可愛い夢の終わり
「スレイマン」
動かない身体を何度も揺さぶる。
強く、強く、何度も何度も何度も、名前を呼んで大きく、揺さぶる。
血は出ていない。どこにも、大きな怪我はない。
「ねぇ、待って。待って、どうし、よう。どうしよう」
ねぇ、ねぇ、ねぇ。
どうしよう、どうしよう。
待って、ねぇ、待って。
何もいつもと変わらない。いや、いつも眉間に寄っていた皺がなく、顔は冗談のように穏やかだ。
私は頭の中が真っ白になる。
ただ、どうしよう、と、そう、混乱していくばかり。
動かない。冷たい。どんどん、冷たく、なっていく。
どうしよう、どうしよう、待って、ねぇ待って。
信じられない。信じたくない、のではなくて、信じられない。
何が起きたのか、起きているのか。
ただ、待ってと、そう、受け入れられなくて、ぐるぐると、気持ちが悪くなる。
「私、ねぇ、私、違う、私が、私の、所為」
ガタガタと体が震え始める。
受け入れたくないものがじわりじわりと自分の中に染み込んでいく。スレイマンの体に触れた部分から、恐怖が毒のように体の中に染み込んでいくようだった。
違う、違う、これは違う。
ただ拒絶する。こんなの、違う。
「スレイマン、ねぇ、スレイマン」
何か、何か起きないだろうか。
奇跡とか、魔法とか、何か、だって、スレイマンは誰より強くてすごくて、こんなにあっけなく、こんなに、こんなことが、起きるわけない。
私は右の掌を握りしめたまま、ただじっとスレイマンを見つめた。
けれど、そのままいくら待っても、呼んでも、呼んでも、待っても、その赤い瞳が開かれることはなかった。
ずっと、なかった。
「あは、はは。すごいなぁ、まさかの身代わりになるとか、想像もしなかったけど、でも、考えなしだね。守って、かわりに死んで、その後どうする気だったのかな」
茫然とする私を眺め、赤い髪の少女がけらけらと笑う。その隣には剣を構えた騎士ロビン。
「っ、ご主人様。私が時間を稼ぎます、どうかお逃げください」
「アゼルさん。スレイマンが」
「ご主人様」
状況はわかる。わかってる。
でも、私は首を振った。
「スレイマンが起きないんです」
「ご主人様……どうか、立って、走ってください。その方はもう……」
わかってる。わかっている。
私を見て、唇を噛むアゼルさんの悲し気な様子から、私は自分がどんな顔をしているのかわかった。
「でも、でも、何か特別なことが起きるかもしれない、だから、だから」
ここにいて、スレイマンの隣にいて、待っていないと。
言って、首を振る。
「アゼルよ。その少女を憐れと思うのならここで死なせてやれ」
「ロビン卿」
剣を抜く音がした。切りつけ合う音が何度かして、そのうち音がしなくなったけれど、私はスレイマンだけを見ていたから、自分の足元が濡れてきても、振り返らなかった。
「ねぇ、こういう時ってさ、ほら、歯を食いしばっても立ち上がってさ、生きるんだーって、元気よく走り出すものなんじゃないの?」
私の向かい側に、いつの間にか赤毛の少女がしゃがみこんでいる。こちらを見つめ、きょとんと、不思議そうに、甚振るように首を傾げている。
「折角助けてもらった命だよ? ほらほら、立ち上がらないとさ。彼の死が無駄になるよ? 君はさ、ほら、生きないとって、そう決意しようよ。そうしたら、このぼくがちゃんと苦しめて殺してあげるからさ。彼も無責任だね、自分が死んじゃったら、君を守れないのにねぇ」
「どうかな、少なくとも一度は、僕が守れそうだ」
知らない声が聞こえた。
「!!」
スレイマンの体から、いくつもの魔法陣が浮かび上がる。バチバチと音を立てて、あたりの空気を震わせて、一瞬目が眩むほどの光ののちに、ばさり、と広がったのは白く、ただ純白の法衣。
「聖王国の、大神官か」
「白亜の大神官ラザレフと申します。悪意の炎の魔女よ、この少女は我ら聖王国が聖女として迎え入れる、我らの保護を受ける者。貴方が大国アグド=ニグルに関わり合いがあるのなら、政治的な判断をしていただきたい」
「これ、どうなってるの? ふぅん、転移の魔術式……とかじゃないね、珍しい魔法だ」
現れたラザレフさんは、私とスレイマンを一瞥しただけで何も言わず、淡々と赤い少女に向かい言葉を紡ぐ。
以前のようにモーリアスさんの体ではない。真っ白い髪に白い肌、着ている服も白く、どこまでも純白。スレイマンとは対照的だ。
「ただの一度切りの魔法ですよ。魔王の魂は我ら人間種の檻の中にあり続けねばならない。それであるから、その器が死した時は素早く、迅速に死体を回収できるよう、大神官がその場に強制的に召喚される。もっと他の魔法を刻みたいところですが、何分、我らが出来ることは少ないもので」
「ふぅん、そう。聖女を作ったり、魔王を巡らせたり、君たちは本当に酷いことばかりするなぁ。うちの皇帝も、君たちほど残酷になれればもっと楽なのにね」
