第一話 崩壊の前奏曲(プレリュード)、そして家族会議は静かに開かれる
僕、天羽奏太の世界は、生まれる前から完璧に設計されていた。
都内の一等地に建つ、まるで双子のように寄り添う二軒の家。その片方が僕の家で、もう片方が白鐘さんの家。僕と彼女、白鐘栞は同じ日に生まれ、産院の隣り合うベッドで初めて出会ったらしい。
物心ついた頃には、彼女の存在は僕の日常に溶け込んでいた。どちらかの家で宿題をするのが当たり前で、夕飯も一緒に食べることが珍しくない。休日には両家の家族全員で出かけることもあった。天羽家と白鐘家は、ただの隣人ではなく、一つの大きな家族のような共同体だった。
そんな環境で育った僕たちが、自然と互いを意識し、惹かれ合ったのは当然の帰結だったのかもしれない。
「ねぇ、奏太」
高校の卒業式の日、桜の花びらが舞い散る帰り道で、栞は少しだけ頬を染めながら僕の袖を掴んだ。
「私たち、これからもずっと一緒にいられるかな」
「当たり前だろ。今までだってそうだったじゃないか」
「ううん、そうじゃなくて。恋人として、だよ。……大学を卒業したら、お嫁さんにしてくれる?」
その言葉に、僕の心臓は大きく跳ねた。それは、ずっと僕が夢見ていた未来そのものだったから。
「……喜んで」
僕の答えに、彼女は世界で一番幸せそうな顔で笑った。
その日から、僕たちは正式に恋人になった。両家の親たちは「何を今さら」と笑いながらも、心から祝福してくれた。大学を卒業したら結婚する。それは、僕と栞の間で交わされた、確固たる未来の約束だった。
彼女は太陽みたいに明るくて、いつも輪の中心にいる人気者。そんな彼女が、地味で物静かな僕の隣を選んでくれたことが、僕のささやかな誇りだった。彼女の隣にいるだけで、僕の世界は色鮮やかに輝いて見えた。疑うことなんて、一度もなかった。この幸せな日常が、永遠に続いていくのだと、僕は信じてきっていた。
その、運命の日が訪れるまでは。
季節は梅雨。朝から降り続いていた雨が、夕方になって一層その勢いを増していた。大学の講義を終え、僕は折り畳み傘を片手に駅前の商店街を歩いていた。母さんから頼まれた夕飯の買い出しのためだ。
馴染みの八百屋で新鮮な野菜をいくつか選び、商店街のアーケードを抜けて大通りに出た、その瞬間だった。
視界の端に、見慣れた姿が映った。
長い黒髪、華奢なシルエット。雨に濡れないよう、少し俯き加減に歩くその横顔は、間違いなく僕の恋人、白鐘栞だった。
「栞?」
思わず声が出そうになるのを、寸でのところで飲み込んだ。声をかけようと一歩踏み出した足が、コンクリートに縫い付けられたかのように動かなくなる。
彼女は一人ではなかった。
栞の隣には、僕の知らない中年男性が立っていた。歳の頃は四十代だろうか。上質なスーツを着こなし、落ち着いた雰囲気をまとったその男は、大きな傘を栞のほうへと傾け、彼女の肩を優しく抱き寄せている。栞は、その腕に何の抵抗もなく身を委ね、むしろ安心しきったような表情で男を見上げていた。僕の知らない、甘えたような、蕩けるような顔で。
「……誰だ、あの男」
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。違う、何かの見間違いだ。そう自分に言い聞かせようとするが、目は二人から離せない。男の顔に見覚えがあった。そうだ、あれは以前、栞が楽しそうに話していたゼミの担当教授、久遠寺雅臣に違いない。「すごく知的で、ダンディで、憧れちゃう」と、無邪気に笑っていた彼女の顔が脳裏に蘇る。
憧れ。その言葉が、今は鋭い刃となって僕の胸を突き刺した。
やがて、二人は横断歩道を渡り、きらびやかなネオンが明滅する一角へと歩いていく。ホテルや雑居ビルが立ち並ぶ、いわゆるホテル街と呼ばれる場所だ。僕が立ち尽くしていることにも気づかず、二人は一つの瀟洒なデザイナーズホテルのエントランスへと吸い込まれていった。
腕を組み、ぴったりと寄り添いながら。
その光景を最後に、僕の世界から一切の色が消え失せた。
