セレーネ・ザークベルム
「どうして、こんなことになったのかしら?」
一人、屋敷の自室にてセレーネは呟いた。
目の前には磨き上げられら大きな鏡。映るのは金色の豪奢な髪を巻いた年頃の娘。手袋を嵌めた手を伸ばして、このまま通り抜けてしまえぬものかと、そんな埒もないことを考える。
あの悪夢のような夜からひと月。
クビラ街はなんとか、全ての住民が配給の列に並ばずそれぞれ元の生活を取り戻せるように、少しずつ形が整いつつあった。
これにはルシタリア商会の若き当主、テオ・ルシタリアが利益を考えずに多くの必要な生活物資を住民に貸し出してくれたからだろう。利息もなく、たとえば鍋一つをたった銅貨一枚でひと月貸す。それでは利益にならないだろうに、若きルシタリアは「いっそ無料でもいいんだが、タダというのは人の尊厳を落とす。きちんと対価を支払って借りているのだという心でなければ駄目なのです」と、そう言った。
セレーネは当初それが良く分からなかったが、ほどなくしてマーサがそれに倣い、領主家として無料で食事の配給をするよりも、銅貨一枚でスープとパンを、とした後の方が、人々の顔に生気が戻ってきた。
マーサ、マーサ、マーサのことをセレーネは考える。
彼女がいてくれてよかった。マーサがいなければ、この一月、ザークベルム家当主として振る舞う事が出来なかっただろう。
誰も、あの山から帰ってはこなかった。
長くセレーネを脅かしてきたロビン卿も、恐ろしい魔王のような男も、ルシアの子であるアゼルも、ミシュレに呪われた銀髪の少女も、そして己の半身であったイレーネも、誰も、誰も、帰ってこなかった。
弟であるグリフィスは行方不明だ。
街を見捨てて逃げたのだ、という者もいるが、そんな噂をマーサは否定した。怒ることのない、感情を荒げない娘だと思っていた彼女はグリフィスを悪く言う者がいると顔を真っ赤にして怒る。
しかし、グリフィスの行方はおろか、死体さえも見つかっていない。マーサには言えないが、もしかしたら逃げたのかもしれない、とセレーネは思っている。けれどあの大雪で、あの恐ろしい夜の中で、グリフィスが街を見捨てたとしてもセレーネは非難はしない。
あんなに恐ろしいことになるとは思っていなかった。
「……」
雪が解けて、露わになった何もかもをセレーネは忘れない。
たくさんの人が亡くなった。たくさんの家がつぶれた。たくさんのものが失われた。
「わたくしたちは、こんなことになるなんて、知らなかった」
手を組んだ。組まされた。
帝国から密かにこの国に入ったという、騎士ロビンと、幼いイレーネとセレーネは手を組んだ。
ある日、母の姿が見えず探しに行った。セレーネはいつものようにイレーネには見えない誰かとおしゃべりをしていたから、母がどこにいるか知っておいて、戻って来そうならイレーネを止めないと、とも思っていた。
『お母様……あぁ、なんて酷い』
どこをどう歩いたのかわからない。普段離れから出てはいけないはずだから、それほど遠くは行っていないと思うのに、気付いたらセレーネは井戸の近くに来ていて、そして、母の首を絞める父の姿を見た。
落とされる母の脚の先、荒い息遣いの父に気付かれないように咄嗟に身を隠し、セレーネは息を潜めた。そしてどれくらいしただろうか、セレーネは近くを通りかかったというロビン卿に声をかけられ、泣きながら己が目にした事を語った。子供の、順序が滅茶苦茶な、混乱しながらの話をロビン卿はゆっくりと、じっくりと聞いてくれた。そして泣きじゃくるセレーネを抱きしめ、安心させてくれた。
つい今しがた、己の父が母を殺すという残酷な光景を目にしたセレーネは、その優しい抱擁に安堵した。魔女の娘の生まれ変わりだと、呪われた双子だと忌み嫌われてきたセレーネは、ただ一人愛してくれた母を失ったショックを、ロビン卿を信じる事で紛らわそうとしたのかもしれない。
