払って言葉を選びながら口を開いた。
「うちの息子が通っております〇〇大学の、久遠寺という教授のことですの。とても優秀な方だと伺っておりましたのに、どうやら複数の女子学生と、教育者としてあるまじき関係をお持ちだとか……。中には、無理矢理だったというお話も聞こえてきて……」
その場にいた、〇〇大学の理事長の妻の顔がさっと青ざめる。文部科学省の事務次官の妻は、眉をひそめて玲花の話に聞き入っていた。
「まあ、怖い。そんな方が、若い学生たちの指導をなさっているなんて」
「うちの娘も、来年大学受験ですのに……」
玲花が投じた一石は、貴婦人たちのさざ波のような会話の中で瞬く間に増幅され、無視できない大波となって、大学上層部と監督官庁へと確実に届くことになった。「噂」という名の、最も効果的でたちの悪い武器を、彼女は完璧に使いこなしていた。
その翌日、警察庁の一室。
兄・凱斗は、部下の一人を自室に呼びつけていた。彼の机の上に置かれているのは、久遠寺雅臣の経歴書だ。
「この男、久遠寺雅臣。金の流れを徹底的に洗え。特に、数年前に遡って金の出入りをすべてだ。親族名義の口座も隈なく調べろ。おそらく、相当額の脱税を行っているはずだ」
凱斗の命令は、有無を言わせぬ響きを持っていた。部下は、彼の尋常ではない気迫に気圧されながらも、力強く頷く。
「それと、五年前に彼が起こした暴行事件。被害者との示談で不起訴になっているが、この示談の経緯に不審な点がないか、当時の担当者にもう一度話を聞け。圧力があった可能性も視野に入れろ。これは、警察庁キャリアとしての命令だ」
弟を傷つけた害虫を駆除するためなら、職権濫用も厭わない。彼の正義は、法ではなく、ただひたすらに弟・奏太の幸福にのみ奉仕していた。
そして、そのすべての復讐劇の「弾丸」を供給していたのが、姉の詩月だった。
彼女は、イラストレーターとしての華やかな表の顔とは別に、国家レベルのセキュリティさえ突破する伝説的なハッカー「Shizuku」という裏の顔を持っていた。
薄暗い自室。何枚ものモニターが怪しい光を放つ中、彼女の指が超高速でキーボードの上を舞う。大学のサーバー、久遠寺の個人PC、クラウドストレージ、SNSの裏アカウント。あらゆるデジタルデータが、彼女の前では無防備にそのすべてを晒け出していた。
「あーあ、出るわ出るわ、ゴミの山。栞ちゃんとのやり取りもキモいけど、他の子たちとの会話はもっと下劣……。パワハラの音声データまでご丁寧に保存してくれてるなんて、本当に親切な教授様だこと」
詩月は嘲るように呟くと、抽出したデータの中から、特に悪質で決定的な証拠だけを厳選し、匿名化処理を施していく。そして、それらのデータを、国内外の複数の匿名掲示板や、大手ゴシップサイトのリークフォームへと、一斉に送信した。発信元は巧妙に偽装され、その足跡は久遠寺自身のPCから発信されたかのように見せかけてあった。
「さあ、お祭りの始まりだよ、クズ教授。君が築き上げた砂の城が、どうやって崩れていくか、特等席で見物させてあげる」
詩月は楽しそうに笑いながら、エンターキーを強く、強く押し込んだ。
天羽家という四人の悪魔が仕掛けた完璧なコンビネーションにより、久遠寺雅臣の人生は、ある日を境に音を立てて崩壊を始めた。
最初に異変を感じたのは、大学での同僚や学生たちの視線だった。昨日まで尊敬の眼差しを向けてきていた彼らが、今は侮蔑と好奇の入り混じった冷たい視線を投げかけてくる。スマホを開くと、ネットニュースの速報が目に飛び込んできた。
『名門・〇〇大学の久遠寺教授に悪質な論文盗用疑惑!複数の研究者から告発の声』
血の気が引いた。あれは完璧に処理したはずだ。なぜ今になって。パニックに陥る彼の元へ、大学の事務室から一通の封書が届く。「懲戒委員会への出席を求める」という、事実上の死刑宣告だった。
追い打ちをかけるように、彼の自宅に国税局の査察官たちが乗り込んできた。金の流れを完璧に把握しているとしか思えない的確な指摘に、彼は何も言い訳ができなかった。
極めつけは、次々と送られてくる内容証明郵便だった。忘れていたはずの、遊び捨てた過去の教え子たち。その全員から、弁護士を通じて慰謝料を請求する訴訟を起こされたのだ。ネット上には、彼女たちとの生々しいやり取りや、彼のパワハラ発言を録音した音声データまでが拡散され、炎上はもはや手のつけられない状態になっていた。
「なんなんだ……一体、何が起こってるんだ!?誰が、誰がこんなことを!」
高級マンションの一室で、久遠寺は頭を抱えて絶叫した。メディア、大学、国税局、過去の女たち。まるで事前に示し合わせたかのように、あらゆる方面から、完璧なタイミングで彼の人生が破壊されていく。何者かの強大な悪意によって、自分が計画的に社会から抹殺されようとしていることだけは、愚かな彼にも理解できた。しかし、その黒幕が誰なのか、彼には知る由もなかった。
その日、僕は久しぶりに大学のキャンパスを歩いていた。すれ違う学生たちが、ひそひそと何かを噂している。
「聞いた?文学部の久遠寺教授、ヤバいらしいよ」
「論文パクリだけじゃなくて、女子学生にも手出してたってマジ?」
「もう大学クビになるらしいよ。自業自得だよね」
その名前を聞いても、僕の心は不思議なほど凪いでいた。かつて僕の世界のすべてだった女性を奪った男。数日前なら、憎しみで気が狂いそうになったかもしれない。だが今は、「ふーん、そうなんだ」としか思わなかった。
僕の心は、すでに彼らから遠く離れた場所にあった。傷が癒えたわけじゃない。ただ、僕にはもっと大切な、守るべき日常がある。僕の帰りを待ってくれている、世界で一番温かい家族がいる。
その平穏が、家族の歪んだ愛情と冷酷な復讐の果てにもたらされたものだとは知らずに、僕はただ、澄み渡った青空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
新しい一歩を、踏み出そう。心からそう思えた。