手から滑り落ちた買い物袋が、水たまりに落ちて派手な音を立てる。散らばったトマトやじゃがいもが、まるで僕の砕け散った心のように見えた。
冷たい雨が、容赦なく僕の全身を叩きつける。傘を差す気力もなかった。ただ、二人が消えていったホテルの入り口を、亡霊のように見つめ続けることしかできなかった。
あの日から、僕の時間は止まった。
どうやって家に帰ったのか、記憶は曖昧だ。気づけば自室のベッドの上で、濡れた服のまま横たわっていた。スマホには、栞からの『今日はゼミの飲み会で遅くなるね!』というメッセージが届いている。その文字が、僕を嘲笑っているように見えた。
何も考えたくなかった。何も感じたくなかった。僕は大学を休み、部屋に引きこもった。食事も喉を通らず、ただただベッドの上で天井の染みを数えるだけの日々。栞からの着信やメッセージがスマホを震わせるたびに、心臓が凍り付くような感覚に襲われた。返信する言葉が見つからなかった。
三日が過ぎた頃、部屋のドアが静かにノックされた。
「奏太、入るわよ」
凛とした、けれど心配の色が滲む声。母さんの、天羽玲花の声だった。返事をする間もなく、ドアが静かに開かれる。そこには、母さんだけでなく、父さんの龍聖、兄さんの凱斗、姉さんの詩月まで、家族全員が揃っていた。
「奏太、顔色が悪いぞ。どうしたんだ」
重厚な声で問いかける父さんは、大手総合商社の専務取締役で、その風格は家の中でも変わらない。
「お前が大学を無断で休むなんて、初めてじゃないか。何かあったのか」
警察庁に勤めるエリート官僚の兄さんが、鋭い観察眼で僕の全身をスキャンするように見つめる。
「奏太、ご飯食べてないでしょ。痩せたよ」
カリスマイラストレーターとして活躍している姉さんが、眉を寄せて僕の頬にそっと触れた。その指先がひどく冷たい。
家族の顔を見て、ずっと堰き止めていた何かが、決壊した。
「……栞が」
僕の口から漏れたのは、掠れてほとんど音にならない声だった。
「栞が、知らない男と……ホテルに……」
言葉は途切れ途切れで、自分でも何を言っているのか分からなかった。けれど、家族は黙って僕の言葉を待ってくれた。ぽつり、ぽつりと、あの日の光景を語る。男が久遠寺という大学教授であることも。
話し終えた時には、僕の頬を涙が伝っていた。怒りなのか、悲しみなのか、それとも絶望なのか。自分でも分からない感情の奔流に溺れそうだった。
そんな僕を、母さんが優しく抱きしめてくれた。
「そう……辛かったわね、奏太。全部、話してくれてありがとう」
その背中を、父さんが大きな手でそっと撫でる。兄さんと姉さんも、僕のベッドの傍らに腰を下ろし、ただ静かに寄り添ってくれた。
「お前は何も悪くない。全部、お前を裏切った奴らが悪いんだ」
兄さんの低い声が、妙に冷静に響いた。
「そうだぞ、奏太。奏太を悲しませる害虫は、一匹残らず駆除しないとね」
姉さんの声には、普段の柔和さからは想像もつかないような、冷たい怒りが宿っていた。
その日の夜、僕は母さんが用意してくれた睡眠導入剤を飲み、久しぶりに意識を手放した。家族の温かさに包まれて、少しだけ心が軽くなった気がした。
僕が深い眠りに落ちた後、天羽家のリビングで、世界で最も恐ろしい家族会議が開かれていることなど、知る由もなかった。
深夜のリビング。奏太の部屋から漏れる穏やかな寝息を確認した後、玲花は静かにドアを閉めた。彼女がリビングに戻ると、そこには龍聖、凱斗、詩月の三人が、まるで獣のような冷たい眼差しでソファに腰掛けていた。昼間の穏やかな父親、優しい兄、明るい姉の面影はどこにもない。
「さて」
最初に口火を切ったのは、家長である龍聖だった。彼の指が、テーブルの上に置かれた一枚の写真――詩月が早速調べ上げた久遠寺雅臣の顔写真――をトン、と軽く叩いた。
「この男だな。我々の宝である奏太の心を、土足で踏みにじった愚か者は」
「久遠寺雅臣。42歳。奏太と同じ大学の文学部教授。表向きの評判は悪くないようですが、少し調べただけで埃が舞い上がってきましたよ、お父様」