怖い怖いと怯えた自分を見て、ロビン卿が嬉しそうに笑った意味など気付かずに、ただ信じた。
「セレーネ様?」
「……マーサ、ごめんなさい、少し、ぼうっとしていましたわ」
扉を叩く音がして、外からマーサの声がする。
今日も会議だ。準備を終えた事は侍女たちから聞いているはずで、それでもまだ姿を現さないセレーネを迎えに来たのかもしれない。
マーサがいてくれて良かった、とセレーネは何度も思う。
彼女の立場は微妙だった。グリフィスの婚約者として迎えられてはいたものの、貴族や豊かな家の娘ではない。
だが、求心力があった。父クリストファのような、貴族らしい振る舞いではない。しかしマーサが微笑んで「貴方が頼りなの」と、まっすぐに相手に頼めばどんな人間でも、自分が最高の仕事をする優秀な人間のように思えるらしかった。雪でやわらかくなった土や、汚泥を漁る仕事をする者すら、名誉ある仕事をしているのだという顔で嬉々として働く。そういう魅力がマーサにはあった。
それであるから、魔女の娘だと忌み嫌われたセレーネが当主に立っても、暴動や目に見えての反対はなかったように思える。
いや、他に選択肢はなかった、というだけでもある。誰も口に出さないが、この悪夢のような出来事が魔女の仕業であることは気付いていた。けれど口にしない。魔女がどうなったのか、またあの踊り子たちが雪を降らせるのではないか、なぜこんなことが起きたのか、多くの人々はそれを知らない。知らされることもない。
だから、魔女の娘かもしれないセレーネが立つことを反対できなかった。もしかしたら、魔女がそう望んだ結果なのかもしれないと思っている者もいるらしい。
「セレーネ様、顔色があまり良くありませんね」
「いつものことですわ。マーサこそ、ちゃんと夜は眠れていて?」
入室したマーサに気遣われ、セレーネは鏡の前にある頬紅を手に取る。マーサはやわらかく微笑むだけでその問いには答えない。嘘はつかぬ彼女は、答えられないことには沈黙で返すことがあった。
「……貴方を村に帰してあげられなくて、申し訳ないと思っております」
グリフィスがいないのだから、マーサをこの地に留める理由はない。本来この街の人間ではないのだから。
だが、マーサがいなければセレーネは困る。困るが、目の下に隈のあるマーサを見て何も思わないわけではなかった。こちらの都合で連れてきて、ザークベルム家のために利用しようとして、そして今も、セレーネの力が足りない部分を補わせている。
「もう冬が来ます。村のこと、気がかりでしょう」
「それは、えぇ……でも、私がここで待っていないと、グリフィス様が慌ててしまいそうで」
「弟を信じているのですね」
「良い所を見ることはできなかったけれど、優しくしてくれようと、そう思ってくださっている心は感じていました」
「酷いことばかりしていたでしょう?」
「えぇ、ですから、きちんと沢山、優しくして頂こうと思っています。具体的にはそうですね、あれこれ考えているのですが、私の村に一緒に来て貰って、私の大好きなワカイアたちの毛を刈るのをやってもらうとか」
にこにこと楽しそうに話すマーサは、この状況を苦しいとは思っていない様に見えた。
逃げ出したい、とは思わないのだろうか。
そんなことをセレーネは考える。全てを捨てて、何もかも、もう関係ないと煩わしいとどこかへ逃げてしまいたく、ならないのだろうか。
そんなことを考える。そんなことを思う。
けれどセレーネは口に出すほど恥知らずではなかった。
「今日の話合いは、確か……どこまで教会の介入を許すか、でしたわね」
二人でいつまでもおしゃべりをしていられない。
コトン、と頬紅を置き自分の顔色を確認して、セレーネはマーサと共に部屋を出る。
「えぇ。聖王国からの支援……ということで、物資や神官、魔法使いの方まで来てくださっています」
「魔法使いまで、というのは不自然ですわね」
