花街にて(2)
「一階の部屋の扉を全て取っ払って広く見えるようにして、灯りは抑えめにしてたわね。それで、絨毯一枚にクッションや食器を並べておいてるのよ。そこで入り口で名前を呼んだ女と食事するのね。料理の値段は、普通に買って作って食べるものの五倍くらいかしら」
ミシュレの説明を受けて、なるほど、確かにキャバクラっぽいな、と私は頷いた。
向かいの見世、《緋色の空》はひっきりなしに人が入っていく。今は呼び込みも中の手伝いに忙しいのだろう、先程まであった姿もない。
「料理は? 料理はどんなのを出すんです?」
こちらの見世は向かいの見世の騒がしさに押され気味で、いつもくる馴染みのお客さんも今日は遠慮しているのか、あまりやってこない。
元々この見世は富裕層を主にお客としている。娼婦と静かな時間を過ごしたいと考えじっくりと夜を過ごす傾向があるように思えるので、こう騒がしいと寄り付きたくなくなるのかもしれない。
「料理っていうか、オードブルだったわね。見世で作ってる物じゃないわよ。さすがに厨房とか裏までは見れなかったけど、なんだったかしら、ほら、ハムとかサラミとか……もっと分厚い、肉料理」
「……テリーヌドパテ?」
「あ! そうそう、それよ! ちょっと驚いたわ。この世界にもあるのね」
私はクビラ街の料理対決でテオ・ルシタリア君が出してきたあのテリーヌを思い出す。
王都で流行っていると言っていた。この王都で手に入らないわけがない。
「既に商品化されてるものなら受け入れらるだろうし、あれなら保存がきくから食べきれずに捨てられるってことも少なくなりますね。お酒の肴にはとても合ってますし」
ふむ、と私は考える。
向こうの見世は、何も昨日今日考えついてキャバクラもどきを始めたのではないんじゃないだろうか?
「おいエルザ! 料理が足らん! 何か簡単で、すぐに作れる、新しくて見た目の良いものはないのか! 材料費ならいくらでも出すぞ!」
私とミシュレ、メリダさんの食事用に作っただけのアルボンディガスはそれほど量がない。案の定すぐに配り終えてしまったらしく、店主がドスドスと大股で歩いて私に向かってくる。
「だめよ。てんしゅさん」
オーダーですか? オーダーですね? と、私は少しワクワクして店主を迎える気だったが、そのずんぐりと丸い体にトン、と白い手を添えたのは、いつの間にか部屋から出てきたメリダさんだった。
「メリダ……」
支度を終えたメリダさんは夢のように美しい。
病的な程白い顔に、ぼんやりとした表情を乗せて、メリダさんはぐるり、と周囲を一瞥し目を伏せた。
「おそと、さわがしいわね。とてもにぎやかだわ」
「あ、あぁ……そうなんだ! このままじゃ、うちの売り上げに影響するし、あぁ、そうだ! お前からも言ってやってくれ! エルザの料理が色んな人に食べて貰えるならお前も嬉しいだろう!?」
「だめよ、てんしゅさん」
ぴしゃり、とメリダさんは店主の言葉を一蹴にする。
心の壊れた夢の中の住人とは思えないほど、はっきりとした拒絶の言葉だった。
「あれはだめ。あれは、よくないものになる。わたしたちは、おなじことをしてはだめだわ」
「し、しかしねぇ……! 勢いがある! 私にはわかるんだよメリダ! あれは金になるし、何より……新しい!」
この区域で高級娼館を長くやってきた店主の目は、これを新たな形の見世と見出したようだ。そのギラギラとした目をメリダさんに向けると、この街一番の娼婦である水晶の称号を持つ女性はシャラン、と布を美しく鳴かせた。
「すべてをうしなうことになるわ」
息を飲む程美しい人の、破滅の預言。
それはたわごとにしか思えないただの一言であるのに、メリダさんほどの美女がぼんやりとした目で告げると、神の神託を受けた巫女の言葉のような重さがあった。
「……わかった。見世は、これまで通りにしよう」
その不思議な説得力は、新たな金儲けのチャンスに眩んでいた店主の目を覚まさせたらしい。禿げた頭を一度ぱしん、と叩き、店主は顔つきを改める。そこにはいつもの、自信たっぷりで抜け目のないやり手の顔があった。
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「客と寝なくてもいいそうだよ」
「ただおしゃべりするだけで金が貰えるって? まさか、冗談だろ?」
「メシも客におごらせればたらふく食えて、自分の借金にならないんだって」
「一時間か二時間隣に座って、相手を良い気にさせりゃいいだけの簡単な仕事?」
向かいの見世がキャバクラもどきを始めて二週間。
私のいる見世の話題はいつも《緋色の空》のことばかりだ。
体が疲れず、楽しく喋ってお酒を飲んだり美味しい食事をするだけでいい、と、そういう噂というか、事実はこの見世だけでなくこの花街中で話題になっている程衝撃的な内容なのだ。
娼婦は体を売る。
男をその気にさせて、尽くして肉体や心に快楽を与える。
娼婦はただ裸になればいい。横になればいい、なんて、そんな楽なことではない。
私は時々、姐さんたちの愚痴を聞く。
その仕事は肉体的にも精神的にも負担の大きいものだった。
顔を合わせるのも話すのも初めての相手の性器を受け入れたり、きちんと消毒もしていないものを口に含んだりしなければならないのは、想像するだけでかなりの抵抗があるし、嫌悪感もある。
一晩に何人も、何度も性器を使い、休んでいる間もあまりない。
この世界は衛生面がそれほど劣悪なわけではないけれど、悪い病気だってある。常にそういった危険と隣り合わせで、そして、ただの性交渉ではなく男性を楽しませ、男性の望む通りに振る舞わなければならない。
常に演技し、気を張り詰めている。けれどもそうは知られてはならない。
どれほど心に負担がかかるものだろうか。
これがこの花街では普通のこと、あたりまえで、そうしなければ娼婦の仕事ではない。体を壊す者は多く、メリダさんのように心を壊す者だっている。けれど、娼婦とはそういうものだと、この街ではそうして生きて行くしかないのだと、思われていたところに、《緋色の空》では、そんなことはしなくてもいい、とそう広まった。
「アタシは信じられないねぇ。だって、この街にゃヤリに男は来るわけだろ? それがヤれもしない女に満足するかねぇ」
「いや、それが女の腕の見せ所なんだって。おだてておだてて、たらふく飲ませて食わせるんだよ。食べ物があれば酒も進むだろ? それで、酔って潰れちまうか、さすがに腹いっぱいで眠くなって帰るとか、そうなるって寸法よ」
ワイワイ、と姐さんたちは今日もお客がこないので、一部屋に集まって噂話を続ける。
「他の見世から《緋色の空》に移りたいって言ってる子もいるんだって?」
「そうそう、風呂屋で聞いたよ! まぁ、そりゃあ……そうだろうねぇ。でも借金があるじゃないか」
見世にいる娼婦たちは多額の借金をかかえて流れ着いたり、口べらしや様々な事情で売られた女性が行きつく場所だった。
気軽に見世を移る、ということはできないのだ。
「でもね、《緋色の空》の店主は借金を肩代わりしてくれるって噂があるんだよ。さすがに、これは嘘だろうけど」
「本当だったらいいねぇ。もう体を売らないでいいなら、長生きも出来るだろうし」
あれこれ話す娼婦たちは、最後のこの話題には夢見る少女のような顔つきになっていた。
私は何もわからない子供の顔でそれを黙って聞いていた。
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