凱斗が、タブレット端末に表示された情報を読み上げる。その声には、法を守るべき警察官僚とは思えないほどの、昏い憎悪が込められていた。
「私もちょっとだけ、彼のパソコンの中を拝見させてもらったわ。栞ちゃん以外にも、何人もの教え子とよろしくやってたみたい。ご丁寧に、写真や動画まで保存してあって……吐き気がする」
詩月は心底軽蔑したように吐き捨てると、自身のノートパソコンの画面をテーブルの中央に向けた。そこには、常人であれば目を背けたくなるような、久遠寺の醜悪な私生活の証拠が大量に表示されていた。
玲花は、それらを一瞥すると、気品あふれる所作で紅茶を一口含んだ。そして、聖母のような笑みを浮かべたまま、静かに告げる。
「社会的に抹殺するだけでは、生温いわね。奏太が流した涙の分……いいえ、それ以上の絶望を、この男には味わってもらわないと」
彼女の言葉に、龍聖、凱斗、詩月が深く頷く。
「ああ、もちろんだ。まずは手始めに、私が懇意にしているメディアのトップに『興味深いネタがある』と連絡しておこう。論文盗用疑惑と研究費の不正利用、どちらがお好みかな」
龍聖が愉快そうに口角を上げた。
「僕は彼の過去の脱税疑惑と、不起訴になった暴行事件の資料を掘り返しましょう。担当検察官は私の同期です。再調査を『お願い』するのは、たやすいことですよ」
凱斗が淡々と、しかし確実に相手の息の根を止める算段を口にする。
「じゃあ私は、このお宝データを全世界に公開してあげようかな。彼の教え子たちのプライバシーには配慮して、ちゃーんと匿名掲示板に、ね。大学のサーバーを経由すれば、彼の仕業にしか見えないはず」
詩月が悪戯っぽく笑う。その瞳は、一切の光を宿していなかった。
そして、彼らは顔を見合わせる。奏太を傷つけた元凶は二人。もう一人、どうするか。
「……それで、栞ちゃんはどうする?」
詩月が問いかける。彼女の名前が出た瞬間、リビングの空気がさらに数度、冷え込んだ。彼女もまた、奏太を裏切った当事者だ。
沈黙を破ったのは、母の玲花だった。
「あの子には……何もしないわ」
「「「え?」」」
予想外の言葉に、龍聖、凱斗、詩月が驚きの声を上げる。
「玲花、本気か?あの子も同罪だろう」
「お母様、それでは奏太が納得しません」
「そうだよ、母さん!あの子が奏太を騙したから、こんなことになったんじゃん!」
家族からの反論に、玲花は静かに首を横に振った。
「いいえ。だからこそ、よ。あの子は根が純粋で、罪悪感を抱きやすい。私たちが彼女を責め、罰を与えれば、彼女はそれで『罪を償った』と錯覚してしまうかもしれない。それは、あまりに甘すぎる罰だわ」
玲花は、窓の外に広がる闇を見つめながら、氷のように冷たい声で続けた。
「私たちは、これからも白鐘家と『良き隣人』であり続けるの。栞ちゃんにも、今まで通り優しく接する。何も変わらない日常をプレゼントしてあげる。奏太を裏切ったという重い罪を背負いながら、誰からも責められず、ただただ私たちの変わらぬ優しさの中に放置される……。それが、あの子にとって最も残酷な、永遠に終わらない地獄になるはずよ」
「……なるほど。許されないことよりも、許されることの方が辛い、か。面白い」
龍聖が感心したように頷いた。
「物理的な罰よりも、精神的な拷問、ですね。確かに、そちらの方が彼女の心を確実に破壊できる」
凱斗も納得の表情を浮かべる。
「……そっか。奏太に何の感情も向けられなくなることが、あの子にとって一番の罰になるんだ。……最高に意地が悪いね、母さん」
詩月がようやく理解し、楽しそうに笑った。
こうして、天羽家による復讐計画の方針は決定した。
一人は、社会のあらゆるシステムによって徹底的に叩き潰され、奈落の底へ。
そしてもう一人は、一切の罰も与えられず、ただ日常という名の無間地獄の中で、精神を少しずつ蝕まれていく。
愛する息子のために、家族は悪魔になることを決めた。
静かなリビングに響くのは、四つのグラスが重なる、復讐の始まりを告げる冷たい音だけだった。