「そうなんですか?」
そのあたりの知識はマーサにはない。
貴族や指導者としての教育を受けていない、本来ただの村娘で終わる筈だったのだからそれは彼女の非ではなかった。
「魔法使いというのは貴重な存在ですの。魔力のある貴族であれば、魔術を扱うことはできますけれど、魔法となれば、それは一種の奇跡ですから血筋ではなくて生まれ持った才能に、更に最高の環境での教育があってこそ、魔法使いとなれます」
「……スレイマンさんは魔法使いだったのかしら?」
ぽつり、とマーサが呟く。それはセレーネに向けられた言葉ではなかったし、答えられないものであったので聞こえないふりをした。
どういうわけか、聖王国が今回のザークベルム領への支援を、高額の支援金だけではなく物資や人員を送ってきてくれている。こちらが要請する前に、そして、なぜこんなことになったのかを、なんの説明も求めずに、救いの手を差し伸べてきた。
在り難い話ではある。だが早すぎる。
セレーネ達は、聖王国がザークベルム領の自治権を手に入れようとしているのではないか、乗っ取りかと、そんな憶測が出ているが、こちらはその手を拒めるほど、復興していない。
それであるから、どの程度まで聖王国の要求を受け入れられるか、まだ何も要求されていないが、ある程度の覚悟はしておくべきだと、支援を受け入れることを前提にして、どこまで自領を売る覚悟を持てるかと、その話合いをするのだ。
「帝国からも、いずれ何か言ってくると思いますわ」
「……婚約の件ですね」
「えぇ。ロビン卿が進めていた話ですの」
ロビン卿はグリフィスを殺す計画だった。アグド=ニグルの貴族の男を自分が夫として迎え、帝国側が冬の踊り子の雪について研究できるよう、そして魔女を殺し、その座を奪うとか、その辺りのことは詳しく教えてはもらえなかったが、聖王国の管理する結界内にある小国エルナの一領地であるザークベルム領を巡って、何やらあれこれ計画されている、ということはわかっていた。
歩きながら、一度、セレーネは振り返る。
「……」
「セレーネ様?」
少し後ろを歩いているのはマーサだ。
「……いいえ、なんでもありませんわ」
自分と同じ姿を、脳裏に浮かべる。
イレーネと、ずっと一緒に生きていければと、幼いころから思っていた。双子で、何もかもが同じだった。
いつもいつも一緒で、けれど歩く時は一歩、イレーネは自分の後ろにいた。
それが今はいない。もういない。どこにもいない。
山から彼女は戻ってこなかった。
ロビン卿は、イレーネを魔女の器にすると言っていたから、殺されることはないと信じていたのに、戻ってこなかった。
(ここから逃げ出して、イレーネを探しに行けたら)
セレーネは毎朝毎晩、双子の片割れが死んだのか、まだ生きているのか、それを知りに行きたいと、思っている。
けれどできない。それはできない。
「わたくしの所為で、沢山の人が亡くなった」
ただ、死にたくないだけだった。
ただ、生きたいと思って、殺されないようにロビン卿の手を取った。悪意など、己にはなかったのに、あの雪が落ちたのは自分の所為でもあると、セレーネは受け止めた。
「わたくしはこの人生をかけて、償いをしなければなりません」
呟き、ぐっと、セレーネは顔を上げて前へ進む。
どちらが魔女の娘の生まれ変わりなのかと、わからないのなら、答えないのなら二人ともそろって閉じ込めてしまえと扱われた憐れな娘の、決意の時だった。
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引っ越しやら職場の移動やら何やらでてんてこまい(/・ω・)/
でも頑張って更新速度を上げたいです。見捨てないで読んでくださっている方々がいてとても救われています。
あとそろそろ料理パートしたい。
タイトルの通り、料理がしたい。させたい。そんな状況じゃない。なぜだ。