淡々と話を進めていく二人を眺め、私はラザレフさんの白い服の裾に手を伸ばした。
「ラザレフさん」
「エルザちゃん。――まさか、彼が死ぬなんて、本当。予想外過ぎる」
「ラザレフさんは、大神官なんでしょう? とても、強くて、スレイマンだって、ラザレフさんは強いって言ってて、なら、大神官なら……」
「生き返らせたりは出来ないよ。御伽噺にあるような、死者蘇生や復活、なんていう奇跡は、存在しない」
ラザレフさんは片手に持った錫杖をトン、とついて魔法陣を展開させる。
光が溢れ、私たちの体を包みそのまま浮遊するような感覚の後、私の意識は遠のいた。
++
ラザレフは自分が意外にも、ショックを受けているということに驚いていた。
魔王の魂を持つ存在。人間種の牢獄の罪人。世界に穴を空け、今も大地を飲み込む泥を注ぎ続けている魔族たちの王。それが、スレイマン=イブリーズという男の正体である。
可能な限り生き続け、そして死すれば直ちにその死体は回収されて、爪の先一つ無駄にしないように研究、実験、資料に使われる。
そういうものだ。そういう、手はずだ。
しかし今、ラザレフは。人間種の守護者たる白亜の大神官ラザレフは、自分の人生を歪め続けた存在が死した。その事を、自分がどう感じているのかを考える。
大神官としてなら、今後の対応だ。
まさかこんなに早く死ぬとは思ってもいなかったから、まだ次の、魔王の魂を封じる器を産む聖女の選定はされていない。自分が推薦した聖女ミルカは優秀だったが、先月ドゥゼ村に赴いた際に、竜騎士や他の派遣神官からその振る舞いの報告を受けている。
星屑種に恋心や関心を抱かせられなかった娘は聖女になどなれない。彼女なら年齢的にも次の魔王の器を身籠れただけに、残念だ。
魔王の魂が一時的に人間種の器から離れたとなれば、魔族たちの力も活性化されるだろう。国境やそれぞれの結界を守る兵を、魔術師や魔法使いを、増員せねばならない。
そうだ、考えることこれからやらねばならない事は多くある。
「なので、僕は立ち止まっている場合じゃないんだけど」
呟いて、ラザレフは自分と一緒に転移してきたエルザを見下ろす。意識を失っているが、どこにも外傷はない。
少し離れた所には、騎士の青年が同じように気絶している。外傷はあるけれど命に別状はない。戦ってたようだが、手加減されたのだろう。血は酷いのに悉く、急所を外れている。
泉のほとりは嘘のように静かで、ラザレフはゆっくりと立ち上がり、エルザの傍にあるスレイマンの死体を見下ろした。
ラザレフはただの人間だった。
ただの、運悪くスレイマンと同じ日に生まれただけで、たまたま聖女エルジュベートに見つかって、スレイマンの身代わりに塔に閉じ込められた。
逃げられぬよう何も覚えぬよう何も感じないように、四肢や視覚や味覚、聴覚を奪われた。ガニジャで満たされた棺の中に沈められ何年も、何年も、何年も、ただ生かされた。死なぬように聖女の祝福を受け、ただ生かされた。
それが、実は聖女が裏切っていたと判明して、誰の謝罪もないままに、ラザレフは生身の凡人であったのに、聖女の祝福を受け続けガニジャで満たされ続けたために、大神官となった。
「僕は君を憎んで良いと思う」
足元の、死体に向かって呟く。
今のこのラザレフの体も自分の実体ではない。一番相性の良い神官の体を使っている。本体である自分の体は沢山の管で繋がれ、今も醜く生かされている。自分の体は塔から出ることはない。どこへでも、自由に行き、自由に振る舞ったスレイマンとは違う。
それを羨ましいと感じているのだろうか。わからない。
だが今、自分はショックを受けているとラザレフは感じた。
彼の死が、ちっとも嬉しくなかったのだ。
「聖王都じゃなくてここに飛ばされちゃったから、少しだけ考える時間を貰えたって前向きに考えようかな?」
「貴方が、人間種がどうなろうと私は何一つ構いませんよ。私の乙女を置いて去りなさい」
しんみりと感慨に耽ろうかと思ったが、そう都合よく最後のお別れなど言わせてはもらえないらしい。
「星屑殿」
ラザレフは立ち上がり、己の知る限り最上級の礼を取った。
「私の転移魔法に干渉し、こちらへ誘導して頂けたお陰で悪意の魔女の追跡を逃れられました。かの魔女も貴方様を恐れたのでございましょう」
美しい泉の淵に現れたのは、かの深緑の国のエルフたちの美しさも霞む程の美貌の青年。いや、歳など見かけの通りではない。輝く長い髪をさらりと揺らしながら、結界の主である星屑種は、ラザレフの足元をちらりと一瞥した。
「世辞など不要。私は私の乙女を助けたかっただけ」
この星屑はエルザを大切に思っているらしい。
これは良い事だ。ラザレフは計算を始める。
己の使える全ての術、聖王国の優秀な魔法使い、魔術師達を総動員して、魔王の魂を魔族たちから守り続けるのに何年稼げるだろう。その間にエルザをこちらの定める聖女として教育し、魔王の器を孕ませられるだろうか。あの少女は今、まだ4,5歳程度だろう。早ければ五年、耐え続ければ、再び魔王の魂を人間種の檻に入れる事が出来る。
五年、そう計算し、ラザレフは気が遠くなるような思いがした。
一瞬で一国を灰にするような種族から、世界を五年も守り続けられるものだろうか。その間にどれ程の国が滅ぼされ、人が死ぬだろう。
「……良くない事を、考えているな」
「人間種の為の事しか、僕は考えません」
己の思考が読まれたわけではないだろうが、ぽつり、と星屑種が眉を跳ねさせながら呟くので、ラザレフはにっこりと笑顔を浮かべ詮索されないよう努めた。
「スレイマンが死したので、この少女は我ら聖王都が保護させていただけないでしょうか。正しく聖女としての教育を受け、貴方を御慰めする舞いや歌を覚えさせましょう。これまでの聖女のように、毎年貴方の元へ彼女を向かわせます」
「何様のつもりだ? 人間種の肉塊よ」
ふわり、とラザレフ以上の微笑みを、星屑種はその美貌に浮かべる。息が止まる程の美しい微笑だが、ラザレフは魂を鷲掴みにされたような、息苦しさを感じる。
「それはお前たちの都合だ。お前達の目線だ。お前たちの選択だ。私は関係のない。私の乙女は傷付いている。お前達はいつも、私の乙女達を傷付け苦しめる。だから駄目だ。その乙女はやらぬ。お前達が私に差し出すのではない。エルザは私の乙女、私から奪うな」
逆鱗に触れたらしい。
ラザレフは平伏し、赦しを請う。だが、口元ばかりは微笑みの形を浮かべている星屑種はけして許さない。
「星屑さん、スレイマンを生き返らせられますか」
このままラザレフは、自分が首を掻き切るまでこの星屑種は人類を許さないのではないかと、そう感じた。だが、その答えを出す前に、ふらり、と隣で起き上がる気配がした。
「エルザちゃん」
「ラザレフさんが、人間が無理でも……星屑さんなら、できませんか」
ふらふらと、頼りない体で、真っ白になった顔で銀髪の少女が星屑種に問いかける。座り込んだまま、スレイマンの手を握り祈るようなエルザに、星屑種は首を振った。
「人間種は死することが勤め。そしてそう望まれているのです。乙女よ、死んだ者は生き返りません」
「彼の体は聖王都が引き取るよ。ちゃんと埋葬してお墓も作ってあげるから、ね、エルザちゃんも一緒に聖王都に行こう。彼の使っていたお屋敷はそのままだし、そこから学校にも通わせてあげる。君の人生はまだ長いんだし、彼だって、君が幸せに、素敵な人生を生きる事を望んでいると思うんだ」
ラザレフはエルザを懐柔しにかかった。
星屑種を説得するのは不可能だ。思考からして人間種とは違う存在を、どうこうするよりは、エルザを説得する方が容易い。
エルザはこちらを振り向かず、首を振る。
「異世界なんです、だって、魔法や、魔術や……魔女とか、聖女とか、結界とか……あるじゃないですか。異世界なんだから……きっと、人を生き返らせることだって」
ぶつぶつと呟き、よく意味の分からないことを言う。
彼女は現実を受け入れられないのだ。子供なら当然のこと。突然親しい、誰よりも近しい人が死んだので、受け入れられず、拒絶しているのだと冷静に判じた。
「エルザちゃん」
だが今は、少女のショックを気の毒に思っている余裕はない。
こちらは人間種の全ての命と平和がかかっているのだ。
エルザには聖女になってもらわなければならない。
「君の所為で彼は死んだんだ」
「……」
「だから、君は生きなきゃならないし、君を庇って彼が死に、世界が滅びるようになったのなら、君は世界を救わないといけない」
優しい言葉など彼女にかけても届かない。
なら、壊れそうな心を一度粉々に砕いて、その欠片を型に嵌めて、押し込んで、別の形にしなおすのが、一番早い。
「君が彼を連れ出さなければ、彼は聖なる森でひっそり生きて、平和に死んだ。けれど君が連れ出して振り回して、色んな予定が狂ってしまった。君が、自分の思った通りに生きようとした所為で、たくさんの人が死ぬ。いいや、既に死んだだろう。彼だけじゃない。トールデ街の青年、クビラ街の領主、街の人々、彼らは君が彼と生きようとしたから、死んだ。君は、君の望んだ幸せは、君以外を不幸にする」
その虚ろな青い瞳を覗き込み、ラザレフは囁き続けた。
星屑種は邪魔をしない。それをただ聞いている。先程の逆鱗が嘘のようだ。物事のとらえ方が人間種とは違うとはいえ、その奇妙さを不審に思っている余裕はない。
ラザレフは、どんどん顔色が悪くなり、だが現実に引きずり戻された顔になるエルザの頬に触れる。
「君はその人生をかけて償いをしなければならないんだよ」
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